第70話 信頼の合金"信用創造エレクトラム"〜信用精錬中〜③
朝。
《匠の鎖・本店》の前には、白布に墨で大書された貼り紙が風に揺れていた。
「店主が異世界転生したため、しばらく休業します」
通りの人々が立ち止まり、ざわつく。
「転生って……死んだのか?」「いや、どこかの国に逃げたんだろ!」
怒号が交じり、群衆が店先に押し寄せる。
男たちはこぶしを握り、シャッターを叩きながら叫んだ。
「舐めてんのかしね!」
「ルオ・ラザール出てこい!」
「ふざけるな! 金を返せ!!」
怒声が石畳を震わせる。
周囲の店が一斉に扉を閉ざし、路地の奥の猫すら逃げた。
店の前では怒号が飛び交っていた。
「返せ!!」「どこに隠した!!」「ルオ・ラザールを出せ!!」
男たちは証書を握りしめ、殴り合いになりそうな勢いだ。
紙がひらひら舞い、誰かがそれを奪い合う。
――その騒ぎを、向かいの喫茶店の二階からルオたちが見下ろしていた。
シエナが顔を青くして言った。
「やっば……みんな本気でキレてますよ! 今にも店、燃えますって!」
ルオは窓の外を見たまま、グラスを指で転がした。
「昔な……“チューリップ”って花で同じことがあったんだ。」
リシュアが呆れたように眉を上げる。
「花の話をしてる場合か?」
「いや、笑えるんだよ。」
ルオは口角を上げた。
窓の下で誰かが怒鳴る。
「ラザール! 俺の銀を返せぇぇ!!」
「ある国で、チューリップの球根が金より高くなった。
最初は貴族の庭の飾りだったんだが、
誰かが“転売すれば儲かる”って気づいた。
それからはもう、花が咲く前に次の奴が買って、
さらに次の奴が“もっと高く売れる”って叫んだ。
チューリップによる熱狂――“チューリップ・マニア”って呼ばれたらしい。」
ルオは笑みを崩さず続けた。
「球根ひとつで家が建つ。
職人が道具を売って球根を買い、神父が説教の途中で相場を聞く。
酒場は株取引所、祈りの言葉は“今日の値段はいくらだ”。
花は咲かなくても値段は咲いた。
数字が花びらになって、国中を覆った。」
シエナが身を乗り出した。
「で……どうなったんすか?」
ルオは笑いを噛み殺し、肩をすくめた。
「ある朝、誰かが言った。
“もうチューリップはいらない”――たったそれだけで、
国が散った。
市場も、家も、信頼も。
信じる心で咲いた花が、“疑う”という水で全部枯れた。」
た。」
「返せぇぇ!!」
窓の下から怒号が上がる。
ドン、と木の割れる音。
炎の匂いがかすかに漂う。
リシュアが眉をひそめる。
「……今の、火か?
シエナが息を呑む。
「……火、出てるっすよ!ルオさん!」
通りには、笛の音と怒号が響いていた。
黒い制服の警邏隊が、群衆を押し返している。
「下がれ! 火を止めろ!」「証書を持っている者はその場に伏せ!」
――その混乱を、喫茶店の2階から静かに見下ろす男がいた。
ルオ・ラザール。
まだ湯気の立つ紅茶を片手に、まるで舞台の終幕でも見物しているかのように。
「銀が燃えるっすーーー!!!」
「銀の融点は九百六十度だ。火事ぐらいじゃ溶けないだろ。」
「なんでそんな落ち着いてるんすかあああ!!!」
ルオがのんびり紅茶を置いた、その瞬間――
ダンダンッ! と階段を蹴り上げる音。
扉が勢いよく開き、赤い制服の女が踏み込んでくる。
「――貴様、こんなところで何をしているんですか!!」
ルオは紅茶を一口すすり、淡々と答えた。
「なにって?紅茶を飲んでいるんだけど」
「貴様のせいで、この街が混乱しているんですよ!」
エレーヌ・クロードの声は、怒りと失望を孕んで震えていた。
窓の外ではまだ火が上がり、人々が証書を振りかざして叫んでいる。
エレーヌは一歩前に出た。
制服の裾が揺れ、ブーツの踵が床を鳴らす。
「ルオ・ラザール。」
その声は冷たく澄みきっていた。
「あなたを、以下の罪状により拘束します。」
手元の封筒から、逮捕令状が広げられる。
読み上げる声には一切の感情がない。
「第一項。風説の流布および虚偽取引――王都商環法第百二条。
市場に根拠なき噂を流し、相場を攪乱した罪。」
「第二項。相場操縦――同法第百七条。
虚偽の契約証書を用い、価格を意図的に変動させた罪。」
「第三項。無登録信用証取引――公認商務規程第十二条。
認可を得ず、証券を発行・譲渡し利益を得た罪。」
「第四項。詐術および欺罔――刑法第六十三条。
実体なき証書により、市民から金銭を詐取した罪。」
沈黙。
リシュアとシエナが息を呑んだ。
ミモザは「あらまぁ……」とだけ漏らす。
だが当のルオは――
ゆっくりと紅茶を置き、
静かに両手を差し出し
だが、ルオは――笑っていた。
「はいどうぞ。」
エレーヌが一瞬固まる。
「……抵抗しても無駄、って――あれ!? しないんですか!?本当にしないんですか!?」
「しないよ。」
「なんでですか!?!?」
シエナが慌てて叫ぶ。
「そうっすよ! “縁”とか“信用の合金だー”とか言って、
最後まで見苦しく悪あがきするのがルオさんじゃないっすか!!」
ルオは肩をすくめ、少しだけ苦笑いした。
「いやー、流石にな。店、燃えてるし! ……やりすぎちゃったかなって。」
「軽っ!!!」
シエナの絶叫が店内に響く。
エレーヌは頭を抱えた。
「“やりすぎちゃった”で済むと思ってるんですか!?!?」
リシュアがぼそりと呟く。
「……ルオの詐欺にしては、雑だったな。」
ルオが即座に振り返る。
「いや、詐欺じゃなくて、広告宣伝だって言ったじゃん。」
「は?」
「チューリップマニアの真似して話題になったらいいなっていう、
キャンペーンのつもりだったんだけど――途中で楽しくなっちゃってさぁ。」
「そ、そんなことで!!」
エレーヌの声が裏返る。
「貴様のせいで貴金属の相場はめちゃくちゃなんですよっ!!」
その瞬間、外から――
ゴオォォォッ!!という爆ぜるような音。
喫茶店の窓の外で、マルセルの店の看板が焼け落ちた。
火の粉が空に舞い上がる。
ルオはそれを見おろし、さわやかに笑った。
「……これが、本当の炎上商法ってやつだな。」
沈黙。
エレーヌのこめかみがピクピクと動く。
「……燃えてるのは、街ですからね。」
ルオは炎を映した窓の外を見て、にやりと笑った。
「いやぁ、“話題に火がついた”ってやつだな!」
シエナがテーブルを叩く。
「自分で言うなっす!!この人ほんと最低人間っす!!!」
チューリップ・マニア【ちゅーりっぷ・まにあ】
名詞
① ヴァルメリア北方の商業国家アルデンラントで、17世紀前半に発生した史上初の投機的バブル。
当時、チューリップは東方よりもたらされた高級観賞植物であり、
希少な色や形を持つ球根は貴族や商人のあいだで富と教養の象徴とされた。
次第にその希少性が“芸術品としての価値”を超え、投資商品として扱われるようになる。
やがて、実物ではなく「球根を入手する権利」が売買され、
市場では花が咲く前に未来価格が取引される異常な状態が常態化した。
② 取引は主に酒場や宿屋の一角で行われ、
酔った商人たちは杯を交わしながら、球根一つで屋敷や土地を賭けた。
証文は次々と書き換えられ、価格は連日吊り上がり続けたが、
1637年のある取引会で、ひとりの買い手が支払いを拒否したことをきっかけに連鎖的な信用崩壊が発生。
翌朝には、球根は紙切れ同然となり、**「咲かぬ花に未来を賭けた国」**は沈黙した。
破産者は続出し、酒場は泣き声と未払いの証文であふれたという。
③ 政府の対応は後手に回り、
当局はこの事態を「国家的経済問題」ではなく、
**「商人間の私的紛争」として処理した。
契約の履行義務は撤回され、違約金の支払いで解約を許可したが、
失われた信用は戻らず、街には“球根より軽い紙”**が残された。
その後も商人たちは口を揃えて「今回は違う」と言いながら再び同じことを繰り返した。
〔補説〕
しかし、花は咲いた。
アルデンラント政府は、荒れた畑を前に一言、
> 「うわぁ、すごい綺麗だなぁ。せっかく咲いたのだから、国の花にしよう。」
と発表した。
以来、チューリップは経済破綻の記念碑でありながら、国家の観光資源として咲き続けている。
この国では、損失も風景も「植え替えれば再利用できる」と教えられる。
そうして、今も春が来るたび、借金の跡地に花が咲く。
――『新冥界国語辞典』より




