第69話 信頼の合金"信用創造エレクトラム"〜信用精錬中〜②
銀は、瞬く間に相場を上げていた。
誰が最初に言い出したのかは、もう誰にもわからない。
――“銀が来る”
――“再来年には倍になる”
街角の噂はいつの間にか根を張り、
商人たちの口から口へ、まるで風のように広がっていった。
「ええ、誰も気づいていない。
けれど、もうすぐ王都の造幣局が貨幣比率を変えるんです。
金貨の比率を下げて、代わりに銀を増やす方向で動いている。
つまり、“銀の時代”が来るってことですよ。」
そんな話を、誰かがどこかの酒場でしていた。
だが、いまやその“誰か”が誰だったのかさえ、もう誰も覚えていない。
――夜のパブ・デ・ザルジャン
ランプの炎が揺れ、濁った酒の匂いと笑い声が渦を巻いていた。
「買うって言ったって、どこにもないんだよ。」
「工房も、質屋も、銀細工師も――誰も持ってねぇ。」
「聞いたか? 銀が跳ね上がってるらしいぞ。」
「倍どころじゃねえ、三倍、いや四倍って話だ。」
「今のうちに押さえりゃ、一晩で一財産だ。」
グラスがぶつかる音。どよめき。
誰もが、見つからない“銀”の話をしていた。
そのざわめきの中、カウンターの隅で酒を傾けていたルオがゆっくりと立ち上がる。
「――売りましょうか?」
一瞬で、店内の音が止まった。
さっきまで笑っていた男たちが、まるで音を奪われたように彼を見る。
「今……なんつった?」
「銀を、持ってるのか?」
ルオは微笑み、懐から一枚の証書を取り出した。
蝋印がランプの光を受け、赤くきらめく。
ルオはゆっくりと立ち上がり、懐から一枚の証書を取り出した。
蝋印がランプの灯に鈍く光る。
「現物の銀は、まだ工房で精製中だ。
だが――その銀を受け取る権利は、すでに俺の手にある。」
男たちが息をのむ。
ルオは紙を軽く指先で弾き、声を落とした。
「つまり、今この紙は“これから届く銀”そのものだ。
欲しい人がいれば……譲ってもいい。」
ルオは証書を掲げた。
ランプの光が蝋印を透かし、赤い血潮のように
彼の声は穏やかだったが、その奥に奇妙な熱が宿っていた。
「本物の銀は、誰かが掘るたびに減っていく。
だが“信じられた銀”は、掘るたびに増えていく。
信じるという行為そのものが、採掘だ。
信頼が鍛えられ、流通し、形を変え、価値になる。」
シエナが小声で呟いた。「……つまり、想像の銀っすか?」
ルオは微笑んだ。
「そう、“イマジナリーシルバー”だ。
誰も掘らなくていい。誰も失わない。
信じる限り、街のどこにでも――湧く。」
「銀は、掘れば枯れる。
置いておけば黒ずむ。
溶かせば消える。
……どこまでいっても“有限”なんだ。」
彼は証書を胸の前で掲げた。
その紙は軽い。だが、声の重みが空気を震わせた。
「銀なんて、もう要らない。
現実は錆びる。
でも“信頼”は錆びない。
人が信じている限り、価値は腐らない。
だったら、俺は――“信じる方”を掘る。」
男たちは息を呑むーー
「見えるか? これは“順番”だ。
銀を掘る者たちの、遥か先頭を走る権利だ。
列の先に立つ者が一番速く息を吸う――それが経済だ!」
言葉が熱で歪む。
理屈はとうに消え、声だけが響いていた。
ルオは証書を掲げ、前にいた男の前へ差し出した。
「――ほら、これを持ってみろ。」
男が恐る恐る受け取る。
薄い紙が指先に触れた瞬間、思わず息をのんだ。
「……重い……気がする。」
ルオが満足げに微笑む。
「だろう? これはもう、ただの紙じゃない。
ーー時間は金、信用は銀。
この紙は、その両方を人の温もりで溶かして鍛えた――」
声が一段深く響く。
「信頼の合金、“信用創造エレクトラム”だ!!」
紙の蝋印が赤く光り、まるで本物の金属のように輝いた。
群衆のどよめきが、熱を帯びて空気を震わせた
背後で、シエナが呆れ声で囁く。
「温もりで?……融点、低すぎっす。」
リシュアが肩を落とし、諦めたように返す。
「まるで使い道のない合金だ。邪悪な錬金術だな。」
ーー
酒場の空気が、わずかにざわめいた。
誰かがグラスを置き、誰かが立ち上がる。
ルオの手の中の紙――“銀の証書”が、
その夜、最初の“転売”を迎えた。
一枚の証書が十の手を渡り、
十の信頼が百の約束に化ける。
書類の束が増えるたびに、
人々の声が熱を帯びていった。
「次の買い手はもう見つかってる」
「まだ値は上がる、今夜中にもう一枚!」
「信用の合金は、溶かさなくても増える!」
昼には商人が、夜には職人が、
そして翌朝には役人までがこの紙を求めた。
誰も銀を見たことはない。
けれど、誰も疑わなかった。
街の通りを渡るのは、銀の輝きではなく、
“信用”のきらめきだった。
それはまるで、目に見えない金属が
人の手から手へと蒸発していくようだった。
エレクトラム【えれくとらむ】
名詞
① 金と銀の天然合金、またはそれを人工的に精製した金属。
色調は淡い金から白銀まで幅があり、
金の柔らかさと銀の粘りを併せ持つ。
腐食に強く、長く磨くほど光沢が深まることから、
古代では「価値と信頼の均衡を象徴する金属」とされた。
② 用途
古来より貨幣・装飾品・儀礼具などに広く用いられ、
王権や契約の象徴として珍重された。
エレクトラム製の印章は「二度と嘘を刻まない」とまで言われ、
誓約や証明の場で特別な意味を持つ。
③ 派生用法
その“金と銀の融合”という比喩から、
後世には信用や信頼を混ぜ合わせた理想的な価値を指す言葉として転じた。
この発想が極端に解釈され、
かつて一部の商人が“信用創造エレクトラム”と称する紙証書を発行したが、
それは実在の金属とは何の関係もなく、
のちに王立司法庁により**「詐術的金融概念」**として登録されている。
〔補説〕
真のエレクトラムは地中でしか生成されない。
人の手で作られた“信頼の合金”は、どこまでも紙の上にしか存在しない。
――『新冥界国語辞典』より




