第68話 信頼の合金"信用創造エレクトラム"〜信用精錬中〜①
朝の《匠の鎖》店内。
窓から差し込む柔らかな光が、磨き上げられたガラスケースを照らしていた。
家賃交渉は無事にまとまり、バイトの女性たちも円満に退職。
完全に余剰在庫だったシルバーのチェーンはすべて現金化され、
代わりに本部推奨の新しいラインナップが棚に整然と並んでいる。
ミモザがカウンターに肘をつきながら、煙管をくゆらせた。
「ふぅん、ようやく“店”の顔になってきたじゃないの。保険の方も通したわよ、事業総合で♡」
ルオは軽くうなずく。
「助かる。これで、万一の時も“縁”が切れずに済む。」
リシュアが書類の束を整えながら言う。
「家賃・人件費・在庫・保険……店としては大分整ったな。」
シエナが腰に手を当てて笑う。
「ほんっとスッキリしたっすね!
あの倉庫の銀の山、見るだけで頭痛くなってたっす!」
「さて――次は広告か?」
「っすね!チラシ配るとか、通りで宣伝するとか。
目立つ看板もあった方がいいっす!」
「看板なら、ギルド通りの入口に置けば目につくだろう。」
二人の声が弾み、店にようやく明るい空気が戻る。
ルオはカウンターの隅で、古い契約書の束を整えながら微笑んでいた。
「そうだな……じゃあ――銀を買いに行くか。」
「……………………」
沈黙ののち、シエナが爆発した。
「いやいやいやいや!意味わかんないっす!!
売ったばっかっすよね!?今度は何すんすか!?」
リシュアも眉を寄せる。
「在庫を処分して、また仕入れるのか。正気か?」
ルオは椅子から立ち上がり、にやりと笑う。
「もちろん正気だ。――最高の広告宣伝をしに行こうじゃないか。」
※※※
カラン、と扉の鈴が鳴った。
オル通り、黄金街の奥、古びた宝飾商《ミュル工房》。
昼の光がショーケースの銀鎖を淡く照らしている。
空気は磨かれた金属の匂いで満ち、店主の息づかいまでが静かに響いていた。
ルオは机の上に契約書を広げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「――先に、これだけ払っておく。残りは銀が揃い次第だ。」
老商人は渋い顔をしながらも、ゆっくりとペンを取った。
羊皮紙の上をインクが走る。
《当工房は、依頼主ルオ・ラザールに対し、指定量の銀を予約として確保することを約す。》
《銀は順次買い付け・精製の上、引き渡しに供する。》
《本証書は譲渡可とし、商環連合立会いのもと効力を認む。》
朱印が二つ、静かに押された。
ひとつは工房の印。もうひとつは
商環連合の認証印。
ルオは満足げにそれを折りたたみ、懐に収めた。
――
店を出ると、昼下がりの光が街の石畳を照らしていた。
ルオは懐から一枚の証書を取り出し、光に透かして見た。
蝋印の赤が、太陽を受けて鈍く輝く。
リシュアが眉を寄せる。
「……で? 今のは何の取引だ。」
ルオは口の端を上げ、指で紙を弾いた。
「――“まだ揃ってない銀”を買ったんだ。」
「揃ってない銀?」シエナが首を傾げる。
ルオは証書を胸の前でひらめかせ、ふとシエナに差し出した。
「……持ってみろ。」
「え?」
「いいから。」
恐る恐る受け取ったシエナが紙を手に取る。
少し厚めで装飾は入っているもの、普通の紙だ。
「……紙っすね?」
ルオは笑わずに言った。
「重いだろ?」
「いや、軽いっす!」
「違う。感じてみろ。」
ルオの声は低く、熱を帯びていた。
「これはな――前に売った銀と、ほぼ同じ重みだ。」
シエナが言葉を失う。
ルオは証書を見つめながら、静かに続けた。
それはいわゆる“先物取引”と呼ばれる仕組みだった。
今すぐ銀を手に入れるのではなく、「将来、この値段で銀を受け渡す」という約束を先に売り買いする。
現物がなくても、少しの手付金さえ払えば、その何倍もの量の銀を“押さえる”ことができる
「この紙は、ただの証書だ。
けど、誰かが“信じる”だけで価値が生まれる。
人がそれを“欲しい”と思えば――銀よりも速く、重く、回り出す。」
リシュアの目が細くなる。
「……つまり、実物の裏付けもない“空”を動かしていると。」
ルオは首を振った。
「空じゃない、“縁”だ。
銀は有限だが、信頼は無限に増やせる。
なら、それを流通させればいい。
“信用の連鎖”が広がれば、この街の経済はもっと速く、美しく回るんだ!」
彼は広場の方へ歩き出し、石畳を蹴った。
陽の光を反射した証書が、まるで旗のようにひらめく。
彼は広場の方へ歩き出し、石畳を蹴った。
陽の光を反射した証書が、まるで旗のようにひらめく。
「この紙はただの契約じゃない。
“縁を可視化した通貨”だ。
誰かが誰かを信じた、その痕跡。
それが積み重なれば、世界は回る。」
ルオは証書を掲げ、笑う。
「――銀なんて、あとからついてくる!」
シエナがぽつりと呟く。
「でも実際、銀は……ないっすよね?」
ルオは振り返り、薄く笑った。
「あるさ。信じれば、そこにある。」
「……信じれば?」
「そう。“イマジナリーシルバー”だ。」
ルオは自分で口にした言葉を転がすように、楽しげに言った。
「本物の銀は掘れば枯渇する。
でも“想像の銀”は、信じる心がある限り、無限に増え続ける。
信じる者が増えるほど、価値は重くなる。
――これこそ、純度百を超えた究極の銀だ!!」
それからの数日、ルオは街を駆けた。
商環街の工房、質屋、宝飾店――どの扉も、ためらいなく叩いた。
「少し先払いする。残りは銀が揃い次第だ。」
「証書を出してくれ。評議会の印を押せば、すぐに回る。」
「これは“未来の銀”の約束だ。早い者が一番儲かる。」
そのたびに、朱印の押された契約書が積み重なっていく。
老舗の商人も、路地裏の職人も、最初は眉をひそめていた。
だが、噂が広がるにつれ、目の色が変わっていった。
“あのルオ・ラザールが銀を買い占めている。”
“次はうちの工房にも声がかかるかもしれない。”
翌日には、質屋のショーケースから銀の杯が消え、
三日後には、街路のショーウィンドウから鎖も指輪も姿を消した。
商人たちは口々に言う――
「市場が動いてる」「銀の時代が来た」と。
だが、実際にはまだ誰も、銀そのものを見ていなかった。
見えていたのは“約束の紙”と“信じる気配”だけ。
それでも値は上がり、銀は幻のように高騰していく。
ルオは一枚の証書を光に透かし、恍惚とした声で言った。
「掘るより、信じる方がいい。
貴金属は貴重であるほど価値が上がる。
なら――実在しないのが、いちばん貴重ってことだ。」
先物取引【さきものとりひき】
名詞
① 将来の一定期日に、あらかじめ定めた価格で商品を売買する契約。
価格変動の影響を平準化し、取引の安定を図るために生まれた極めて合理的な制度。
その精緻な仕組みと、取引当事者間の高度な信頼関係によって成り立つことから、
バルメリア経済においては“最も信用度の高い契約形態”の一つとされている。
② 参加者が互いの出資を保証し合い、信頼を利息として再分配する共同先物制度。
資金が増え続けなければ維持できない構造を持ちながら、
それを**「永続的信頼循環」**と定義した点が高く評価された。
新たな出資が途絶えた際には、全ての“信頼”が同時に崩壊するが、
それも制度設計上の透明な結果として受け入れられている。
――“信じた者が損をする”という明快な原理を備え、
**「最も誠実に破綻する契約」**として知られる。
③ 理論としては完璧、倫理としては中立、結果としては壊滅的。
他のどんな制度よりも信用できる速度で崩壊し、
確実に裏切ることを裏切らない点で、学術的評価は極めて高い。
この確実性のゆえに、後の経済学では
**「最も信用度の高い失敗」**として研究対象となった。
――『新冥界国語辞典』より




