第65話 勝てる交渉、勝てない交渉〜交渉難航中〜④
老商人の喉が、かすかに鳴った。
「……すべて、買う、とおっしゃいましたか?」
「ええ。そのつもりがあります」
ルオは変わらぬ笑みで答える。
「近々、まとまった量が必要でね。その確認を兼ねてね。」
商人は眉を寄せ、慎重に問い返した。
「失礼ながら――なぜ、そのような大量の銀を?」
「……何かの製造ですか? それとも投機目的でしょうか?」
ルオは軽く笑い、首を振った。
「理由を話すのは簡単ですが……」
そこで言葉を切り、ちらとリシュアの方を見やる。
「――確認を取っても?」
商人は小さく頷いた。
その視線の先、ルオの背後に座るリシュアは、まるで“後ろ盾”そのものだった。
どこか気高く、息を呑むほど品のある佇まい。
ルオは静かに歩み寄り、彼女の前で膝を折った。
腰をかがめると、呼気がリシュアの頬をかすめる。
商人から見れば、それは“貴婦人の許可を仰ぐ秘書”の姿だった。
「今から話すことに、首を振ってくれ。いいな?」
「……またそれか。」
ルオは唇の端を上げ、囁くように言った。
「肉か?」
リシュアは怪訝そうに首を横に振る。
「魚か?」
もう一度、静かに首を振る。
「……両方か?」
「…両方だ。デセールも追加だ。」リシュアはため息混じりに返した。
ルオが笑いをこらえ、さらに追い打ちをかける。
「ワインは?赤か白か?」
リシュアは首を振りながら答えた。
「それも両方だ。お前も付き合え。」
商人の喉が、またひとつ鳴った。
リシュアが首を振るたび、彼の目には“高貴な夫人が重大な決断を下している”ようにしか映らない。
店の空気はぴんと張りつめ、汗ばむほどの緊張が漂う。
ルオはゆっくりと立ち上がり、整った仕草で上着の裾を整えた。
「――難色を示されましたが、ご理解いただきました。」
商人は息を詰めたまま、背筋を伸ばす。
「……そ、そうでしたか。で、その……詳しいお話を伺っても?」
リシュアは背もたれに身を預け、わずかに目を伏せ
そう思いながらも、仕事終わりの時間のことを考え静かに微笑んだ。
その微笑みを見た老商人の背に、冷たい汗がつうっと流れた。
貴婦人の一挙手一投足が、この街の相場を動かすように思えて――
誰も、息をすることさえためらった。
ルオはわずかに笑みを浮かべた。
「理由は単純です。――今、銀は“眠っている”んですよ。」
「眠っている?」
「ええ。誰も気づいていない。
けれど、もうすぐ王都の造幣局が貨幣比率を変える。
金貨の比率を下げて、代わりに銀を増やす方向で動いている。
つまり、“銀の時代”が来るってことです。」
老商人は半信半疑の表情を見せた。
ルオは肩をすくめる。
「信じなくても構いません。だから――“証拠”を見せに来た。」
アタッシュケースの金具が外れる音が、店の静寂に響く。
開いた中には銀の鎖がきっちりと並び、重なり合って鈍く光を放っていた。
眩しくはないが、見る者の目を離させない量と整然さがあった。
「……これを?」
「私が保有している銀のうちの、ほんの一部です。
量を誇るつもりはありませんが――“本当に集めている”という証拠にはなるでしょう。」
老商人は息を呑んだ。
ルオは静かに、まるで雑談のように続ける。
「銀を買う者は、信用を買う。
だから、まずあなたに“見せる”んです。
この取引がきちんと回る相手か、確かめたくてね。」
「……なるほど。つまり、試しということですな。」
「そういうことです。近々、正式に動く。
動かせる量と、集められる分――全部、あなたの店で頼むことになるでしょうね。」
老商人の視線が、無意識にリシュアへ移る。
彼女は静かにまぶたを伏せた。
意味はわからないが、淑女の余裕を装って黙っていた。
ルオはその“沈黙”を確認すると、軽く頷いた。
「見ての通り、後ろ盾は確かです。
だからこそ、今日この場で――信用を築きたい。」
ルオはゆっくりと姿勢を戻し、老商人の正面に座り直した。
まるで何事もなかったかのように、落ち着いた声で言う。
「さて――本題に戻りましょうか。」
商人は一瞬、気圧されたように姿勢を正した。
ルオは手元のアタッシュケースを閉じず、
銀の鎖が見える角度のまま、指先で一つつまみ上げる。
「この銀を“売りたい”という話を、
少し前に言った“銀の流れ”とあわせて聞いてもらいたいんです。」
商人の眉がわずかに動く。
「……売る?」
「ええ。」ルオは頷いた。
「私は今、銀を買い集めている側の人間です。
――ですが、次の現金を乗せた馬車が来るまで少し時間が空きましてね。」
指先で鎖を弾く。軽やかな音が響く。
「流動できる現金がない。
だから仕方なく、一部を現金化せざるを得ないんですよ。本来なら、再来年まで手放すつもりはなかった。」
老商人は顎に手をやり、静かに息を吸った。
「……再来年、とは?」
ルオは微笑み、視線を細める。
「その頃、銀は今の数倍に跳ね上がります。
貨幣制度の刷新、王室の新造幣計画――
それらが表に出るのは、もう少し先でしょうけどね。」
「しかし、現時点では市場の動きも鈍い。
むしろ下がっているくらいだが……?」
「ええ。私たちが、意図的に下げているんです。」
ルオは穏やかに言い切った。
「今は集める時期ですから。
流通を止め、値を抑え、静かに買い占める。
――そういう段階なんです。」
商人の喉がわずかに動く。
ルオは、まるで友人に相談するような優しい声で続けた。
「だからこそ、あなたにお願いしたい。
今、この一部だけは手放すが……
本来なら“上がる”銀を“下がるうちに”渡すんだ。
せめて、相場の倍で買ってほしい。」
沈黙。
商人の視線が、ゆっくりとアタッシュケースに落ちる。
そこには、わずかに光を反射する銀の鎖。
量こそ多くはないが、確かな存在感があった。
「……倍、ですか。」
「もちろん、義務じゃない。
けれど――この取引が、後にどれほど有利に働くかは、
あなたならお分かりになると思います。」
リシュアは横で静かに見ていた。
(……相変わらず、詐欺なのか商談なのか分からないな)
だが、老商人の頬に浮かぶ汗を見て、
“勝負がついた”ことだけは理解できた。
ルオは柔らかく微笑んで締めくくる。
「未来を見越して動ける商人が、生き残る時代ですよ。」
老商人は、震える指で鎖を一つ掴み、
しばらく黙ったあと、低くうなずいた。
「……わかりました。お話、受けましょう。」
※※※
店を出たのは、午後三時を少し回った頃だった。
オル通の石畳には、傾きかけた陽が差し込み、
銀行のガラス窓に光が跳ねていた。
リシュアは腕を組み、ひとつ息をついた。
「……呆れたやつだ。」
「やはり詐欺じゃないか。」
「いやいや。」ルオは笑って手を振る。
「俺の言ったことは“全くの嘘”ってわけじゃない。
今は実現してないだけだよ。」
「詐欺の片棒を担がせた上に、開き直るな。」
ルオは軽く肩をすくめる。
「じゃあ……その罰はディナーで甘んじて受けるか。ワインでも飲みながら――」
「今からだ。プレディナーからみっちりだ。」
「静かな店にし――」
「個室にしろ。周りの客に迷惑がかかる。」
「説教ありきかよ。」
「当然だ。お前の口の軽さは、今夜で矯正する。」
ルオは苦笑しながら言葉を探す。
「せめて、食事中は楽しい話に――」
「だめだ。お前にこの交渉の主導権はない。」
ルオは観念したように笑い、歩き出した。
「……勝てる交渉と、勝てない交渉があるってことを、身をもって学んだよ。」
「学びが早くて結構。」
リシュアは視線を逸らし、口元をわずかに緩めた。
「……歩きながらでいい。腕を出せ。エスコートくらいしろ。」
ルオは小さく息をつき、腕を差し出した。
その瞬間、リシュアは何も言わずに近づき――
ゆるやかに、自分の腕を絡めた。
手袋越しに伝わる、微かな体温。
思いのほか近い距離に、ルオの喉がひとつ鳴る。
背筋が、自然と伸びていた。
「大体今日のはなんだ。耳元で囁くとか、演出が過ぎる。」
「おかげで信ぴょう性が上がっただろ?」
「知るか。ああいうのは心臓に悪いんだ。」
石畳を踏む二人の靴音が、夕陽の街に溶けていく。
彼女の説教は止まらず、彼の言い訳も途切れない。
まるで互いの呼吸を確かめ合うように――
その言葉の応酬さえも、どこか心地よく噛み合っていた。
プレディナー【ぷれでぃなー】
名詞
① 本来は夕食前に軽く酒やつまみを楽しむ習慣を指す。
食事の前に心をほどき、会話を交わし、明日への英気を養う――
そんな小粋な時間を意味する。
アペリティフ、タパス、ハッピーアワーなどと同じく、
“働いた者のささやかな褒美”として各地に根付いている。
② ヴァルメリア市でも文化として広まり、
上層街では劇場帰りの社交、商業区では取引後の慰労、
工房街では作業終わりの小休止とされる。
市の広報はこれを**「心の再点灯時間」**と呼び、
定時後の一杯を奨励している。
③ しかし、クル・ノワ地区ではまったく別の意味を持つ。
そこでは「夕食前」どころか、朝食より先に始まる。
錆びた扉の向こう、昼間でも薄暗いパブに、
歯の抜けた爺さんたちが群れをなし、
片手にグラス、もう片手で寝かけの友を支えている。
彼らは一日中、同じ席で、同じ話を、同じ間違い方で繰り返す。
この街で“プレディナー”と言えば、
**「今日もまだ夕食にたどり着けていない人々」**のことだ。
〔補説〕
クル・ノワでは、「食前酒」ではなく「人生のつなぎ酒」をそう呼ぶ。
彼らのあいだでは「飲んでりゃ夜になる」が人生訓であり、
実際、誰も夜を迎えた覚えがない。
――『新冥界国語辞典』より




