第64話 勝てる交渉、勝てない交渉〜交渉難航中〜③
「で……この在庫、どうするのだ……」
翌る日、匠の鎖の店内には、ルオとリシュア。
棚から天井まで、同じデザインの銀のチェーンが所狭しとかかっている。
ルオは腕を組み、しばらく無言で眺めたあと、ぼそりと呟いた。
「そうだな……銀とはいえ、貴金属なのが幸いだ。換金しよう。」
リシュアは半眼になり、一本の鎖を手に取る。
「しかし、これ……同じデザインばかりだし。
どう見ても“訳あり”だろう。このまま売ったら、地金価格で叩かれるぞ。」
ルオは口元に笑みを浮かべる。
「……いいところに気づくよな。どう見ても訳あり――なら、その“訳”を売りに行くか!」
リシュアが眉をひそめた。
「……まさか、また妙なことを考えているんじゃないだろうな。」
ルオは指を鳴らした。
「てわけで、リシュア――着替えてきてくれないか?
“場の空気がひとつ上がるような服”で。」
リシュアは一瞬きょとんとしたあと、
わずかに頬を染めて、咳払いをひとつ。
「……なるほど。そういう流れ、か。」
ルオが眉を上げる。
「流れ?」
「い、いや。人助けだ。断る理由はない。」
少し語気を強めてそう言うと、
リシュアはそっぽを向きながら肩をすくめた。
「……着替えはクル・ノワの部屋にある。すぐ戻る。」
そう言い残して、足早に店を出ていく。
ルオはその背中を見送りながら、
やけに嬉しそうだなぁとぼんやり考えていた。
※※※
扉の鈴が軽く鳴った。
リシュアが静かに戻ってくる。
淡い灰の上着に金糸の縁取り、光沢を抑えた黒のスカート。
派手さはないのに、歩くたび布の揺れ方ひとつで上品さが漂う。
通りに出ても自然に馴染みそうな装いなのに、
店の空気が少しだけ格上げされたように感じられた。
ルオが口元をゆるめる。
「……なんか言ったらどうだ?」
リシュアはわずかに目を伏せて、
「……似合ってる。ちょっと目が離せない。」とぽつり。
沈黙のあと、頬にほんのり赤みがさす。
「そ、そうか……」
ルオは小さく笑い、帳簿を閉じた。
「…まあ。じゃあ行くか。」
リシュアが背筋を伸ばしながら尋ねる。
「今日は……どこに連れてってくれるのだ?」
「普通に、宝飾品店に売却だけど?」
「だ……騙したのか!?」
「いや、仕事だって最初から言ってるだろ。」
リシュアはむっとした顔で視線をそらす。
「……まぎらわしい言い方をするからだ。」
ルオは肩をすくめ、笑いながら店を出た。
※※※
オル通は銀行と宝飾品ブランドが軒を連ね、
街でもっとも金の匂いが濃い一角だった。
磨き上げられたショーウィンドウが並び、
どの店も光を競うように宝石を並べている。
《ラ・ビジュー》。
曇りガラス越しの光が、棚に並んだ銀細工の上を鈍く撫でていた。
どの品も磨かれてはいるが、奥には埃がたまり、
客よりも金の匂いのほうが強い店だった。
カウンターの奥から、年配の商人が姿を現す。
光沢の残ったスーツの襟はよれ、指先には商売染みた金粉がこびりついている。
「いらっしゃい……お客様で。どういったご用件で?」
口調こそ丁寧だが、目の奥では客の財布の厚みを測っている。
静寂ではなく、**金属を擦るような“下品な静けさ”**が漂っていた。
ルオは、柔らかい笑みを浮かべながら席に腰を下ろした。
「銀を扱っていますよね?
今、この店で動かせる在庫はどのくらいあります?」
老商人は軽く顎を引き、背後の棚をちらりと見る。
「手持ちはそう多くはございません。ですが……」
一度言葉を切り、静かに微笑んだ。
「お急ぎでなければ、ある程度“集める”ことは可能です。」
「集める?」
ルオが小さく首を傾げる。
「ええ、うちは単品よりも卸が主でして。
提携の職工や地金問屋に頼めば、いくらかまとまります。大まかですが……これくらいですな」
「なるほど、これはいい。」
ルオは天秤の軋む音を聞きながら、
まるで興味がないように机の上を指でなぞった。
(数日から数週で動かせる量……銀としては上々。流通経路もそれなりに整っている。)
老商人は逆に、彼の反応をじっと観察していた。
(値を聞かない。買う気配も、売る気配も見せない。……何者だ?)
沈黙が数拍続いたあと、ルオはゆっくりと立ち上がった。
壁際のソファ――そこには、リシュアが座っていた。
薄いヴェールのような布地の服をまとい、指先を膝の上に重ねている。
視線は穏やかで、それでいて周囲を支配するほどの静けさを纏っていた。
老商人の目が自然とそちらに吸い寄せられる。
(……あれは、ただの付き添いではない。
物腰、座り方、衣装の質感――すべてが“上”の人間だ。
話の主導権はあの女の方か。)
ルオはそのままリシュアのもとへ歩み寄り、
腰をかがめて、耳元ぎりぎりまで顔を寄せた。
声は空気を震わせるほど小さく、
息がかかる距離で、まるで恋人に秘密を囁くようだった。
「……表情を変えるな。肩も動かすな。」
ルオとの距離に
リシュアの眉がわずかに寄る。
「いいから。堂々としててくれ。」
ルオの声は笑っているようで、底が読めなかった。
「……このあと、何が食べたい?」
「……は?」
「いいから答えろ。」
リシュアは一瞬だけ目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……お前、私を交渉の道具に使う気だな……フレンチ。とびきり雰囲気のいい店にしろ。」
ルオは唇の端を上げる。
「承知」
そのまま立ち上がり、
踵を返す動作の途中で、さりげなく店内に響く声量で言った。
「――仰せの通りに。」
その一言に、老商人の指が止まる。
帳簿の紙をめくる動きが、不自然に固まった。
(“仰せ”……。やはりあの方が主なのか。
それにしても、この男の所作、使用人には見えない……何ものだ?)
ルオは何事もなかったかのようにカウンターへ戻り、
再び椅子に腰を下ろした。
笑みを絶やさぬまま、穏やかに切り出す。
「さきほどの“集められる量”について――
それを、すべてこちらで買うつもりがあります。」
老商人の瞳孔がかすかに開く。
(すべて……? この通りでそんな買い方をする者はいない。)
ルオは振り返りリシュアの目を見つめた
リシュアは何かを察して
ゆっくりとまぶたを伏せた。
まるで“了承を与えた貴婦人”のように、
静かにうなずく。
だが、その心中では混乱していた。
(買う? ……今、買うって言ったのか?
マルセルさんの在庫はどうする?売りに来たはずでは……?)
ルオの言葉の意図が掴めず、
思わず眉を寄せる。
その微妙な表情の変化を、
老商人は敏感に見て取った。
彼の目がリシュアに移る。
重々しく――まるで身分の高さを確かめるように。
(……やはり、このお方が決裁者か。
不満の色……?)
わずかな沈黙。
リシュアは心の中でため息をつき、
ふと、口元に小さな笑みを浮かべた。
(……まあ、いい。ディナーだ。そのことに集中しよう)
その笑みは、気の抜けた安堵のしるし。
だが、商人の目にはまったく別の意味に映った。
(微笑まれた……! これは、了承の合図……!)
老商人の喉がひくりと鳴る。
息を飲むように背筋を正した。
ルオはその様子をちらと横目で見て、
口の端をゆるめた。
――その瞬間、
取引はまだ何ひとつ成立していないのに、
空気だけが“合意済み”のように固まっていた。




