第62話 勝てる交渉、勝てない交渉〜交渉難航中〜①
ソレイユ区バザールの外れ――
陽光の届きにくい裏路地には、香辛料の匂いと金属の鈍い響きが混じり合い、昼でも薄暗い影が伸びていた。
賑わう表通りから一本入るだけで、人通りは途絶え、静けさと埃だけが残る。
その先に、小さくも妙に立派な看板を掲げた店――《匠の鎖》の店内
数日ぶりに訪れたルオ、シエナ、リシュアの三人は、店内の静けさに思わず顔を見合わせた。
棚には、誰も買わない銀のチェーンが今日も整然と並び、光を反射してむなしくきらめいている。
シエナがカウンターに腰をかけ、ぼんやりと呟いた。
「マルセルさん、今ごろ“光と闇の社員研修”に行ってるっすかね?」
リシュアが小さく眉をひそめる。
「……大層な名前だが、いったい何が行われるというのだ?」
ルオは腕を組んで、平然とした口調で答えた。
「ちょっとした精神攻撃を強制無効にできる精神力と、墓地に行く前に全てを破壊する体力を手に入れる研修だよ。」
シエナが即座に叫ぶ。
「ダークネスすぎるっす!!!」
リシュアが淡々と呟く。
「……もはや“光”の要素が見当たらんな。」
ルオは笑って肩をすくめた。
「細かいことはいいんだよ。さて――マルセル抜きで、まずどこから手をつけるかだな。」
帳簿をめくりながら、ルオが続ける。
「さすが元役人だけあって、書類と伝票の整理だけけっこうできてるな。ここは触る必要なし。」
シエナが引き出しを漁って声を上げた。
「あ、不動産の契約書、出てきたっす!」
ルオがそれを受け取り、ぱらぱらと目を通す。
「ん……ここ、“幽霊屋敷”の時に世話になった不動産屋だな。テナントも扱ってたのか。」
シエナが思い出したように手を打つ。
「あっ、チュロが財布抜いた人っすね!」
リシュアが静かにため息をつく。
「……そういう余計なことはよく覚えているな。」
少し間を置いて、シエナが真面目な顔で尋ねた。
「でも、ルオさん。立地って、大丈夫なんですか?」
ルオは契約書を閉じて、軽く首を振った。
「よくはないが、入居してまだ半年だ。違約金も取られるし、敷金・礼金も戻らねぇ。
それに――次の物件を借りるとなれば、また敷金・礼金、それに保証金まで必要になる。
加えて、開業までの家賃も発生する。フリーレントがついたとしても、マルセルの資金じゃ到底もたねぇよ。
……ここでやるしかないだろうな。」
リシュアが静かに頷く。
「では、客足の少なさはどう補う?」
ルオは軽く笑って答えた。
「まあ――他でカバーするよりないよな」
ルオは立ち上がり、伸びをしながら笑った。
「よし。じゃあ、ちょっと家賃交渉に行くか。」
シエナが顔を引きつらせる。
「また“いつもの”っすか……?」
ルオはにやりと笑った。
「まあ、“いつもの”だな。」
※※※
オル通りへ向かう石畳の上、二人が並んで歩いていた。
昼の光が傾き、石畳の隙間に金色の影を落とす。
シエナがちらりとルオを見上げる。
「ルオさん、家賃ってそんなに大事なんすか?」
「この商売じゃ、売値も原価も動かせねぇ。
変えられるのは、人件費と家賃くらいのもんだ。」
「ふーん。でも、安いとこにすればいいってわけでもないっすよね?」
「そう。“安かろう悪かろう”じゃ意味がねぇ。
けどな、家賃は固定費だ。下がれば下がるほど利益は伸びる。
小売なら、売上の一割以内に収めるのが理想だな。」
「へぇ〜、一割っすか。マルセルさんのとこはどうなんす?」
ルオは小さく笑い、ポケットの中で契約書を指先で弾いた。
「相場どおりっちゃ相場どおりだが……通りから一本ズレてる。
築年数も考えりゃ、坪単価でもう少し下げられるはずだ。」
「でも、契約済んでから家賃って下げられるんすか?」
「普通は無理だな。貸す側にメリットがねぇ。
……ただ、交渉ってのは“理屈”じゃなく“気分”を動かすもんだ。」
「気分っすか?」
「そう。“下げたい”じゃなくて、“下げたくなる理由”を作るんだよ。」
オル通りへ向かう石畳の上、
昼下がりの陽光が建物の間を縫い、淡く二人の影を伸ばしていた。
「ところで…」
シエナは腕を組み、少し首を傾げながら歩いていた。
「……ルオさん、なんか気づかないっすか?」
ルオは袖のボタンを指先で弄びながら、横目でちらりと見る。
「……誰かにつけられてる気配とかか? そういうのは全然わからないぞ。」
「ちがっ――!」
シエナは思わず大きな声を出して、慌ててトーンを落とす。
「そんな暗殺者みたいなこと聞いてないっす! もっとこう……ちょっとした変化とか!」
ルオは少し考えて、ふと横を見た。
「……いつのまに…まさか"死に戻り"してるっ?」
「ないっす!! そういう話じゃないっす!!」
シエナは頬を膨らませて前を向く。
「もういいっす……。」
しばらく沈黙が続く。
やがてルオが、何気ない調子で言った。
「……髪、三センチくらい切ったろ。あとチーク、変えたな。」
シエナの足がぴたりと止まる。
「っ! わかってるじゃないっすか!」
ルオは片眉を上げて、少しだけ口角を上げる。
「まぁ、気づくくらいには見てるからな。」
少し間を置いて、シエナが照れたように呟いた。
「……そっか、今日は“ちゃんと見てくれる日”っすね。」
その言葉を聞いてルオは笑う。
「そんな日決まってないだろ?」
次の瞬間、シエナはくるりと半歩前に出て、軽く振り返った。
「次はどこ見てくれるっすか? 服とか? 歩き方とか? 表情とか?」
「そんなにチェック項目多かったか? 装具点検かよ。」
シエナは頬をふくらませて、ぷいと顔をそらした。
「そういう見方じゃないっす!」
ルオは苦笑して、柔らかく答える。
「別に、いつもちゃんと見てるけどな。」
その一言に、シエナは言葉を失う。
耳まで赤くして、小さく呟いた。
「……そういうの、ずるいっす。」
ルオはそのまま笑いながら歩き出す。
「どっちがだよ。」
秋の風が通りを抜け、二人の影をゆっくりと重ねていった。




