表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/73

第5話 ただのリュシアだ!〜社会勉強中〜⑤

夜の底がようやく明け、

街はいつもの灰色を取り戻した。


痛みと静けさだけを残して、

誰かが、確かにいなくなった朝。


――けれど、“終わり”という言葉ほど、

この街に似合わないものもない。





どう戻ったのか、記憶も定かではなかった。

リシュアは気づけば、ギルドで簡単な報告を済ませ、

その足で取っておいた宿に戻っていた。


ベッドの上で天井を見つめる。

人の死を、あんなに近くで見たのは初めてだった。


――人の価値とは。命の価値とは。


生まれ育った屋敷では、

老いた者たちが寿命を一日でも延ばそうと

金に物を言わせて施術を受け、薬を飲み続けていた。

命を“買う”世界。


だがこの街では――命は安い。

転べば奪われ、失えば誰も振り返らない。

クル・ノワの命は、なんと軽く儚いことか。


「……これが、父が“学べ”と言っていたことなのか」


呟きが、薄暗い部屋に溶けた。

そうして二日間、失意のまま宿に籠った。


***


三日目の朝。

リシュアは顔を洗い、髪を整え、

「しっかりと報告を上げねば」とギルドへ向かった。


扉を開けた瞬間――眩しかった。


「あ、やっと来たっすねぇ!」


中央のテーブルで、シエナが脚を組んでいた。

金糸の刺繍が入ったクロスに、きらびやかな宝石つきの服。

指輪が十本中八本、耳のピアスは五段階、

もはや“人”より“装飾品の集合体”に近い。


その背後、かつて埃だらけだった棚には、

金色のラベルの高級ウイスキーがずらりと並ぶ。


ミモザが新しいグラスを磨きながら艶っぽく笑った。

「ふふ、見てリシュアちゃん。ベルセリエ産の四十年ものよォ♡」


床は磨かれ、カウンターには新品のクロス。

ギルドが――いや、“高級バー”ができていた。


「……どういうことだ?」


「え、いやぁ~。その……保険金っす!」


「……ほ、けん、きん?」


「はいっ! ルオさん、死亡扱いになったんで!」

シエナはない胸を張り、ピアスをチラつかせながら言う。

「ちなみに受取人、わたしっす!」


リシュアの目が見開かれた。

「貴様ぁああああああ!」


ギルド中の空気が震えた。

椅子が跳ね、グラスがカタカタと鳴る。


ミモザが慌てて割って入る。

「まぁまぁリシュアちゃ~ん、落ち着きなさいなぁ♡」


「落ち着けるか!!」


怒りのままに、リシュアはギルドを飛び出した。


***


辿り着いたのは、あの日の川沿いの橋。

濁った水面には、雲と錆びた街の影が映っている。

風が吹くたび、川面がきらりと揺れ、

それがまるで、あの日の血の色を洗い流すようだった。


橋の上には、一人の釣り人。

陽に焼けた背中、少し若く見える輪郭。

「……釣り人、か」

リシュアは足を止める。

その仕草が――どこか見覚えがあった。


竿を引く腕の癖。

軽く舌打ちして風を読む顔。

――まさか、そんなはずは。


風が吹き抜け、上着がはだけた。

胸に、見覚えのある刺青。


リシュアの呼吸が止まる。

「……ルオ……? 生きていたのか……?」


釣り人がこちらを振り返り、

にやりと笑った。


「よく言われるんですよぉ。魂だけそっくりで」


「……服もタトゥーも、本人そのままだが」


「いやぁ、肉体は同じでも魂は別人ですからねぇ。

 たとえるなら……“生前の俺”がリース契約してた体を、

 今の俺がレンタルしてる感じ? つまり別件てわけ」


「嘘を、つくな!」


「いやいや、ほんとに! 死んだのは“前の俺”なんで!

 だからあの保険金も、“あいつ”への弔い金ってことで問題なし!

 ね? 書類的には筋が通ってるでしょ?」


リシュアは絶句した。


そこへ、背後から低い声が飛んだ。


「おいおい、ルオ……またやってくれたなぁ」


犬の獣人の警官――ガス。

体格は熊のように大きく、

短い毛並みの隙間からは、古傷の縫い跡が覗く。

吊り上がった犬歯が光り、

その顔は、笑っているのか怒っているのか分からない。


「え、ちょっ、なんで!? ガスさん!保険金受け取ったのシエナっすよ!?」


「共犯だろうが!」


「ちょ、まっ、俺死んだのに共犯ておかしくない!?」


ガスが冷たい声で告げる。

「“死んだはずの保険契約者”が生きてたら――それは詐欺だ」


ルオは釣り糸を巻きながら、真顔で言った。

「いや、魂は別人なんですって! 倫理的にも、霊的にも、ほらスピリチュアル的にも別人!

 前の俺は死んでて、今の俺は“転生した俺”! 転生者に罪はないって神学的にも――」


「言い訳はブタ箱できこうか、ルオ・ラザール」


リシュアはただ、呆然と立ち尽くす。

その横で、ルオは釣り竿を片手に連行されながら叫んだ。


「別人っ!スピリチュアル的に別人なんですってぇ!!!」


***

保険金詐欺【ほけんきんさぎ】


名詞


① 契約上の「もしも」を、計画によって“起こしてしまう”犯罪。

 事故・災害・死亡など、本来は偶発的であるべき出来事を、

 意図的な偶然として再現する行為を指す。

 目的は保険金の受領であるが、実態としては虚構の演出業に近い。


② 身元の特定が困難であることから、水難事故は保険金詐欺において最も多用される。

 特にカヌーやボートによる“行方不明”は古典的な手口であり、

 遺体が見つからないことが、死亡の証明ではなく支払いの根拠となる皮肉な構造を持つ。

 このため、バルメリア住商海上保険株式会社では、

 商船・漁船などの事故よりも、個人によるカヌー・ボートでの水難事故の取扱件数が圧倒的多数を占める。

 どのような仕組みでそうした案件が集中しているのかは、いまだ不明である。


③ この種の事件をきっかけに広まった諺が、

 「カヌーに乗る者は、沈むより先に書き残す」である。

 意味は、“沈没より契約を先に済ませる者に用心せよ”の意。

 古ヴァルメリア語では「沈む(sumer)」と「儲かる(sumer)」が同音であり、

 “沈没”と“入金”が同義に扱われたことが、この言い回しの由来とされる。

 穏やかな出航ほど不穏な結末を孕むという戒めとして、

 商人や事業家の間でもしばしば引用される。


〔補説〕

 最も有名な事例は、**《Jean Darvain Disparition en Canoë(ジャン・ダルヴァン・カヌー失踪事件)》**で ある。別項参照 

 ある男が水難事故を装って行方をくらまし、

 妻が受け取った保険金で静かに暮らしていたが、

 数年後、市場で“死んでいたはずの夫が買い物をしていた”として発覚した。

 この事件以降、バルメリアでは次の格言が生まれた。

 「生命とは、申請書の提出で始まり、発見で終わる」。



 なお、バルメリア住商海上保険株式会社の支店窓口には、現在もこう記されている。

 > 「ただし、演出過剰な場合は免責となります。」


――『新冥界国語辞典』より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ