第5話 ただのリュシアだ!〜社会勉強中〜⑤
夜の底がようやく明け、
街はいつもの灰色を取り戻した。
痛みと静けさだけを残して、
誰かが、確かにいなくなった朝。
――けれど、“終わり”という言葉ほど、
この街に似合わないものもない。
⸻
どう戻ったのか、記憶も定かではなかった。
リシュアは気づけば、ギルドで簡単な報告を済ませ、
その足で取っておいた宿に戻っていた。
ベッドの上で天井を見つめる。
人の死を、あんなに近くで見たのは初めてだった。
――人の価値とは。命の価値とは。
生まれ育った屋敷では、
老いた者たちが寿命を一日でも延ばそうと
金に物を言わせて施術を受け、薬を飲み続けていた。
命を“買う”世界。
だがこの街では――命は安い。
転べば奪われ、失えば誰も振り返らない。
クル・ノワの命は、なんと軽く儚いことか。
「……これが、父が“学べ”と言っていたことなのか」
呟きが、薄暗い部屋に溶けた。
そうして二日間、失意のまま宿に籠った。
***
三日目の朝。
リシュアは顔を洗い、髪を整え、
「しっかりと報告を上げねば」とギルドへ向かった。
扉を開けた瞬間――眩しかった。
「あ、やっと来たっすねぇ!」
中央のテーブルで、シエナが脚を組んでいた。
金糸の刺繍が入ったクロスに、きらびやかな宝石つきの服。
指輪が十本中八本、耳のピアスは五段階、
もはや“人”より“装飾品の集合体”に近い。
その背後、かつて埃だらけだった棚には、
金色のラベルの高級ウイスキーがずらりと並ぶ。
ミモザが新しいグラスを磨きながら艶っぽく笑った。
「ふふ、見てリシュアちゃん。ベルセリエ産の四十年ものよォ♡」
床は磨かれ、カウンターには新品のクロス。
ギルドが――いや、“高級バー”ができていた。
「……どういうことだ?」
「え、いやぁ~。その……保険金っす!」
「……ほ、けん、きん?」
「はいっ! ルオさん、死亡扱いになったんで!」
シエナはない胸を張り、ピアスをチラつかせながら言う。
「ちなみに受取人、わたしっす!」
リシュアの目が見開かれた。
「貴様ぁああああああ!」
ギルド中の空気が震えた。
椅子が跳ね、グラスがカタカタと鳴る。
ミモザが慌てて割って入る。
「まぁまぁリシュアちゃ~ん、落ち着きなさいなぁ♡」
「落ち着けるか!!」
怒りのままに、リシュアはギルドを飛び出した。
***
辿り着いたのは、あの日の川沿いの橋。
濁った水面には、雲と錆びた街の影が映っている。
風が吹くたび、川面がきらりと揺れ、
それがまるで、あの日の血の色を洗い流すようだった。
橋の上には、一人の釣り人。
陽に焼けた背中、少し若く見える輪郭。
「……釣り人、か」
リシュアは足を止める。
その仕草が――どこか見覚えがあった。
竿を引く腕の癖。
軽く舌打ちして風を読む顔。
――まさか、そんなはずは。
風が吹き抜け、上着がはだけた。
胸に、見覚えのある刺青。
リシュアの呼吸が止まる。
「……ルオ……? 生きていたのか……?」
釣り人がこちらを振り返り、
にやりと笑った。
「よく言われるんですよぉ。魂だけそっくりで」
「……服もタトゥーも、本人そのままだが」
「いやぁ、肉体は同じでも魂は別人ですからねぇ。
たとえるなら……“生前の俺”がリース契約してた体を、
今の俺がレンタルしてる感じ? つまり別件てわけ」
「嘘を、つくな!」
「いやいや、ほんとに! 死んだのは“前の俺”なんで!
だからあの保険金も、“あいつ”への弔い金ってことで問題なし!
ね? 書類的には筋が通ってるでしょ?」
リシュアは絶句した。
そこへ、背後から低い声が飛んだ。
「おいおい、ルオ……またやってくれたなぁ」
犬の獣人の警官――ガス。
体格は熊のように大きく、
短い毛並みの隙間からは、古傷の縫い跡が覗く。
吊り上がった犬歯が光り、
その顔は、笑っているのか怒っているのか分からない。
「え、ちょっ、なんで!? ガスさん!保険金受け取ったのシエナっすよ!?」
「共犯だろうが!」
「ちょ、まっ、俺死んだのに共犯ておかしくない!?」
ガスが冷たい声で告げる。
「“死んだはずの保険契約者”が生きてたら――それは詐欺だ」
ルオは釣り糸を巻きながら、真顔で言った。
「いや、魂は別人なんですって! 倫理的にも、霊的にも、ほらスピリチュアル的にも別人!
前の俺は死んでて、今の俺は“転生した俺”! 転生者に罪はないって神学的にも――」
「言い訳はブタ箱できこうか、ルオ・ラザール」
リシュアはただ、呆然と立ち尽くす。
その横で、ルオは釣り竿を片手に連行されながら叫んだ。
「別人っ!スピリチュアル的に別人なんですってぇ!!!」
***
保険金詐欺【ほけんきんさぎ】
名詞
① 契約上の「もしも」を、計画によって“起こしてしまう”犯罪。
事故・災害・死亡など、本来は偶発的であるべき出来事を、
意図的な偶然として再現する行為を指す。
目的は保険金の受領であるが、実態としては虚構の演出業に近い。
② 身元の特定が困難であることから、水難事故は保険金詐欺において最も多用される。
特にカヌーやボートによる“行方不明”は古典的な手口であり、
遺体が見つからないことが、死亡の証明ではなく支払いの根拠となる皮肉な構造を持つ。
このため、バルメリア住商海上保険株式会社では、
商船・漁船などの事故よりも、個人によるカヌー・ボートでの水難事故の取扱件数が圧倒的多数を占める。
どのような仕組みでそうした案件が集中しているのかは、いまだ不明である。
③ この種の事件をきっかけに広まった諺が、
「カヌーに乗る者は、沈むより先に書き残す」である。
意味は、“沈没より契約を先に済ませる者に用心せよ”の意。
古ヴァルメリア語では「沈む(sumer)」と「儲かる(sumer)」が同音であり、
“沈没”と“入金”が同義に扱われたことが、この言い回しの由来とされる。
穏やかな出航ほど不穏な結末を孕むという戒めとして、
商人や事業家の間でもしばしば引用される。
〔補説〕
最も有名な事例は、**《Jean Darvain Disparition en Canoë(ジャン・ダルヴァン・カヌー失踪事件)》**で ある。別項参照
ある男が水難事故を装って行方をくらまし、
妻が受け取った保険金で静かに暮らしていたが、
数年後、市場で“死んでいたはずの夫が買い物をしていた”として発覚した。
この事件以降、バルメリアでは次の格言が生まれた。
「生命とは、申請書の提出で始まり、発見で終わる」。
なお、バルメリア住商海上保険株式会社の支店窓口には、現在もこう記されている。
> 「ただし、演出過剰な場合は免責となります。」
――『新冥界国語辞典』より




