第4話 ただのリュシアだ!〜社会勉強中〜④
理想と現実の境界を、ひとつ下へ。
バルメリアの最下層。
そのさらに底――《泥路街》は、
命も信用も、足元の泥より安い。
少女と詐欺師の“社会勉強”は、
いよいよ教科書に載らない授業へ突入する。
そして、泥の中で待っていたのは――
“ふわふわのしっぽ”だった。
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クル・ノワ南端――《泥路街》。
王都の胃袋が消化しきれなかった残りかすが沈む場所。
獣人、魔族、機械仕掛け、そして落ちぶれた貴族まで、
あらゆる種が入り混じり、誰もが何かを隠して生きている。
「……ったく、でろに逃げ込むなんざ、帰ってこない気満々じゃねぇか」
ルオは吐き捨てるように言いながら、泥の路地を駆け抜けた。
猫の獣人は軽やかに跳ね、迷いなく曲がる。
「リシュア、こいつ地理知ってるぞ。……この街の生まれだ」
「ならば、逃げたというより――帰ってきたのだな」
川沿いに出る。上層の排水が滴り落ち、油膜が虹を描く。
リシュアが剣を抜く。
「追うぞ!」
「おい待て、話を――!」
リシュアは聞かず、角を曲がった。
視界が開ける。
そこは行き止まりの裏広場。
頭上からは排水が滴り、空気は鉄と血の匂いを孕んでいた。
壊れた樽、倒れた荷車、湿った木箱。
泥水が溜まり、そこだけ時間が止まったように静まり返っている。
その中心に、二つの影。
一つは、泥に沈むように倒れた猫の獣人。
耳を伏せ、尾を抱きしめて震えている。
もう一つ――その前に立つ巨大な影。
包帯で覆われた片目。
濡れた縞模様の毛並みが、腐った光を反射していた。
筋肉が波打つたび、皮膚の下で生き物そのものが蠢くようだ。
太い腕、鋭い爪。呼吸だけで泥水が震える。
濡れた毛並みは油を弾くように艶やかで、
足元の肉球は不釣り合いなほどピンクに光っていた。
さらに尾の先は、ふわりと柔らかそうに膨らみ、
濁った風に合わせてゆるく揺れている。
ルオが呆れ顔で言った。
「……おいおい、茶トラじゃなくて虎そのものじゃねぇか……」
リシュアは報告書をめくり、冷静に読み上げる。
「毛並みが艶やか、肉球がピンク、しっぽがふわふわ――一致している!」
「いや待て、余分な情報の方だけ確認すんなよ!」
虎の片目がギラリと動く。
金色の光が濁った空気を裂いた。
「ギルドの追っ手か……ブローカーのやつ、売りやがったな」
虎が低く唸る。
「――殺すしかねぇか」
金属音が、空気を切り裂いた。
剣と爪がぶつかり、火花が散る。
虎の一撃は重く、風圧だけで泥水が弾け飛ぶ。
リシュアの細剣が弾かれ、身体が揺れる。
「おいおい! チュートリアルじゃなくてボス戦じゃねぇか!」
ルオは舌打ちしながら猫の獣人を背後から引きずり出した。
「逃げろ、今だ!」
猫の獣人は怯えた声で鳴き、身を縮める。
「ほら、動けって――」
ルオが一歩踏み出した瞬間――
「にゃっ!」
足元にやわらかい感触。
ルオの表情が凍る。
「……あ、やべ。猫踏んじゃった」
踏んでいたのは、倒れていた猫の獣人の尻尾だった。
「ぎゃあああああっ!!」
甲高い悲鳴が、静まり返った路地に響く。
その声に、虎の片目がギラリと光った。
「しまっ――!」
咆哮。巨体が跳ね、爪が風を裂いた。
裂けた布が宙を舞い、血の匂いが立ち上る。
まるで腹を断たれたように見えた。
「ルオ!!」
リシュアの叫びと同時に、ルオは反射的に腰のナイフを引き抜き、
虎の片目めがけて投げつけた。
刃が、白い包帯の隙間に吸い込まれる。
「ぐっ……!」
虎が咆哮し、巨体を揺らす。
リシュアがその隙を逃さず踏み込み、
閃光のような一撃を叩き込む。
虎の膝が沈み、泥水が跳ねた。
その衝撃で、足を取られたルオの身体が、
川沿いの欄干を越えて――闇へと落ちていった。
「ルオ!!」
叫びが、泥路の闇に飲まれていく。
――川の底から、泡の音だけが響いた
猫好きかと思ったら動物好きだったのかもしれない…




