第22話 気のせい不成立〜退去勧告中〜①
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モンマール地区
――夕暮れのル・クレール通り。
ガス灯がひとつ、またひとつ灯りはじめる。
石畳には光と影の縞模様。
通りの両側には劇場帰りの客、詩人、詐欺師、商人が入り混じり、
それぞれの夜を始めていた。
そんな喧騒の中を、ルオとシエナが並んで歩く。
シエナが掲示板を指さして目を丸くした。
「ルオさん、これ……見てくださいっすよ。」
掲示板には、一枚の派手なチラシが貼られていた。
金の箔押し、香水のようなデザイン。
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《本日グランドオープン!》
音楽家の邸宅レストラン ― La Maison Sonore ―
モン・マール高台通り 7-12
営業時間 11:00〜23:00(火曜定休)
――“見えないものを、見えないと決めつけない。”
――“残響は歴史。”
――“音の記憶が味を作る。”
――“環境と感性のハーモニーを、あなたの舌で。”
かつて音楽家が暮らしたとされる屋敷を、
静寂と響きのレストランとして再生。
バルメリア初、“耳で味わう食卓”をお楽しみください。
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シエナはチラシをまじまじと見て眉をひそめる。
「……なんすかこれ。ほとんどルオさんが言ってたやつじゃないっすか。」
ルオは笑いながら肩をすくめた。
「著作権料は“開業祝い”ってことでいいさ。
まぁ、あの家をレストランにする発想は、嫌いじゃない。」
「ほんとに開業しちゃったんすね、あの幽霊屋敷……。」
「リブランディングってやつだろ。人間、見えないものの方を高く買うんだ。」
「相変わらずっすね……。」
ルオは通りの先を見た。
「それにしても、今日見てきた物件も悪くなかった。
――とはいえ、また幽霊付きだ。」
シエナが目を丸くした。
「またっすか!?」
「ちょろいもんだろ。
昼間見た限り、問題なし。格安で契約も終わったし、
明日からリノベーションだ。」
シエナが肩をすくめる。
「慣れって怖いっすね……。」
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――翌日
リノベーション初日。
日が暮れるまで働き、屋敷の中はペンキの匂いと夜の湿気でひんやりしていた。
シエナがモップを片づけながら言う。
「……そろそろ帰りません? 音が、ちょっと怖いっす。」
ルオはペンキ缶を閉めながら言った。
「古い家は乾くときに鳴る。木の繊維が縮む音だ。」
「……始まったっす。理屈vs幽霊」
――ギィ。
奥の床がきしむ。
チュロが飛び跳ねる。
「い、今のも繊維?」
「気のせいだ。」
ルオは淡々と。
「耳は疲れると、余計な音を拾うんだ。」
――コトン。
何かが天井裏で落ちた。
「今のも耳の錯覚っすか?」
「そうだ。気のせいだ。屋根の熱が抜ける音だよ。」
リシュアがぼそり。
「お前の理屈、便利だな。」
「説明できれば、怖くないだろ。」
――バタン。
扉がひとりでに閉まった。
沈黙。
シエナが小声で。
「……これも“熱”っすか?」
ルオは少し笑った。
「気圧だ。空気は真面目だから、隙間を埋めようとするんだ。」
その瞬間――
暗い廊下の奥から、低い声が響いた。
「……"気のせいじゃないぞ"」
空気が凍る。
ルオだけが、乾いた笑みを浮かべた。
「……気のせいか。」
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ほんとに怖い話苦手なので怖くないように書くのが大変っす
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リノベーション【りのべーしょん】
名詞(英:Renovation)
① 本来は、老朽化した建築物や空間を改修し、
新たな機能や価値を付与することを指す。
単なる修繕や改築と異なり、
既存の構造を活かしながら時代の需要に合わせて更新する行為である。
都市再生、商業施設の再開発、住宅の改装など、
経済的合理性と文化的再評価の双方を目的とした“再構築型の創造”とされる。
② しかし、ヴァルメリアではこの語がより抽象的な意味で使われる。
“問題を解決せず、見え方だけを変えること”――
すなわち、現実の修繕ではなく、認識の改修を指す。
腐敗した制度に新しいスローガンを貼り、
関係の破綻を「価値観の違い」と呼び、
崩壊の兆しを「過渡期」と説明する。
この街では、**「嘘」よりも「ポジティブな誤魔化し」**の方が誠実とされており、
それを可能にする最も上品な言葉が“リノベーション”である。
〔補説〕
ヴァルメリア市民にとって“再生”とは、壊す勇気のない延命である。
彼らは今日も言う――
「直した?」「いいえ、リノベしました。」
――『新冥界国語辞典』より




