第2話 ただのリュシアだ!〜社会勉強中〜②
バルメリアの最下層。
煙と笑い声とツケの匂いが混ざるこの街で、
“聖女”が社会勉強を始める――という、悪い冗談みたいな話。
常識は通じない。
理屈も、正義も、値札次第。
それでも、彼女は歩き出す。
「人としての価値」を学ぶために
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「……ぇ、ここがクル・ノワよォ。ようこそ、最下層へ♡」
「それでお嬢さん何の御用かしらァ?」
「ギルドに入りたい。特別な資格がいるのか?」
リシュアが真っ直ぐに言う。
ミモザは片眉を上げて笑った。
「資格ぅ? ないわよォ。ここでは誰でも死なない程度に動ければ十分♡」
「死なない程度……?」
「そ。で、この書類にサインしてぇ。
あ、ここ。“死んでも文句言わない”って項目、ちゃんと読んでね♡」
「死んでも文句を……言わない……?」
リシュアが眉をひそめる。
「うん、そうしないとクル・ノワじゃ仕事回せないの。でも安心してぇ、最近は“保険”もあるのよ♡」
ルオが顔を上げた。
「出たよ、ミモザの“安心して詐欺”シリーズ。」
「違うわよォ、れっきとしたモンマールの保険会社が出してるの。
ほらルオ、あんたも入ってるでしょ?」
「入ってるけど……前回の“補償金”がツケで消えたんだよ」
隣でシエナが手を挙げた。
「ちなみに保険金の受取人は、わたしっす!」
「……人の命で冗談を言うな!」
リシュアの声が、店の空気を一瞬で凍らせた。
ミモザは笑いながら手をひらひらさせる。
「まぁまぁ、お嬢さん。ここじゃ“冗談言えるうちが健康の証”なのよォ♡」
ルオがぼそっと呟く。
「命の重さよりツケの方が重い街だしな」
ミモザが笑いながらカウンター越しに身を乗り出した。
「でぇ? お嬢さん、わざわざこんな最下層に何しに来たのよォ?」
「社会勉強だ!」
リシュアは胸を張って言い切った。
「……社会、勉強?」
ルオが思わず復唱する。
「“人としての価値”を学びに来た!」
カウンターの奥でミモザが吹き出した。
「ひゃ〜……! 来たわね、理想と現実のギャップツアー♡」
ルオが椅子を引きながらぼやく。
「よりによって、バルメリアで一番“人としての価値”が安い地区に来ちまったか……」
「失礼な!」
リシュアがぴしっと立ち上がる。
「まぁまぁ、熱意は嫌いじゃないわ♡」
ミモザは笑って書類をしまい、帳簿をめくった。
「いいじゃない、クル・ノワの現実、身をもって学べるわよォ」
「……嫌な予感しかしねぇ」
ルオが小声で呟いた。
「ルオちゃん、あんた先輩でしょ?やる気あるって言ってたわよネェ♡」
「やだよ、俺、人に教えるタイプじゃ――」
「ちょうどいいじゃない♡ やる気と暇だけはあるわよね?手当も少しはつけとくわ♡」
ルオがぴくりと反応する。
「手当……?」
「それにツケもたまってたわよね?♡」
「俺は、クル・ノワ地区で1番の働き者ルオ!
祝日返上で働く覚悟だぜ!よろしくぅ!」
ルオがやけっぱちの笑顔で手を差し出した。
ミモザがにやりと笑う。
「はい決定♡ ルオちゃん、リシュアちゃんのチュートリアル担当!」
リシュアが拳を握った。
「頼む、先輩! 全力で学ばせてもらう!」
「……クル・ノワ地区で1番やる気はあるが、今日は生憎依頼がない。残念だったねお嬢さん!またの機会に!」
ルオが良い笑顔で踵を返そうとした時
通信器の光怪しくミモザの頬を照らした。
「あら、ちょうど依頼が更新されてるわよ♡」
今や田舎でしかみない通信器がカタカタと音を鳴らす
「ソレイユからよ。ポルコ商会の店で強盗殺人ですって。犯人、クル・ノワに逃げ込んだらしいわ。
ほんと、ソレイユの人はお代の払い方が独特ねぇ♡
ポルコちゃん、カンカンよ」
空気が一瞬止まる。
「社会勉強にはちょ〜〜どいいでしょ?」
ミモザの笑顔が光る。
「……どこの国に、そんな物騒すぎる社会勉強があるんだよ……!」
ルオのツッコミが、ギルドの薄暗い天井に響いた。
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保険会社【ほけんがいしゃ】
名詞
① 事故・災害・疾病・死亡など、生活上の不確実な損失を金銭で分散させる仕組み。
契約者は保険料を支払い、保険会社は“もしもの時”に給付を行う。
生命保険・医療保険・損害保険などに分類され、
**「多数の安心が、少数の不幸を支える」**という思想を基礎としている。
ヴァルメリアの主要保険会社の多くは、この理念に基づき誠実に運営されている。
② ――ただし、例外も少なくない。
一部の企業は“加入のしやすさ”を過剰に追求し、
審査を簡略化、説明を削除、署名欄を自動補完するなど、
契約そのものを「希望表明の儀式」として扱う傾向が見られる。
とりわけ《ルミナス日誠損保株式会社》は、
高齢層向け広告で次のスローガンを掲げて話題となった。
> 「80・110、喜んで!」
加入条件は“生きていること”よりも、“入りたい気持ち”が優先される。
支払い実績を誠実さの証と定義し、報告よりも振込を速くすることが信頼の基準とされた。
③ なお、《バルメリア海上住商保険株式会社》のように、
海運事故よりも個人の水難事故を主力に扱うという特殊な企業も存在する。
詳細は→別項【バルメリア海上住商保険】を参照。
〔補説〕
保険業界では、虚偽申請・架空請求・共謀型請求など、
いわゆる**「保険金詐取」が日常的に発生している。
一方で、保険会社側にも“告知義務の逆利用”や“審査の形骸化”など、
制度を熟知した上での“合法的詐欺”が横行しており、
結果として「双方が互いのリスクをヘッジしている状態」として均衡が保たれている。
勧誘の過程でも、「今入らないと将来が危険」**と脅すことが常態化しており、
契約者の不安と企業の不誠実が、きれいな損益バランスを形成している。
このため、事故が増えても支払が増えても、
帳簿上は常に黒字が維持され、保険会社が倒産することはない。




