第1話 ただのリュシアだ!〜社会勉強中〜①
ここは王都バルメリア。
剣と魔法と嘘と借金でできた街だ。
探索者の栄光は過去の話。
今じゃ荷運びと猫探しが主な仕事。
そんな連中が集まる最下層クル・ノワ支部で、
今日ものんきにサボる小狡い男がひとり――
これは、詐欺まがいの計画を立てては捕まる、
一人の“再犯予定者”の物語である。
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バルメリア――
大河を中心に幾重もの環が重なった、王都にして混沌の街。
高台のモン・ヴァロンには王宮と大聖堂がそびえ、
貴族と聖職者が、政略と虚栄を塗り重ねて暮らしている。
その中腹、ベル・モンマールには劇場とサロンが並び、
芸術と享楽、そして詐欺師が肩を並べてワインを飲む。
さらに下れば、商人と魔導具の市場がひしめくマルシェ・デュ・ソレイユ。
昼も夜も喧噪が絶えない商業区だ。
そしてその下、
煙と下水の匂いが入り混じる最下層――
それがクル・ノワ。
街の誰もがこう言う。
「クル・ノワで息をしてる時点で、もう半分死んでる」と。
そんな場所にも、一応“探索者ギルド支部”と呼ばれる建物がある。
……もっとも、実態は潰れかけのバーを改装しただけのボロ小屋だ。
油染みの浮いたカウンター、傾いたテーブル、
天井から垂れ下がるランプが、かろうじて息をしている。
昼から酔っ払いが笑い、夜になると依頼書よりもツケの紙が増える。
この街の“なんでも屋”――それがクル・ノワ支部だ。
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そのカウンターの奥で、ルオが肘をついてだらけていた。
「……なぁミモザ、今日って依頼ゼロ?
よりによって、今日はやる気に溢れてるんだぞ。
俺のやる気を祝って新しい祝日でも制定されたのかな?モンマールの役人さんたちに感謝だよなぁ」
クルノウ地区の探索者ルオ。
猫背気味で、どこにいても少し影が差して見える。
顔立ちは整っているのに、不思議と印象に残らない。
古びたコートの裾を引きずりながら、今日もギルドの椅子に沈んでいた。
「昨日もゼロだったわよォ。」ミモザは爪先でグラスを回す。
「働くより喋る方が向いてるわねぇ、あんた。」
クルノウ地区のギルドマスター、ミモザ。
派手な化粧に深い声。
まるで舞台役者のような立ち姿で、ルオを見下ろしていた。
男か女か──そんな区分けとは無縁の人だ
「うるせぇな、今日は俺だけの特別な祝日を満喫してるんだよ…」
「それ、世間では“無職”って呼ぶのよォ。」
ルオはカウンターに突っ伏しながら、ぼそっと呟いた。
「俺はな、待機型フリーランスだ。」
「それも無職っす!」
ルオの隣で、シエラが足をぶらぶらさせていた。
短く不揃いな髪に、動きやすそうな服。
ぱっと見は少年のようだが、声だけはやけに明るい。
そんなくだらない会話をしていた、その時――
**ガタン!**と、勢いよくギルドのドアが開いた。
昼間から酔っ払いが寝転がるこの街では、珍しく澄んだ声が響く。
「……ごきげんよう。ここが、クル・ノワ探索者ギルドで間違いないか?」
場が一瞬、静止する。
その場の誰もが“ごきげんよう”という台詞を、
人生で一番場違いな場所で聞いた。
ルオがカウンターの奥に目をやりつぶやいた。
「……うわ、やだぁ。ミモザ、今日ってモンマール本部の視察日?」
「聞いてないわよォ。」ミモザは笑いながらグラスを拭く。
「でもあのツヤは確実に上層モノねぇ。」
「まじかよ……!」ルオは慌てて姿勢を正すふりをして、
「俺、今日“働いてる顔”できない日なんだけど!」
シエナが吹き出す。
「さっきやる気あるって言ってたっすよ!」
「そういう正しい訂正はいらねぇ…」
ルオが頭を抱えて、ひそひそ声で言う。
「やだもう……絶対面倒なやつだよ、“ごきげんよう”って言ったもん!」
ドアの前の少女は、堂々とした声で名乗った。
「わたしは、リシュア・ド──」
「ド……」
三人がぴたりと息を合わせる。
「絶対貴族だ……」
「絶対貴族よォ……♡」
「絶対貴族っすね……」
沈黙。
少女は眉をぴくりと動かし、胸を張って叫ぶ。
「ただのリシュアだ!」
ルオは頭を抱えて、半ば悲鳴を上げた。
「もうその時点で“ただ”じゃねぇんだよ!
この街に金ピカが来たら、絶対なんか燃えるんだよ」
ミモザがくすくす笑う。
「“ド”は“ドーナツのド”じゃなくて、“ドラマのド”ねぇ♡」
「やだやだやだ、巻き込まれたくない!」
ルオはカウンターの向こうに逃げようとして、ミモザに襟をつかまれた。
シエナが椅子を回して笑う。
「これ絶対、面白くなるやつっすね!ミモザさん、ルオさんを逃しちゃダメっす!」
リシュアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、なぜ笑う! わたしは真面目に話しているのだ!」
ミモザがため息をつき、手を差し出す。
「はいはい、“ただのリシュア”さん。ようこそ、最下層へ。」
クル・ノワ【Creux-Noir】
〔仏〕名詞
① ヴァルメリア市南端に位置する下層街。
古ヴァルメリア語で“黒の底”を意味する。
行政上は“再開発予定地”のまま放置されており、
上層からは「経済的自立地区」として扱われる。
実際には、工場の煤と下水が地面の一部を構成している。
② 公共・民間の境界は事実上存在しない。
市警局は報酬次第でどちらの味方にもなる“成果報酬型の治安機関”で、
唯一の例外は無銭の市民であり、彼らは“倫理教材”として処理される。
銀行は、講座を開設した者に自動的に融資を行う“先行信用主義”を採用し、
貸し倒れは「社会実験」として記録される。
病院は治療よりも統計を優先し、生存率の上昇をもって成果とみなす。
この三者の連携により、街は常に“活気がある”と報告書に記される。
③ 住民のほとんどは職業と詐術の区別が曖昧で、
取引・脅迫・慈善のいずれも同じ通貨で行われる。
誰も本当のことを言わず、誰もそれを気にしない。
嘘を前提に会話が成り立つため、価値観の統一度は極めて高い。
この状態を、学者たちは“社会的透明”と呼ぶ。
〔補説〕
クル・ノワは、バルメリアにおける**「最も正直な街」**である。
誰も真実を語らないという一点で、全員が平等であり、誠実だ。
ここでは、嘘こそが共通言語であり、
沈黙だけが裏切りとみなされる。
――だからこそ、この街には“信頼”がある。
――『新冥界国語辞典』より




