快方
ガタンガタンと少し大袈裟な音を立てながら列車が進む。レールの境目を飛んで、ぐねぐね続く線路を律儀に進む。
切り取られた窓の向こう側は明るくて、今の自分には勿体ない。夏を告げる入道雲が、水平線の上で膨らんでいる。まだ昼間だというのに、列車に入る陽の光は少なくて、妙に薄暗い。
太陽は真上にある。頭上にあって、全て見られているのに、列車という箱が自分を隠してくれている。
列車の揺れに合わせて、窓から差し込む光が膝を掠める。これだけで十分だった。
ガラガラッ、と静寂を切り裂くように車掌さんが隣の列車から移動してくる。小さくお辞儀をして、揺られながらこちらへ歩いてくる。その足取りは実に穏やかだった。父よりも少しだけ歳を重ねていそうだな、と思った。目尻には皺ができている。穏やかな足取りも相まって、柔らかい雰囲気をしている。
「切符確認します」
あぁ、久しぶりに聞いたな。
未だにICカードが改札に設置されていないから、こうして車掌さんが切手を確認しに来るのだった。自動改札機がある駅と同じくらい無人駅もある。これが近代化に遅れている田舎の宿命。
スマホカバーに挟んでいた切手を取りだす。それを車掌さんに見せて、また挟む。
「おや、ご旅行ですか?」
車掌さんが網棚に置いたスーツケースを見て言った。
胸には『志田』と書かれたネームプレート。
「いえ、里帰りですかね」
「この時期には珍しいですね」
「私の祖母が亡くなりまして、実家に行くんです」
まだ七月の中旬で、世間は忙しく回っている。
そんな中、母からの連絡が来た。
『おばあちゃんが亡くなりました。もし大学をお休みできるのなら、最後にお別れをして欲しいです』
母の、母が、死んだ。
その連絡が来て直ぐに大学の事務室に確認して、公欠とやらを取れることを確認した。そんな質問は聞き飽きていたのか、何処か素っ気ない態度だった。
『大学は公欠になるみたいだから行きます。何か必要なものとかある?』
それから急いで家に戻って、必要そうな荷物を乱雑にスーツケースに詰め込んだ。
東京駅から新幹線に乗っておよそ二時間と四十分。
都会のビル群を高速で抜けて、宇都宮を出た辺りから少しずつ都会が田舎へと変わっていった。ビル郡が住宅地になって、住宅地が田んぼへと姿を変えていく。植えられた稲は青々しく辺り一面を染め上げていた。目的の駅で降りて、そこからは在来線をいくつか乗り継いで。
「それはとんだ失礼を」
車掌さんが慌てて謝罪してくる。
そんな事しなくてもいいのに、と思ってしまう。
「それよりも他のお客さんの所に行かなくて良いのですか?」
「この列車にご乗車されてるのはお客様だけですので」
そう作ったような笑顔で話すと、通路を挟んだ反対側の席へと腰掛けた。横一列、ではなく四人がけで作られた箱の席。
きっとこの行為は褒められたものじゃない。学生の私は、それだけ分かった。
平日の、それも真昼間。
一時間に一本しか出ない列車に乗るよりも、車で移動した方がずっと早い。それにこの辺りも人口減少の魔の手にかかっている。たったの二両編成の車両が、現実をひしひしと現していた。
「私こう見えても結構暇を持て余してましてね。隙を見つけては、お話しているんですよ」
また取ってつけたように大袈裟に笑った。
でも嘘は付いていない。何となく、そう思った。
「ご実家から離れて長いんですか?」
「まだ一年と少しだけですね」
「あら、意外ですねぇ」
声色は感情豊かなのに、いまいち掴み所がない。窓の奥に広がる入道雲のように、一秒ごとに姿を変えていく。
意外って何がですか?
答えを知りたくて急かすように質問した。
「先程『実家に行く』とおっしゃったことですよ。
ほら、実家には戻るものであって、行くものではないでしょう?」
「ぁ……」
掠れ声を合図に胸のつっかえが一回り大きくなる。
言葉尻を掴まれて、つつかれている気もする。行くも戻るも、そう大差はないはずなのに。
長く離れていれば『行く』でも違和感は無いのだろうか。車掌さんは何を言いたいのだろう。
「私たち親世代になると、子供たちが戻ってきてくれるだけで嬉しいんですよ。奮発して、高いお寿司をとってしまうくらいにもう。
それを『行く』と言われてしまったら、なんだが他人行儀な気がして。少し寂しいなと思ってしまうわけなんです」
自分の息子に重ねているのか。何年も前に実家から出て独り立ちして、帰ってきたら嬉しくて。子供にも家族ができたら帰ってくる回数も減っていく。
車掌さんは始発駅から終点までしか行けない。それ以上は進めない。
短いトンネルを出たり入ったりを繰り返す。
切れかけの蛍光灯みたいに、窓の外が光っては消える。子供のイタズラのようだ、とも思った。
列車に入る光は少なくてずっと薄暗い。ぼんやりとした人口の灯りだけが、この箱を照らしている。
幾つかのトンネルを抜けると、線路が示すのは本格的な山道。
田舎の駅は、ひとつひとつが遠かったのだった。
「───高校まではこっちに居たんです。大学が東京の方で、今はそっちで一人暮らしをしてて」
何を言うでもなく、ただ頷いて答えてくる。
「実家で過ごした十八年と今暮らしてるアパート部屋。いつの間にか、帰るべき家はアパートになっちゃってたんですね」
傾いていた天秤が反対側に傾く。
たった一年が、自分の中の何かを塗り替えてしまっていた。実家で理不尽を受けていたとか、こっちでの生活が嫌だったとか。そんなものはこれっぽっちも有りはしない。
だから、たぶん。
切れてしまったのだ。
上京した時に、進学でここから出た時に。自分自身を繋ぎ止めていた何かが、バッサリと。
物心ついた頃からあの家───実家の一軒家で過ごしていた。両親と兄と祖母との五人暮らし。俗にいう転勤族ではなかったし、帰るべき家はいつも同じだった。
例うなら、順風満帆だった。家族関係に順風満帆という言葉を用いるのは間違っているだろうが、本当にそのとおりだった。
家にはずっと祖母がいて、たまに老人会へと出かけていった。出かける日は決まって土曜日。
友達といつも遊びながら帰ってきて、時間が合えば兄とも一緒に下校もした。回数でいえば両手で数えられる程度でも、特別なような気がして、妙に記憶に残っている。
家に着けばパートから戻った母がいる。黒いズボンに、白いブラウスをきて、決まって髪は一本結び。買ったものを冷蔵庫しまっていたり、晩御飯の支度をしていたり、リビングでテレビを見ていたり。やる事はまちまちだったが、必ずと言っていいほど家に居てくれた。
「そういえば、いつ言われたんだっけ……」
体がぐらりと揺れる。
山道を繋ぐ線路はまだ真っ直ぐ続いていた。
揺れたのは私の心だった。
そう、あれはいつだっただろう。
大学受験の日のことか。その前日だったような気も、それよりずっと前のことだった気もする。合格発表の日も言われた気がするし、いざ上京する日の朝に言われた記憶もある。
『おめも東京さ行ぐんだが?』
その一言が背中を押して、こっち側に来てしまった。
戻ろうにも異物になってしまっているようで、どうにもできそうにない。
車内の中に光が弾ける。
とても長かった気がする。こんなにも離れていたのだったか。
外の風景は、いつか過ごした日と変わらない。
窓に映った私とは対照的だ。
変わった私と変わらない町、どちらが正しかったのだろう。
「人間という生き物は、変化を嫌う割に刺激を求めてしまうのですよ。これが何とも生きづらい」
ふいに音楽がなる。
この列車の旅路の終点を告げる音。無機質な女性の録音声がアナウンスを繰り返す。
一息ついて、車掌がゆっくりと立ち上がった。
「実は私は今年が定年なんです。もう終着点に辿り着いていましてね、生き詰まった人間なのです。
繰り返す日々は何も悪くはありませんし、それこそあなたと話す、という尊ぶべき変化だってありましたからね」
ブレーキがかかって、金属の擦れる甲高い音が鳴る。
「つまり何が言いたいかというと。日常の小さな揺らぎでも良いのだと、私は思ったわけですよ。」
『お出口は右側です』
最後のアナウンスを終え、プシューと扉が開く。冷房の空気が逃げて、むわっとした蒸し暑い空気が入り交じる。
扉の向こうからは名前の知らない虫の声。
相変わらず重たいスーツケース片手に、少しだけ軽くなった気持ちを抱える。
「それでは、行ってらっしゃいませ」




