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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第1部:旅立ちのゲーム】【第3章:海の試練】
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第2節:命がけの航海

# 第2節:命がけの航海


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、家族を戦争で失った。

・オメル:40代のトルコ人男性。チャナッカレで密航業者との連絡役を務める。

・マフムート:30代のトルコ人男性。密航船の船長。冷酷で金にしか興味がない。


---


【エーゲ海 - 夜】


漆黒の闇に包まれたエーゲ海。小さな漁船が波に揺られながら進んでいた。船内には30人以上の難民が身を寄せ合い、恐怖と希望が入り混じった表情で沈黙していた。


ハサンはアミラを腕に抱き、船の端に座っていた。彼女は寒さと恐怖で震えていた。


「大丈夫だよ」ハサンは妹の髪を撫でながら囁いた。「もうすぐギリシャだ。そこからはもっと簡単になる」


アミラは兄の胸に顔を埋めた。「お兄ちゃん、怖いよ。海が...暗すぎる」


確かに、周囲は不気味なほど暗かった。船長のマフムートは灯りを最小限にしていた。ギリシャ沿岸警備隊に発見されないためだ。


「昔、お父さんが教えてくれた物語を覚えてる?」ハサンは話題を変えようとした。「シンドバッドの冒険の話」


アミラは小さく頷いた。


「シンドバッドも、私たちと同じように海を渡った。彼は七回の航海で様々な困難に直面したけど、最後には必ず故郷に帰ってきた」ハサンは静かに語り始めた。「私たちも、いつか必ずダマスカスに帰るよ」


それは嘘だった。彼らの家は空爆で破壊され、両親は亡くなった。帰るべき場所はもうなかった。しかし今、アミラを安心させるためには、希望を与える必要があった。


船内の他の難民たちも、それぞれの方法で恐怖と向き合っていた。ファティマは息子のサミルを抱きしめ、小さな声で子守唄を歌っていた。ラヒムは黙って海を見つめ、時折コーランの一節を唱えていた。


突然、船が大きく揺れた。アミラが小さな悲鳴を上げる。


「何だ?」誰かが不安そうに尋ねた。


「ただの波だ」マフムートは冷たく答えた。「黙っていろ」


しかし、その直後、さらに大きな揺れが船を襲った。海が荒れ始めていた。


「嵐か?」ラヒムがマフムートに尋ねた。


船長は空を見上げ、顔をしかめた。「小さな嵐だ。すぐに過ぎる」


しかし、彼の声には不安が混じっていた。


時間が経つにつれ、波はさらに高くなり、船は激しく揺れ始めた。難民たちの間に恐怖が広がった。子供たちが泣き始め、女性たちは祈りを唱えた。


「お兄ちゃん!」アミラはハサンにしがみついた。


「大丈夫だ」ハサンは彼女を強く抱きしめた。「私がついている」


しかし、彼自身も恐怖を感じていた。海は彼らを飲み込もうとしているかのようだった。


マフムートは必死に舵を取っていたが、状況は悪化する一方だった。彼は助手に何か指示を出したが、波の音でその言葉は聞き取れなかった。


突然、巨大な波が船を襲った。船は一瞬宙に浮き、次の瞬間、横倒しになった。


「船が傾いている!」誰かが叫んだ。


パニックが船内を支配した。人々は悲鳴を上げ、必死に何かにつかまろうとした。


「アミラ!」ハサンは妹の手を強く握った。「離さないで!」


次の瞬間、もう一つの巨大な波が船を襲い、船は完全にひっくり返った。


冷たい海水がハサンを包み込んだ。彼は必死にアミラの手を握り続けようとしたが、波の力は強すぎた。彼女の手が彼の手から滑り落ちた。


「アミラ!」彼は水中で叫んだが、声は水に吸い込まれた。


ハサンは必死に水面に浮上し、周囲を見回した。暗闇の中、人々の悲鳴と叫び声が響いていた。転覆したゴムボートの一部が水面に浮かんでいた。


「アミラ!」彼は再び叫んだ。


そのとき、彼は少し離れた場所でアミラが水面に浮かんでいるのを見つけた。彼女は必死に手足をバタつかせていたが、泳ぎは得意ではなかった。


ハサンは全力で彼女に向かって泳いだ。波に逆らいながら、彼は少しずつアミラに近づいた。


「アミラ、頑張れ!」彼は叫んだ。「もうすぐそこだ!」


アミラは兄の声を聞き、希望を取り戻したように見えた。彼女は必死に水面に留まろうとした。


ハサンが彼女に到達したとき、アミラはもう力尽きかけていた。彼は彼女を抱き上げ、浮かんでいた荷物に向かって泳いだ。


「つかまって」彼は防水バッグを彼女に渡した。「離さないで」


アミラは弱々しく頷き、バッグにしがみついた。ハサンも隣で浮いていたプラスチック容器につかまった。


周囲では、他の難民たちも同じように浮いている荷物につかまり、必死に生き延びようとしていた。ファティマは息子のサミルを高く抱き上げ、自分は水に浸かりながらも、息子だけは水面に出していた。


「助けて!」彼女は叫んだ。「息子が...」


ハサンは迷った。アミラを残して泳ぐのは危険だった。しかし、目の前で母子が溺れるのを見過ごすこともできなかった。


「アミラ、ここで待っていて」彼は決断した。「絶対にバッグから離れるな」


「お兄ちゃん、行かないで!」アミラは泣きながら訴えた。


「すぐに戻る」ハサンは約束し、ファティマとサミルに向かって泳ぎ始めた。


波に逆らいながら、彼は少しずつ二人に近づいた。ファティマはもう限界だった。彼女の顔は水面すれすれで、息子を支える力も弱まっていた。


「つかまって」ハサンは近くに浮いていた大きなプラスチックの箱を彼女に押し寄せた。


ファティマは感謝の表情を浮かべ、サミルと共に箱につかまった。


「ありがとう...」彼女は弱々しく言った。


ハサンはすぐにアミラの元に戻った。彼女は無事だった。彼は安堵のため息をついた。


しかし、安心するのは早かった。海は依然として荒れており、波は彼らを翻弄し続けた。暗闇の中、彼らはただ漂流するしかなかった。


「お兄ちゃん、私たち死んじゃうの?」アミラが震える声で尋ねた。


「絶対に死なせない」ハサンは強く言った。「約束する」


時間が経つにつれ、嵐は少しずつ収まっていった。しかし、彼らの状況は依然として危険だった。冷たい海水は彼らの体温を奪い、疲労が彼らを襲った。


ハサンは周囲を見回した。暗闇の中、いくつかの頭が水面に浮かんでいるのが見えた。生存者はまだいた。しかし、何人がエーゲ海に飲まれたのかは分からなかった。


「誰か!」遠くから声が聞こえた。「助けて!」


それはラヒムの声だった。彼は何も掴むものがなく、ただ泳ぎ続けていた。


ハサンは彼の方向を見たが、距離があった。アミラを残して泳ぐのはもう一度危険を冒すことになる。


「ラヒムさん!」ハサンは叫んだ。「こちらに泳いで!」


ラヒムは声のする方向に向かって泳ぎ始めた。彼は疲れていたが、まだ力強く泳いでいた。


やがて、彼はハサンたちの近くまで来た。ハサンは自分がつかまっていたプラスチック容器の一部をラヒムに譲った。


「ありがとう」ラヒムは息を切らしながら言った。


彼らは静かに漂流し続けた。星空が少しずつ見え始め、嵐は完全に過ぎ去ったようだった。しかし、彼らの状況は依然として絶望的だった。


「見て!」突然、アミラが叫んだ。「光!」


遠くに、かすかな光が見えた。それは船の灯りだった。


「助けが来た!」ファティマは希望を取り戻した声で言った。


彼らは必死に手を振り、叫び声を上げた。


「ここだ!」

「助けて!」

「ここにいる!」


光は少しずつ彼らに近づいてきた。それは小さな漁船だった。地元の漁師たちが嵐の後、生存者を探していたのだ。


船が彼らの近くに来たとき、漁師たちは彼らを見つけ、すぐに救助を始めた。


「子供から先に!」船長が指示した。


アミラとサミルが最初に船に引き上げられた。次にファティマ、そしてラヒム。最後にハサンが船に上がった。


彼は震えながらも、すぐにアミラを探した。彼女は毛布に包まれ、船の隅で震えていた。


「アミラ!」彼は彼女の元に駆け寄った。


「お兄ちゃん!」アミラは泣きながら彼に抱きついた。「怖かった...」


「もう大丈夫だよ」ハサンは彼女を強く抱きしめた。「約束通り、守ったよ」


船内には他の生存者もいた。しかし、多くの人が見当たらなかった。マフムートの姿もなかった。


「何人...助かったんですか?」ハサンは漁師の一人に尋ねた。


漁師は悲しげに頭を振った。「あなたたちを含めて15人だ。船には30人以上乗っていたと聞いている」


ハサンは言葉を失った。半数以上が海に飲まれたのだ。彼とアミラが生き残ったのは、奇跡に近かった。


「どこに連れて行かれるんですか?」ラヒムが尋ねた。


「レスボス島だ」漁師は答えた。「そこで当局に引き渡される。難民キャンプに送られるだろう」


ギリシャの難民キャンプ。それは彼らの目的地ではあったが、そこから先の道のりはまだ長かった。しかし今は、生きていることに感謝するしかなかった。


ハサンはアミラを抱きしめながら、夜明けの空を見上げた。東の空がわずかに明るくなり始めていた。新しい一日の始まり。そして、彼らの新しい人生の始まりでもあった。


彼は、チャナッカレでオメルと対峙した夜のことを思い出した。あの時、彼の中で何かが変わった。平和だった学生は、生き残るためなら何でもする難民になった。そして今、海での死の恐怖を経験し、彼はさらに変わっていた。


「お兄ちゃん、私たちはこれからどうなるの?」アミラが小さな声で尋ねた。


ハサンは彼女の髪を優しく撫でた。「分からないよ。でも、一緒にいる限り、何とかなる」


船は静かに波を切り、レスボス島に向かって進んでいった。彼らの前には未知の困難が待ち受けていたが、ハサンは決意を新たにした。アミラを守るため、そして彼らの新しい人生を築くため、彼は何でもするだろう。


たとえそれが、自分の魂の一部を犠牲にすることだとしても。

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