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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第1部:旅立ちのゲーム】【第3章:海の試練】
8/22

第1節:出航の夜

# 第1節:出航の夜


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、家族を戦争で失った。

・オメル:40代のシリア人男性。チャナッカレで密航業者との連絡役を務める。

・マフムート:30代のトルコ人男性。密航船の船長。冷酷で金にしか興味がない。


---


【スルタンアフメット地区の小さなカフェ】


「計画は変更になった。陸路は中止だ」オメルはそう告げた。


「どういうことですか?」ハサンは眉をひそめた。


「ブルガリアへの陸路が危険になった」オメルは周囲を警戒しながら小声で説明した。「国境警備が強化され、先週、グループ全員が逮捕された。今は海路しかない」


ハサンは不安を感じた。アミラのことを考えると、海の危険は避けたかった。しかし、選択肢はなさそうだった。


「どこから出発するのですか?」


「チャナッカレ」オメルは地図を広げ、イスタンブールの南西、ダーダネルス海峡に面した小さな港町を指さした。「そこからギリシャのレスボス島を目指す。距離は約10キロ。天候が良ければ、2時間ほどだ」


「船は?」


「ゴムボートだ」オメルは言った。「12人乗りだが、20人ほど乗せる。全員が難民だ」


ハサンは息を呑んだ。「安全なのですか?」


オメルは肩をすくめた。「これが現実だ。選択肢はこれしかない」


「費用は?」


「予定通り3000ユーロ」オメルは言った。


カフェを出た後、ハサンは混乱した気持ちでアパートに戻った。アミラに何と説明すればいいのか。彼女は海を怖がっていた。シリアを出る前、テレビで難民ボートが沈む映像を見て以来、海への恐怖を抱いていたのだ。


アパートでは、アミラが彼の帰りを待っていた。彼女は兄の表情を見て、すぐに何かが違うことに気づいた


「どうしたの、お兄ちゃん?」


ハサンは彼女の隣に座り、優しく手を握った。「アミラ、計画が少し変わったんだ」


「どう変わったの?」


「陸ではなく、海を渡ることになった」ハサンは慎重に言った。「小さなボートでギリシャまで行くんだ」


アミラの顔から血の気が引いた。「あの…沈んだボートみたいに?」


「違う、違う」ハサンは急いで彼女を安心させようとした。「あれは大きな嵐の時だった。私たちは天気の良い夜に行くんだ。とても安全だよ」


それが嘘だということは、ハサン自身がよく知っていた。しかし、アミラを怖がらせるわけにはいかなかった。


「怖いよ…」アミラは小さな声で言った。


「大丈夫」ハサンは彼女を抱きしめた。「僕がずっと一緒にいるから。何があっても離れないよ」


その夜、ハサンは荷物をまとめた。持っていけるのは最小限のものだけだった。衣類、水、少しの食料、そして何より大切な3000ユーロ。彼はお金を防水袋に入れ、服の下に隠した。


翌朝、彼らはゼイネプおばさんに別れを告げた。


「気をつけて行くんだよ」ゼイネプは涙ぐみながら言った。「ヨーロッパに着いたら、連絡してね」


「必ず」ハサンは約束した。「助けてくれて、ありがとうございました」


彼らはバスでチャナッカレに向かった。5時間の旅の間、アミラは窓の外の景色を黙って見つめていた。ハサンは彼女の恐怖を和らげようと、ヨーロッパでの新しい生活について話し続けた。学校に行けること、安全に暮らせること、そして将来の夢を追いかけられることを。


チャナッカレに到着したのは夕方だった。オメルの指示通り、彼らは港近くの小さなホテルにチェックインした。部屋は質素だったが、清潔だった。


「ここで少し休もう」ハサンはアミラに言った。「夜になったら出発するんだ」


アミラは黙って頷いた。彼女の目には恐怖が浮かんでいたが、兄を信頼していることも明らかだった。


【チャナッカレ近郊 - 出航前日】


約束通り、オメルとカフェで会った二日後。チャナッカレの港町から少し離れた小さな漁村。ハサンとアミラは、他の難民たちと共に古い倉庫で一夜を過ごしていた。明日の夜、彼らはギリシャへと向かう船に乗り込む予定だった。


「お兄ちゃん、怖いよ」アミラは小さな声で言った。


彼女はハサンの隣で毛布にくるまっていた。倉庫の中は湿気が多く、冷えていた。周りには他の難民たちも横になっていたが、誰も深く眠れている様子はなかった。


「大丈夫だよ」ハサンは妹の肩を抱いた。「明日の今頃には、もうギリシャにいるんだ。そこからはもっと簡単になる」


それは嘘だった。ハサンは知っていた。海を渡ることは始まりに過ぎないこと、そしてヨーロッパへの道のりはまだ長いことを。しかし、アミラを安心させるためには、強がる必要があった。


「ねえ、ダマスカスに帰れる日は来るのかな?」アミラが尋ねた。


ハサンは言葉に詰まった。彼らの家は空爆で破壊され、両親は亡くなった。帰るべき場所はもうなかった。


「いつか、きっと」彼は曖昧に答えた。「でも今は前を向こう。新しい生活が待っているよ」


アミラは小さくうなずき、やがて疲れから眠りについた。しかし、ハサンは眠れなかった。明日の航海のことを考えると、恐怖が込み上げてきた。地中海での難民船の事故のニュースは何度も耳にしていた。


彼は静かに立ち上がり、倉庫の外に出た。夜の空気は冷たく、星が明るく輝いていた。遠くには港の灯りが見えた。


「眠れないのか?」


振り返ると、ラヒムが立っていた。40代のアフガニスタン人男性で、元教師だという。彼は穏やかな目をしていたが、その奥には深い悲しみが宿っていた。


「ええ」ハサンは認めた。「明日のことを考えると...」


「恐怖は自然なことだ」ラヒムは言った。「恐怖を感じない者は愚か者だ。しかし、恐怖に支配されてはならない」


彼らは静かに夜空を見上げた。


「あなたの妹さんは強い子だ」ラヒムが言った。「あんな小さな体で、これほどの旅に耐えている」


「アミラは...」ハサンは言葉を探した。「彼女は私の全てです。彼女のためなら、何でもします」


ラヒムは理解を示すようにうなずいた。「家族のためなら、人は想像もつかないことができる」彼は遠い目をした。「私も同じだった。カブールで家族と暮らしていた頃は...」


彼は言葉を切った。その記憶は彼を苦しめるようだった。


彼らは暫く黙って立っていた。


「明日の船長は信頼できるのか?」ハサンが尋ねた。


ラヒムは肩をすくめた。「マフムートか?彼は金のためなら何でもする男だ。私たちが無事に到着することは、彼の利益になる。しかし...」彼は言葉を切った。


「しかし?」


「彼は危険を冒すタイプではない。何か問題が起きれば、自分の安全を最優先するだろう」


その言葉は、ハサンの不安を和らげるものではなかった。


「休んだ方がいい」ラヒムは言った。「明日は長い一日になる」


ハサンは頷き、倉庫に戻った。アミラは静かに眠っていた。彼は妹の隣に横になり、目を閉じた。しかし、眠りは容易には訪れなかった。


【チャナッカレ - 小さな港町 - 出航当日】


翌日の午後、ハサンはアミラの手を握り、小さな港町の路地を歩いていた。オメルは、出航前に最終的な支払いをするよう指示していた。


「ここだ」ハサンは古びた建物の前で立ち止まった。看板には「カフェ」と書かれていたが、店内は薄暗く、客はほとんどいなかった。数日前、彼らが最初にオメルと会った場所だった。


「アミラ、外で待っていて」ハサンは言った。「すぐに戻るから」


「一人は嫌だよ」アミラは不安そうに周囲を見回した。


ハサンは迷った。確かに、見知らぬ町で妹を一人にするのは危険だった。しかし、中での取引を彼女に見せたくもなかった。


「じゃあ、一緒に来て」彼は決断した。「でも、私の後ろにいて、何も言わないで」


彼らはカフェに入った。奥のテーブルに、オメルが座っていた。ハサンは彼に近づいた。


「オメルさん」


男は彼らを見上げ、頷いた。「ハサンだな。支払いの準備はできているか?」


ハサンは緊張しながら頷き、服の内側に隠していた封筒を取り出した。彼とアミラの全財産だった。


「これで、私たちは今夜の船に乗れるんですね?」ハサンは確認した。


オメルは封筒を受け取り、中身を確認した。「ああ、問題ない。夜8時に、北の小さな入江に来い。そこに船がある」


ハサンは安堵した。しかし、その時、カフェの入り口から別の男が入ってきた。彼はオメルに何かを耳打ちした。


「少し問題が起きた」オメルは顔色を変えた。「船の出航が遅れる。明日の朝になるかもしれない」


「明日?」ハサンは動揺した。「でも、私たちはもう宿を出てしまいました。今夜はどこで—」


「それは私の問題ではない」オメルは冷たく言った。「明日の朝6時に来い。場所は同じだ」


彼は立ち上がり、封筒を持って出て行こうとした。


「待ってください」ハサンは彼の腕をつかんだ。「少なくとも、お金の一部を返してください。宿を探さなければ—」


「手を離せ」オメルは低い声で言った。「お前たちのような難民は山ほどいる。文句があるなら、他を当たれ」


ハサンは怒りを感じたが、アミラの存在を意識して自制した。「分かりました」彼は手を離した。「明日の朝6時ですね」


オメルは冷笑し、カフェを出て行った。


「お兄ちゃん、どうするの?」アミラが不安そうに尋ねた。


「大丈夫だよ」ハサンは強がった。「今夜は...どこか見つけるよ」


彼らはカフェを出た。日は傾き始め、町には夕暮れの影が落ち始めていた。ハサンは残りのわずかな金で、安い食べ物を買い、アミラと共に港の近くのベンチで食事をした。


「今夜はここで寝るの?」アミラが尋ねた。


「いや、もっと安全な場所を見つけよう」ハサンは言った。


彼らは町をさまよった。やがて、小さな公園を見つけた。人目につかない場所に、段ボールを敷いて簡易の寝床を作った。


「少しの間だけだよ」ハサンはアミラを安心させようとした。「明日の朝には船に乗れる」


アミラは疲れていたのか、すぐに眠りについた。しかし、ハサンは警戒を解かなかった。この町は安全ではなかった。特に難民にとっては。


夜が更けていく中、ハサンは不安な思いで周囲を見回していた。そのとき、彼は公園の入り口に見覚えのある姿を見つけた。オメルだった。彼は別の男と話していた。


好奇心と疑念から、ハサンはアミラを起こさないように注意しながら、少し近づいて会話を盗み聞きした。


「...明日なんてない」オメルが言っていた。「あいつらから金を巻き上げただけだ。船なんて出ないよ」


「馬鹿なことを」もう一人の男が言った。「マフムートが知ったら—」


「マフムートには話さなければいい」オメルは笑った。「あいつらは明日の朝、誰も来ないことに気づくだろう。その頃には、俺たちはもういない」


ハサンの中で怒りが沸き起こった。彼らは騙されていたのだ。全財産を奪われ、見捨てられようとしていた。


彼は静かに元の場所に戻り、眠るアミラを見つめた。どうすればいいのか。警察に行くべきか?しかし、不法滞在の難民である彼らが警察に助けを求めることはできなかった。


決断を下したハサンは、アミラを起こした。


「アミラ、起きて」彼は小声で言った。「ここにいるのは安全じゃない。移動するよ」


「どこに行くの?」アミラは眠そうに尋ねた。


「ちょっと場所を変えるだけだよ」ハサンは言った。「私についてきて、静かにね」


彼らは公園を出て、オメルたちが向かった方向とは反対に歩いた。やがて、彼らは港の近くの路地に来た。そこで、ハサンはアミラを安全な場所に隠した。


「ここで待っていて」彼は言った。「絶対に動かないで。すぐに戻るから」


「どこに行くの?」アミラは怯えた様子で尋ねた。


「大丈夫だよ」ハサンは彼女の頭を撫でた。「信じて」


ハサンは路地を戻り、オメルを探した。彼は長い間、町をさまよった。やがて、小さな酒場の前でオメルを見つけた。彼は一人で、酔っているようだった。


ハサンは暗い路地に身を隠し、オメルが酒場を出るのを待った。時間が経ち、深夜になると、オメルはよろめきながら酒場を出た。彼は人気のない路地に向かって歩き始めた。


ハサンは静かに彼の後をつけた。心臓は激しく鼓動していた。彼は今まで人を傷つけたことはなかった。ダマスカスでは、平和な学生生活を送っていた。しかし今、彼の中には見知らぬ怒りと決意があった。


路地の奥、街灯の届かない暗がりで、ハサンはオメルに近づいた。


「オメル」彼は声をかけた。


男は振り返った。酔いのせいか、最初はハサンが誰なのか認識できないようだった。


「お前は...」彼は目を細めた。「ああ、難民の小僧か。何の用だ?」


「私たちのお金を返してください」ハサンは冷静に言った。「あなたが嘘をついていたことは知っています。船は出ないんでしょう?」


オメルは一瞬驚いたが、すぐに冷笑を浮かべた。「賢いじゃないか。だが、お前に返すものはない。さっさと消えろ」


彼はハサンを押しのけようとした。その瞬間、ハサンの中で何かが切れた。アミラの顔、彼らの失われた家、そして彼らの全財産が詰まった封筒—全てが彼の目の前でフラッシュバックした。


ハサンは路地の地面から石を拾い上げ、オメルの頭を殴った。男は驚きの声を上げ、よろめいた。血が彼の額から流れ出した。


「お金を返せ」ハサンは震える声で言った。


「くそ...」オメルは怒りと恐怖が入り混じった表情で言った。彼はポケットから封筒を取り出した。「これでいいだろう?」


ハサンは封筒を奪い取った。中身を確認すると、彼らが支払った金額の大部分がまだ残っていた。


「これで終わりだ」ハサンは言った。「二度と私たちに近づくな」


彼は急いでその場を離れ、アミラが待つ場所に戻った。手には血が付いていた。オメルの血だ。彼は路地の水たまりで手を洗ったが、血の感触は消えなかった。


「お兄ちゃん!」アミラは彼を見て安堵の表情を浮かべた。「どこに行ってたの?」


「大丈夫だよ」ハサンは微笑もうとした。「お金を取り戻したんだ。これで別の方法を見つけられる」


その夜、彼らは港の倉庫の陰に隠れて過ごした。ハサンは何度も手を洗ったが、血の感触は心から消えなかった。翌朝、彼は水たまりに映る自分の顔を見て、一瞬誰だか分からなくなった。かつてダマスカスの大学を目指していた平和な少年の面影はなく、そこにいたのは生き残るためなら何でもする難民だった。


「お兄ちゃん、どうしたの?」アミラが彼の表情の変化に気づいて尋ねた。


ハサンは深呼吸をした。「何でもないよ」彼は言った。「さあ、新しい船を探そう。ギリシャはまだ私たちを待っている」


彼らは港に向かった。そこで、彼らはラヒムと再会した。彼もまた、オメルに騙されかけていたが、疑いを持って別の密航業者を探していたのだった。


「運が良かったな」ラヒムは言った。「別の船を見つけた。今夜出航する。信頼できる船長だ」


「いくらですか?」ハサンは尋ねた。


ラヒムは金額を告げた。ハサンが取り戻した金額とほぼ同じだった。


「参加します」ハサンは決断した。


その日の夕方、彼らは他の難民たちと共に、小さな漁船に乗り込んだ。船は古く、定員オーバーだったが、船長は経験豊かに見えた。


船が岸を離れる時、ハサンはアミラの手を握りしめた。彼らの前には未知の危険が待ち受けていた。しかし、彼は既に変わっていた。アミラを守るためなら、彼は何でもするだろう。たとえそれが、自分の魂の一部を犠牲にすることだとしても。


「お兄ちゃん」アミラが小さな声で言った。「最初は陸路で行くつもりだったよね。でも今は海を渡るんだね」


ハサンは頷いた。「ああ。陸路は今は危険すぎる。セルビアとハンガリーの国境が閉鎖されたと聞いた。多くの難民が足止めされている」


「海は怖いよ」アミラは震える声で言った。


「大丈夫」ハサンは彼女を抱きしめた。「たった数時間の航海だ。朝には、もうギリシャにいる」


それは半分の真実だった。確かに距離は近かったが、その海域は危険だった。しかし今は、アミラを安心させることが最優先だった。


船は徐々に沖へと進んでいった。岸の灯りが遠ざかり、彼らは暗い海の中へと消えていった。

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