第3節:旅の資金
# 第3節:旅の資金
タクシム広場は人々で溢れていた。ヨーロッパ風の建物と中東の雰囲気が混ざり合う独特の空間で、観光客、地元の人々、そして多くの難民たちが行き交っていた。ハサンは時計台の前で待ちながら、周囲を警戒していた。
約束の時間から10分ほど経ったとき、マフムードが現れた。彼は普段よりも緊張した様子で、ハサンに近づくとすぐに「ついてこい」と言った。
二人はタクシム広場から少し離れた路地に入り、さらに何度か曲がった。やがて彼らは小さなカフェに到着した。店内は薄暗く、数人の男たちがテーブルを囲んでいた。
「ハサン、こちらはセリムだ」マフムードは一番奥のテーブルに座る男を指さした。「彼が話したい仕事の話をしてくれる」
セリムは30代半ばの男で、高価そうな時計と洗練された服装が目を引いた。彼はハサンを見ると、にこやかに笑顔を見せた。
「座りなさい」セリムは流暢な英語で言った。「マフムードからあなたのことは聞いている。英語が堪能で、頭が良く、そして何より、お金が必要だと」
ハサンは静かに頷いた。「はい、ヨーロッパに行くための資金が必要です」
「3000ユーロ、そう聞いている」セリムは言った。「私の仕事を手伝えば、2ヶ月もあれば稼げる金額だ」
「どんな仕事ですか?」ハサンは慎重に尋ねた。
セリムはテーブルの下から小さな包みを取り出し、ハサンに見せた。中には数枚のパスポートと身分証明書が入っていた。
「これらの書類を必要としている人々がいる」セリムは静かに説明した。「あなたの仕事は、これらを届けることだけ。単純な配達人だ」
ハサンは息を呑んだ。それは明らかに偽造書類だった。
「違法です」彼は小声で言った。
セリムは肩をすくめた。「この国では、多くのことが違法だ。だが、それが生き残る唯一の方法だという人々もいる」彼は一枚の写真をハサンに見せた。そこには小さな子供を抱いた女性が写っていた。「この母親は、子供に医療を受けさせるために書類が必要なんだ。彼女には選択肢がない」
ハサンは写真を見つめた。その女性の目には、彼自身が感じている同じ絶望と決意が映っていた。
「一回の配達で300ユーロ」セリムは続けた。「週に2回の仕事があれば、2ヶ月で目標額に達する」
「危険は?」ハサンは尋ねた。
「もちろんある」セリムは正直に答えた。「だが、私たちは賢く動く。配達ルートは毎回変え、警察の動きも把握している。5年間、一度も捕まった者はいない」
ハサンは考え込んだ。違法行為に手を染めることは、彼の道徳観に反していた。しかし、アミラのことを考えると、選択肢は限られていた。
「考えさせてください」ハサンは言った。
「もちろん」セリムは名刺を渡した。「24時間以内に連絡してくれ。他にも候補者はいる」
カフェを出た後、マフムードはハサンの肩に手を置いた。「迷っているのはわかる。だが、他に選択肢はあるか?」
「正規の仕事では、何年かかるかわからない」ハサンは認めた。
「それに、冬が来る前に出発しなければ」マフムードは付け加えた。「オメルが言ったように、冬の国境越えは地獄だ」
その夜、ハサンはアパートの窓辺に座り、夜のイスタンブールを見つめていた。アミラは既に眠りについていた。彼女の寝顔は平和そのものだった。
ハサンはポケットから父の写真を取り出した。国境を越えるために腕時計を手放したことが今でも心に重くのしかかっていた。父なら何と言うだろう?違法な仕事に手を染めることを許すだろうか?しかし、父も母も、アミラの安全を最優先にするだろうことは確かだった。
翌朝、ハサンは決断を下した。公衆電話からセリムに電話をかけ、仕事を受けると伝えた。
「賢明な判断だ」セリムは電話越しに言った。「今日の夕方、最初の仕事の説明をする」
最初の配達は比較的簡単だった。ハサンはベシクタシュ地区の特定のカフェで封筒を受け取り、それをファティハ地区のアパートに届けるだけだった。彼は観光客を装い、公共交通機関を使って移動した。
封筒を受け取った男性は、感謝の言葉と共に約束の300ユーロを手渡した。ハサンがアパートに戻ると、アミラは彼の表情の変化に気づいた。
「お兄ちゃん、何かいいことあったの?」
ハサンは微笑んだ。「うん、いい仕事が見つかったんだ。これからはもっといいものが食べられるよ」
「本当?」アミラの目が輝いた。「チョコレートも?」
「もちろん」ハサンは彼女の頭を撫でた。「明日買ってくるよ」
その夜、ハサンは300ユーロを数えながら、自分の選択について考えた。これが正しい道なのかはわからない。しかし、アミラの未来のためには必要な犠牲だった。
週が経つにつれ、ハサンはセリムの組織の中で信頼を得ていった。彼の英語力と冷静な判断力は高く評価され、より重要な配達を任されるようになった。報酬も増え、時には一回の仕事で500ユーロを稼ぐこともあった。
一ヶ月が過ぎた頃、ハサンの貯金は2000ユーロに達していた。目標まであと少しだった。
ある日、セリムは特別な仕事をハサンに持ちかけた。
「これまでで最も重要な配達だ」セリムは説明した。「高官の家族のためのパスポートだ。報酬は1000ユーロ」
ハサンは驚いた。「一回の仕事で?」
「そうだ」セリムは頷いた。「だが、リスクも大きい。警察の監視が厳しい地区を通らなければならない」
ハサンは考えた。この仕事を成功させれば、目標額に達する。オメルに連絡し、ヨーロッパへの旅を始められる。
「引き受けます」ハサンは決意を固めた。
配達の日、ハサンはいつも以上に緊張していた。セリムから受け取った小さなバッグには、高品質の偽造パスポート数冊が入っていた。彼は指示通りにベヨグル地区を通り、最終目的地のカドキョイを目指した。
ボスポラス海峡を渡るフェリーの上で、ハサンは突然の不安に襲われた。周囲を見回すと、警官らしき男性が彼を注視しているように感じた。ハサンは冷静を装い、観光客のふりをして海の景色を眺めた。
フェリーが到着し、乗客が降り始めたとき、その警官はハサンに近づいてきた。ハサンの心臓は激しく鼓動した。
「君、ちょっといいか?」警官はトルコ語で言った。
ハサンは英語で返答した。「すみません、トルコ語がわかりません」
警官は英語に切り替えた。「パスポートを見せてください」
ハサンは自分のシリアのIDを見せた。警官はそれを確認し、周囲を見回した後、意外にも彼を通した。
「気をつけて」警官は言った。「この辺りは危険だ」
ハサンは安堵のため息をついた。危機は去ったように思えた。
予定通りに配達を完了し、約束の1000ユーロを受け取ったハサンは、急いでアパートに戻った。これで合計3000ユーロ。ヨーロッパへの旅の資金が揃った。
アパートでは、アミラが彼の帰りを待っていた。
「お兄ちゃん、遅かったね」彼女は言った。「心配したよ」
ハサンは彼女を抱きしめた。「ごめんね。でも、いいニュースがあるんだ」
「何?」アミラは好奇心に満ちた目で見上げた。
「もうすぐ、次の旅に出られるよ」ハサンは言った。「ヨーロッパへの旅だ」
アミラの顔に喜びが広がった。「本当?いつ行けるの?」
「まもなくだよ」ハサンは答えた。「明日、オメルさんに連絡するんだ」
その夜、ハサンは公衆電話からオメルに電話をかけた。
「準備ができました」ハサンは言った。
「よし」オメルの声は落ち着いていた。「明後日、同じカフェで会おう。詳細を説明する」
電話を切った後、ハサンは深呼吸した。これから始まる旅は、さらに危険なものになるだろう。しかし、アミラのためなら、どんな困難も乗り越える覚悟はできていた。
アパートに戻る途中、ハサンは空を見上げた。星々が輝いていた。どこかで、両親も彼らを見守っているような気がした。
「もうすぐだよ」ハサンは父の写真を胸ポケットに戻しながら小さく呟いた。「もうすぐ安全な場所に着くから」
「ゲーム」の次のステージが、今まさに始まろうとしていた。