第2節:運び屋との接触
# 第2節:運び屋との接触
イスタンブールでの生活が一ヶ月を過ぎようとしていた。ハサンはグランドバザール近くの土産物店で働き、毎日50リラを稼いでいた。その金で彼らは生活費を賄い、さらに少しずつ貯金もできていた。トルコでは難民として正式な滞在許可を得ることは難しく、いつ当局に見つかるかという不安が常につきまとっていた。何より、アミラの将来を考えると、教育や医療が整備され、正式な難民認定を受けられるヨーロッパの国々を目指すべきだと感じていた。イスタンブールでの生活は一時的な避難に過ぎず、本当の安全と安定はまだ先にあると、ハサンは確信していた。
「ヨーロッパへの道を知っているか?」
ある日、ハサンは同じ店で働くシリア人の青年マフムードに尋ねた。マフムードは彼より3歳年上で、イスタンブールに来てすでに半年が経っていた。
マフムードは周囲を警戒するように見回してから、小声で答えた。「知っているさ。でも、それは命がけのゲームだ」
「教えてくれないか?」ハサンは食い下がった。
マフムードは一瞬ためらったが、やがて頷いた。「今日の仕事が終わったら、カラキョイの橋の下で会おう。そこなら人目につかない」
その日の夕方、ハサンはゼイネプおばさんにアミラを預け、カラキョイへと向かった。カラキョイはイスタンブールの旧市街と新市街を分ける金角湾に面した古い港町で、観光客と地元の人々で賑わう商業地区だった。金角湾に架かるガラタ橋の下、船着き場の近くには、すでにマフムードが待っていた。周囲では漁師たちが網を手入れし、行き交う船の汽笛が響いていた。
「来たか」マフムードは煙草を吸いながら言った。「本気なのか?」
「本気だ」ハサンは答えた。「アミラのためにも、ヨーロッパに行かなければならない」
マフムードは煙草を海に投げ捨て、ハサンの肩に手を置いた。「二つの道がある。海路と陸路だ」
「どちらがいい?」
「どちらも危険だ」マフムードは真剣な表情で言った。「海路はエーゲ海をボートで渡り、ギリシャを目指す。短いが、溺死の危険がある。陸路はブルガリアを経由する。長いが、比較的安全だ」
ハサンは考え込んだ。アミラのことを考えると、海の危険は避けたかった。「陸路について、もっと教えてくれ」
「明日、ある人物を紹介する」マフムードは言った。「彼は『運び屋』だ。ブルガリアへの道を知っている」
翌日、マフムードはハサンをスルタンアフメット地区の小さなカフェに連れて行った。スルタンアフメットはイスタンブールの最も古い地区で、青いタイルが美しいブルーモスクや巨大なアヤソフィア博物館など、オスマン帝国の栄華を伝える建造物が立ち並ぶ観光の中心地だった。迷路のような石畳の路地を抜けた先にある、観光客の目につきにくい地元向けの小さなカフェ。そこには中年の男が一人、窓際の席に座っていた。
「ハサン、こちらはオメルさんだ」マフムードが紹介した。「オメルさん、これが私の話した若者です」
オメルはハサンを上から下まで観察した。彼の目は何かを見抜くように鋭かった。
「座れ」オメルはトルコ語で言った。
ハサンが席に着くと、オメルは英語に切り替えた。「マフムードから聞いた。ヨーロッパに行きたいそうだな」
「はい」ハサンは答えた。「妹と一緒に」
「妹?何歳だ?」
「9歳です」
オメルは眉をひそめた。「子供を連れての旅は難しい。特に国境越えはな」
「どんな困難でも乗り越えます」ハサンは決意を込めて言った。
オメルはしばらくハサンを見つめた後、ゆっくりと頷いた。「わかった。だが、安くはない。二人で3000ユーロだ」
ハサンは息を呑んだ。それは彼の想像をはるかに超える金額だった。今の貯金は500ユーロほどしかない。
「時間をください」ハサンは言った。「お金を集めます」
「急ぐ必要はない」オメルは意外にも優しい声で言った。「だが、冬が来る前に決めることだ。冬の国境越えは地獄だ」
オメルは紙切れに電話番号を書き、ハサンに渡した。「準備ができたら、この番号に連絡しろ。ただし、公衆電話からな」
会話を終えると、オメルは静かに店を出て行った。マフムードはハサンの表情を見て、苦笑した。
「高いだろう?でも、これが相場だ」
「どうやってそんな金額を集めればいいんだ?」ハサンは途方に暮れた様子で尋ねた。
マフムードは周囲を見回してから、さらに声を落とした。「もっと稼げる仕事がある。だが、リスクも大きい」
「どんな仕事だ?」
「明日、タクシム広場の時計台の前に来い。午後3時だ」マフムードはそれ以上の説明を避けた。「そこで全てを話す」
タクシム広場はイスタンブールの新市街の中心で、現代的な商業施設や高級ホテルが立ち並ぶ繁華街だった。多くの人で常に混雑しており、待ち合わせ場所としては目立たない場所だ。
その夜、アパートに戻ったハサンは、眠るアミラの顔を見つめながら考え込んだ。3000ユーロ。途方もない金額だった。しかし、ヨーロッパでの新しい生活のためには必要な投資かもしれない。
「どうしたの、お兄ちゃん?」アミラが目を開けた。「心配そうな顔してる」
ハサンは微笑んだ。「何でもないよ。ただ、これからのことを考えてたんだ」
「ヨーロッパに行けるの?」
「もちろんだよ」ハサンは彼女の髪を撫でながら答えた。「少し時間がかかるけど、必ず行ける」
アミラは安心したように再び目を閉じた。「お兄ちゃんが言うなら、きっとそうなるよね」
ハサンは窓の外を見た。イスタンブールの夜景が輝いていた。この街で彼らの運命が大きく変わろうとしていた。明日、マフムードが言う「リスクの大きい仕事」とは何なのか。それが彼らをヨーロッパへと導く鍵になるのか、それとも新たな危険への入り口なのか。
壁に掛けられたナザールが、月明かりに青く輝いていた。それは彼らを守ってくれるのだろうか。ハサンにはわからなかった。ただ、アミラのためなら、どんなリスクも受け入れる覚悟はできていた。
「ゲーム」は次の段階に入ろうとしていた。




