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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第1部:旅立ちのゲーム】【第2章:トルコの日々】
5/22

第1節:イスタンブールの迷宮

# 第1節:イスタンブールの迷宮


【登場人物紹介】

・ハサン:17歳のシリア・アレッポ出身の少年。両親を空爆で亡くし、妹のアミラを守るため故郷を離れた。英語が堪能で、通訳として頼られることも。

・アミラ:ハサンの9歳の妹。幼いながらも強さを持ち、母の形見の数珠を大切にしている。

・カマル:シリアからトルコへの密航を手配した男性。自身も息子を難民ルートで失った過去を持つ。

・ファリド:ハサンとアミラの父方の叔父。二人をシリアから脱出させるきっかけを作った。


---


2015年9月中旬、イスタンブール。


アジアとヨーロッパの境界に位置する古都イスタンブールは、何千年もの歴史が積み重なった迷宮のような街だった。オスマン帝国の壮麗なモスクと現代的な高層ビルが共存し、路地は人々と物と匂いで溢れかえっていた。


ハサンとアミラがこの巨大都市に到着してから一週間が経っていた。シリアからの危険な国境越えの後、彼らはカマルの紹介でファティハ地区の安アパートの一室を借りていた。一つの部屋に簡素なベッド二つと小さなテーブル、共同キッチンと共同バスルームという質素な環境だったが、爆撃の恐怖から解放された平穏な夜を過ごせることに、二人は感謝していた。


「お兄ちゃん、今日はどこに行くの?」


朝食のパンを口に詰め込みながら、アミラが尋ねた。彼女の頬は以前よりも丸みを帯び、目には好奇心が戻ってきていた。母の数珠は今も首から下げていたが、それは悲しみというより、守護のお守りになっていた。


「アクサライの広場だ」ハサンは答えた。「そこで仕事の情報が得られるかもしれない」


彼らの資金は急速に減っていた。父の腕時計は国境を越える費用に消え、母の指輪はこのアパートの家賃と食料に変わっていた。残りの貯金はあと二週間ほどしか持たない。何としても収入源を見つけなければならなかった。


「私も行く!」アミラは元気よく言った。


ハサンは微笑んだ。「今日は隣のゼイネプおばさんに預かってもらうよ。街は危険だから」


アミラは不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。彼女も、この見知らぬ大都市の危険を感じ取っていた。


アパートを出たハサンは、迷路のような路地を抜け、トラムの駅へと向かった。イスタンブールの公共交通機関は複雑だったが、彼は素早く理解していた。シリア人難民が多く集まるというアクサライ広場を目指し、彼はトラムに乗り込んだ。


広場に着くと、そこには確かに多くの中東からの難民たちが集まっていた。アラビア語の会話が飛び交い、シリアの食べ物を売る屋台も見られた。一瞬、故郷を思い出させるような錯覚を覚えた。


「仕事を探しているのか?」


突然、背後から声がかけられた。振り返ると、30代半ばの男が立っていた。黒い髪に整えられた髭、鋭い目つきの男だった。


「はい」ハサンは慎重に答えた。


「俺はタリク。お前のような若者を探していたんだ」男は笑顔を見せた。「英語は話せるか?」


「はい、話せます」ハサンは英語で返答した。


「素晴らしい」タリクも英語に切り替えた。「トルコ語は?」


「少しだけ」ハサンは正直に答えた。一週間で基本的な挨拶と数字程度は覚えていた。


「十分だ」タリクは満足そうに頷いた。「簡単な仕事がある。観光客に土産物を売るだけだ。日給50リラ」


それは決して高い金額ではなかったが、何もないよりはましだった。ハサンは申し出を受け入れた。


タリクはハサンをグランドバザールの近くの小さな店に連れて行った。そこには既に数人の若者たちが働いていた。彼らもまた難民のようだった。


「お前の仕事は簡単だ」タリクは説明した。「この辺りを歩く観光客に声をかけ、店に誘導するんだ。特に欧米人だ。彼らはよく金を使う」


ハサンは頷いた。単純な仕事に思えた。


その日の午後、ハサンは初めての「獲物」を店に連れてきた。アメリカ人の夫婦で、彼の流暢な英語に安心したようだった。彼らは結局、高価なカーペットを購入していった。


「良い仕事だ」タリクは肩を叩いた。「明日からも来てくれ」


帰り道、ハサンは複雑な気持ちだった。仕事は見つかったが、何か後ろめたさを感じた。観光客たちは明らかに相場より高い値段で商品を買わされていた。しかし、アミラのためには目をつぶるしかなかった。


アパートに戻ると、アミラは興奮した様子でハサンを迎えた。


「お兄ちゃん!今日ね、ゼイネプおばさんと市場に行ったの。それでね、こんなものをもらったの!」


彼女は小さな青いガラスの飾りを見せた。


「これは『ナザール』っていうんだって。悪い目から守ってくれるんだって」


ハサンは微笑んだ。「それはいいね。部屋に飾ろうか」


その夜、二人は久しぶりに肉の入った食事を楽しんだ。ハサンは明日からの収入について話し、アミラは目を輝かせて聞いていた。


「お兄ちゃん、私たちここに住むの?」アミラが突然尋ねた。


ハサンは窓の外を見た。イスタンブールの夜景が広がっていた。美しい街だが、彼らにとっての最終目的地ではなかった。


「いいや、ここは通過点だ」彼は静かに答えた。「もっと先に行くんだ。ヨーロッパへ」


「どうやって行くの?」


「それを調べるのが次の仕事だ」ハサンは言った。「でも心配しないで。必ず方法を見つけるから」


部屋の壁に掛けられたナザールが、夜の明かりに青く輝いていた。それは彼らの不確かな未来を見守るように、静かに揺れていた。


イスタンブールの迷宮の中で、ハサンとアミラの新たな「ゲーム」が始まろうとしていた。

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