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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第1部:旅立ちのゲーム】【第1章:失われた故郷】
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第4節:国境の闇

# 第4節:国境の闇


【登場人物紹介】

・ハサン:17歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、欧州への脱出を決意。

・アミラ:9歳の少女。両親を空爆で亡くし、兄のハサンが頼りの存在。


---


2015年9月10日、日没後。シリア北部の国境地帯。


闇に包まれた荒野に、エンジン音だけが低く響いていた。ハサンとアミラは、他の20人ほどの難民たちと共に、幌付きトラックの荷台に身を寄せ合っていた。誰も声を出さない。国境警備隊に見つかれば、全てが終わる。


「もうすぐだ」カマルが小声で言った。「国境の検問所を迂回する。全員、絶対に音を立てるな」


ハサンはアミラを強く抱きしめた。彼女は恐怖で震えていたが、泣き声一つ上げなかった。母の数珠を小さな手で握りしめ、唇を噛んでいた。


トラックは舗装された道を離れ、でこぼこの荒野を進み始めた。荷台の人々は揺れる度に互いにぶつかり合ったが、誰も文句を言わなかった。全員が同じ恐怖と希望を抱えていた。


突然、トラックが急停止した。荷台の人々が前に倒れ込み、小さな悲鳴が上がった。


「静かに!」カマルが厳しく命じた。


エンジンが切られ、運転席のドアが開く音がした。緊張が荷台に満ちた。ハサンは息を殺し、アミラを自分の体で覆った。


数分が永遠のように感じられた。外では男たちの会話が聞こえる。トルコ語だろうか、それともアラビア語か、ハサンには判別できなかった。金属音がして、何かが受け渡されているようだった。賄賂だろうか。


再びエンジンがかかり、トラックは動き出した。カマルが荷台の前方から後ろへと這うように移動してきた。


「国境警備隊の非公式検問だ」彼は囁いた。「金で解決した。だが、これで終わりではない」


トラックは再び荒野を進み、やがて急な下り坂を下り始めた。ハサンは窓のない荷台から外を見ることはできなかったが、彼らがワジ(乾いた川床)を通っていることを感じ取った。シリアとトルコの国境には、このような自然の地形が多く、密航者たちはそれを利用していた。


「ここからが本当の危険地帯だ」カマルが言った。「地雷原を避けて通る。全員、祈れ」


地雷。その言葉だけで荷台の空気が凍りついた。ある女性が小さく泣き始め、隣の男性が彼女を慰めた。ハサンはアミラの耳を両手で覆った。彼女にその恐怖を知らせたくなかった。


トラックは極端にゆっくりと進んだ。一度、何かを踏んだような音がして全員が息を呑んだが、それは単なる大きな石だったようだ。


「お兄ちゃん、怖い」アミラが震える声で囁いた。


「大丈夫だよ」ハサンは彼女の髪を撫でながら答えた。「もうすぐ終わる」


彼自身も恐怖で心臓が早鐘を打っていたが、妹の前では強がらなければならなかった。


突然、トラックが再び停止した。今度は静かに、計画的に。


「降りろ」カマルが命じた。「ここからは歩く。列を作って、前の人の足跡を踏め。絶対に列から外れるな」


一人ずつ、彼らはトラックから降りた。月明かりの下、ハサンは初めて周囲の状況を把握できた。彼らは深い渓谷の中にいた。両側には高い岩壁が聳え、前方には細い獣道のような道が続いていた。


カマルが先頭に立ち、その後ろに一列に並んだ。ハサンはアミラの手を強く握り、彼女の前を歩いた。


「私の足跡だけを踏むんだ」彼は厳しく言った。「絶対に外れないで」


彼らは30分ほど歩いた。誰も話さず、ただ前の人の足跡を追った。時折、遠くで銃声が聞こえ、全員が身をすくめた。国境警備隊が他の密航者を見つけたのかもしれない。


やがて渓谷は開け、彼らは小さな開けた場所に出た。そこには別のトラックが待っていた。


「急げ」新しいドライバーがトルコ語で言った。


カマルが通訳した。「これがトルコ側の運び屋だ。彼らがイスタンブールまで連れて行く」


「カマルさんは?」ハサンは驚いて尋ねた。


「私はここまでだ」カマルは答えた。「これ以上は行けない」


彼はハサンに小さな紙切れを渡した。「イスタンブールに着いたら、この住所に行け。そこで部屋を借りられる。安全な場所だ」


ハサンは紙を受け取り、ポケットに入れた。「ありがとうございます。本当に」


カマルは微笑んだ。それは悲しみの混じった笑顔だった。「気をつけろ。これからが本当の『ゲーム』の始まりだ」


彼らは新しいトラックに乗り込んだ。今度の荷台には薄い毛布が敷かれ、水のボトルもあった。少しだけ快適になったが、依然として危険な旅であることに変わりはなかった。


トラックが動き出す前、ハサンは最後にカマルを見た。彼は月明かりの下に立ち、静かに手を振っていた。息子を失った父親の姿に見えた。


「さようなら、カマルさん」ハサンは心の中で言った。「あなたの息子さんが安らかでありますように」


トラックは闇の中を走り始めた。アミラは疲れ果て、ハサンの膝の上で眠りについた。彼女の呼吸は穏やかで、少なくとも今は悪夢から解放されているようだった。


ハサンは荷台の小さな隙間から外を見た。月明かりに照らされたトルコの大地が広がっていた。彼らはついに国境を越えた。シリアを、故郷を、両親の眠る場所を後にした。


これが自由への第一歩なのか、それとも新たな苦難の始まりなのか。ハサンにはわからなかった。ただ、アミラを守るという使命だけが彼を前に進ませた。


トラックは一晩中走り続けた。時折検問所を避けるために迂回し、時には何時間も森の中に隠れた。二日目の夕方、彼らはようやくイスタンブールの郊外に到着した。


巨大な都市の灯りが地平線に広がっていた。それは希望の光のようにも、未知の危険を警告する炎のようにも見えた。


「ここで降りろ」ドライバーがトルコ語で命じた。


ハサンは英語で「どこにいるのか」と尋ねたが、ドライバーは無視して去っていった。彼らは都市の外れに置き去りにされたのだ。


疲れ果て、埃まみれになった難民たちは、それぞれの道を行き始めた。ハサンはカマルから受け取った紙切れを取り出し、住所を確認した。


「ファティハ地区」と書かれていた。どこにあるのか見当もつかなかったが、とにかく都市に向かって歩き始めるしかなかった。


「お兄ちゃん、着いたの?」アミラが疲れた声で尋ねた。


ハサンは彼女を見下ろし、微笑んだ。「うん、トルコに着いたよ。これからイスタンブールという大きな街に行くんだ」


「お父さんとお母さんも喜んでるね」アミラは言った。


ハサンは喉の奥に込み上げるものを感じた。「うん、きっと喜んでる」


彼らは歩き始めた。国境の闇を抜け、未知の都市の光へと向かって。


ハサンの「ゲーム」は、まだ始まったばかりだった。

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