第3節:マリヤの告白
# 第3節:マリヤの告白
【登場人物紹介】
・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。
・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。
・カリム:25歳のシリア人男性。アレッポ出身の元大学生。家族と再会するためドイツを目指している。
・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。
・ヤスミン:22歳のアフガニスタン人女性。単身でヨーロッパを目指している。医学生だった。
・ナディル:40代のイラン人男性。政治亡命者。元ジャーナリスト。
・タレク:30代のシリア人男性。難民グループのリーダー格。頼りになるが、謎めいた雰囲気を持つ。
・ゾラン:40代のセルビア人男性。ベオグラードの運び屋組織の中間管理職的存在。冷静で計算高い。
・イヴァン:30代のセルビア人男性。ゾランの部下で、難民の移動を担当する。
・ミロシュ:50代のセルビア人男性。運び屋組織の上層部。冷酷で権力を持つ。
・マリヤ:20代後半のセルビア人女性。運び屋組織で働いていたが、今は組織から逃れようとしている。
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【ベオグラード - 運び屋組織のアパート】
ミロシュとの会談から二日後、ハサンたちはまだ決断を下せずにいた。グループは二つに分かれていた。タレク、カリム、そしてファティマはミロシュの提案を受け入れるべきだと考え、ナディルとヤスミンは強く反対していた。ハサンは板挟みになっていた。
その夜、彼らがアパートで夕食を取っていると、ドアをノックする音がした。ゾランの部下イヴァンが開けると、若い女性が立っていた。彼女は疲れた表情で、神経質そうに周囲を見回していた。
「ゾランはいるか?」彼女はセルビア語で尋ねた。
「マリヤ?」イヴァンは驚いた様子だった。「何をしている?ミロシュが...」
「ゾランに会わせて」彼女は言葉を遮った。
イヴァンは彼女を中に入れ、ゾランを呼びに行った。ハサンたちは好奇心と警戒心を持って彼女を見つめた。彼女は20代後半と思われ、長い黒髪を後ろで束ねていた。服装は質素だったが、美しい顔立ちをしていた。しかし、その目には恐怖と疲労が見て取れた。
ゾランが部屋に入ると、彼は一瞬驚いた表情を見せた。
「マリヤ」彼は言った。「どうしてここに?」
「話がある」彼女はセルビア語で答えた。「私的な話だ」
ゾランは彼女を別の部屋に案内した。二人が出て行くと、イヴァンは不安そうに窓の外を見た。
「誰だ?」ハサンはイヴァンに尋ねた。
「マリヤ」イヴァンは答えた。「彼女は...かつて私たちと一緒に働いていた」
「運び屋として?」カリムが尋ねた。
イヴァンは頷いた。「彼女は優秀だった。多くの難民を国境の向こうに送り込んだ。しかし、数ヶ月前に姿を消した」
「なぜ?」ヤスミンが尋ねた。
イヴァンは肩をすくめた。「わからない。ミロシュは彼女を探していた」
彼の声には緊張感があった。何か重要なことを隠しているようだった。
約30分後、ゾランとマリヤが戻ってきた。ゾランの表情は硬く、マリヤは決意に満ちた目をしていた。
「彼女は今夜ここに泊まる」ゾランは言った。「明日、彼女は君たちに話がある」
イヴァンは驚いた様子だった。「ミロシュは...」
「ミロシュには言うな」ゾランは厳しい口調で言った。「これは私の決断だ」
その夜、ハサンは眠れなかった。マリヤの存在が何かを変えるような予感がしていた。彼女は何を話そうとしているのか?なぜゾランは彼女を匿っているのか?
翌朝、彼らは全員リビングルームに集まった。マリヤはソファに座り、ゾランは窓際に立っていた。イヴァンは不安そうに部屋の隅にいた。
「彼女には話がある」ゾランは言った。「聞くべきだ」
マリヤは深呼吸し、話し始めた。彼女は流暢な英語を話した。
「私はセルビア人だが、難民の気持ちがわかる」彼女は言った。「私の家族はボスニア戦争で故郷を追われた。私はまだ子供だったが、逃げる恐怖、不確かな未来への不安を覚えている」
彼女は一瞬黙り、続けた。
「3年前、私はミロシュの組織で働き始めた。最初は単なる通訳だった。難民と話し、彼らの状況を理解し、組織に伝える仕事だ。君たちが今やっているような仕事だ」
彼女はハサンたちを見た。
「しかし、すぐに私は国境を越える案内役になった。セルビアからハンガリー、クロアチアへ。私は多くの人々を助けた。少なくとも、そう思っていた」
彼女の声が震えた。
「6ヶ月前、私はある家族を案内していた。シリアからの5人家族だ。両親と3人の子供たち。最年少は4歳だった」
彼女は一瞬目を閉じた。辛い記憶を思い出しているようだった。
「国境近くで、私たちは別のグループと合流するはずだった。しかし、そこにいたのは見知らぬ男たちだった。彼らは家族を別の車に乗せ、去っていった。私が質問すると、ミロシュの部下は『心配するな、彼らは安全だ』と言った」
彼女は顔を上げ、彼らを見つめた。
「しかし、彼らは安全ではなかった。2週間後、私は偶然その家族の父親を見た。彼は別の難民キャンプにいた。彼の妻と子供たちはいなかった」
部屋が静まり返った。
「彼は私に真実を話した。国境を越えた後、彼らは別々にされた。妻と子供たちは『別のルート』で送られると言われた。しかし、彼は二度と彼らに会えなかった。彼は彼らを探し続けていた」
マリヤの目に涙が浮かんだ。
「これは特別な例外ではなく、同じようなことが何度も起きていたのです。私が調査を始めると、次々と似たような事例が見つかりました。そして恐ろしい真実を発見したのです。ミロシュの組織は単なる運び屋組織ではありません。彼らは組織的に人身売買を行っているのです。特に女性と子供たちが標的にされています」
ナディルが顔を上げた。彼の表情には「言った通りだ」という思いが浮かんでいた。
「彼らは難民の弱みにつけ込む」マリヤは続けた。「お金がない人々、保護者のいない子供たち、単身の女性たち。彼らは『特別なルート』を提案する。そして、国境を越えた後、彼らは消える」
「どこへ?」ヤスミンが震える声で尋ねた。
「様々な場所へ」マリヤは答えた。「西ヨーロッパの裕福な家庭への家事労働者として。時には性産業へ。子供たちは...」彼女は言葉を詰まらせた。
「私はミロシュに質問した。彼は『ビジネスだ』と言った。『彼らは支払いができない。だから別の方法で支払うのだ』」
彼女は拳を握りしめた。
「私はそれを受け入れられなかった。証拠を集め始めた。写真、名前、行き先。しかし、ミロシュは気づいた。彼は私を脅した。『黙っていれば、豊かな生活を保証する。話せば、君も消える』と」
彼女はゾランを見た。
「私は逃げた。証拠を持って。警察に行こうとした。しかし、ゾランが言ったように、警察の多くはミロシュに買収されている。私は身を隠していた。そして昨日...」
彼女はハサンとカリムを指さした。「ミロシュが君たちを新しい『案内役』として雇おうとしていると聞いた」
彼女は立ち上がった。
「だから来た。警告するために。君たちがミロシュのために働けば、君たちも同じ罪に加担することになる。そして、もし君たちが『特別なルート』を提案されたら...」
彼女はアミラを見た。アミラは部屋の隅で遊んでいた。
「...君たちの大切な人を失うかもしれない」
部屋は重い沈黙に包まれた。ハサンはアミラを見た。彼女は何も知らず、人形で遊んでいた。彼の心に恐怖が広がった。
「なぜ私たちがあなたを信じるべきだ?」タレクが疑わしげにマリヤに尋ねた。「君はミロシュから逃げている。彼を陥れようとしているのかもしれない」
「これが証拠だ」マリヤはバッグから写真と書類を取り出した。「行方不明になった人々のリスト、彼らが送られた場所、支払われた金額」
彼らは書類を見た。そこには数十人の名前と写真があった。多くは女性と子供だった。
「ゾラン」カリムがゾランを見た。「これは本当か?」
ゾランは長い間黙っていた。
「私は...知らなかった」彼はようやく言った。「少なくとも、全ては知らなかった。私の仕事はベオグラードでの活動だけだ。国境を越えた後のことは...」
「嘘をつくな」マリヤは言った。「あなたは知っていた。全員が知っていた。ただ、目を背けていただけだ」
ゾランは窓の外を見た。
「私にも家族がいる」彼は小さな声で言った。「ミロシュは...彼は強力だ。彼に逆らえば、代償を払う」
「だから無実の人々が犠牲になるのを見過ごすのか?」ナディルが怒りを込めて言った。
「私は...」ゾランは言葉を失った。
「私たちはどうすればいい?」ハサンが尋ねた。彼の声には決意があった。「もしこれが本当なら、私たちはミロシュのために働くことはできない」
「でも、どうやって国境を越えるんだ?」タレクが言った。「私たちにはお金がない」
「私には計画がある」マリヤは言った。「しかし、危険だ。そして、全員の協力が必要だ」
「どんな計画だ?」ハサンが尋ねた。
マリヤは彼らを見回した。
「ミロシュを倒す」彼女は言った。「彼の組織を解体する。そして、その過程で、私たちは安全に国境を越える」
「どうやって?」カリムが尋ねた。
「私には証拠がある」マリヤは言った。「そして、ミロシュに買収されていない警察官も知っている。国際的な人権団体とも連絡を取っている。彼らは私たちを助けてくれる」
「それは自殺行為だ」イヴァンが突然言った。「ミロシュは強力だ。彼には多くの部下がいる。彼らは君たちを見つけ出し、殺すだろう」
「だから私たちは慎重に行動する」マリヤは言った。「そして、私たちには彼らが持っていないものがある」
「何だ?」ハサンが尋ねた。
「内部情報だ」マリヤは言った。「私はミロシュの組織の内部構造を知っている。彼の弱点も知っている」
彼女はゾランを見た。
「そして、私たちにはゾランがいる」
全員がゾランを見た。彼は窓際に立ったまま、動かなかった。
「ゾラン?」ハサンが尋ねた。
ゾランはゆっくりと振り返った。彼の顔には葛藤が見えた。
「私は...」彼は言葉を探した。「私はミロシュのために長い間働いてきた。彼は私に多くのものを与えてくれた。しかし...」
彼はマリヤを見た。
「彼女の言うことは本当だ。ミロシュの組織は人身売買を行っている。そして、私はそれを知りながら、目を背けてきた」
彼は深く息を吐いた。
「もう十分だ」彼は言った。「私は協力する」
「本気か?」イヴァンは驚いた様子だった。
「ああ」ゾランは頷いた。「私にも子供がいる。もし彼らが...」彼は言葉を詰まらせた。
ゾランの目に一瞬、恐怖の色が浮かんだ。彼の頭の中には、自分の12歳の娘と8歳の息子の顔が浮かんでいた。彼らの笑顔、彼らの無邪気な声、彼らの将来への希望。
そして同時に、マリヤが見せた写真の中の子どもたちの顔も重なった。彼は長年、自分の行動の結果から目を背け、「自分は直接関わっていない」と自分に言い聞かせてきた。しかし今、その嘘が彼自身を窒息させるようだった。
もし自分の子どもたちが同じ目に遭ったら?その想像だけで彼の胸は締め付けられ、言葉を続けることができなかった。彼の手は震え、額には冷や汗が浮かんでいた。彼は初めて、自分が加担してきた悪の重さを完全に受け止めていた。
部屋は再び静かになった。全員が考え込んでいた。
「危険だ」ハサンは最終的に言った。「しかし、もしマリヤの言うことが本当なら、私たちはミロシュのために働くことはできない」
彼はアミラを見た。彼女は無邪気に遊んでいた。彼女の安全が最優先だった。
「私は協力する」彼は言った。
「私も」ヤスミンが言った。
「私も」ナディルが続いた。
カリムは迷っていたが、最終的に頷いた。「私も」
ファティマは息子を見た。「私の息子を安全に保てるなら、私も協力する」
タレクだけが黙っていた。
「タレク?」ハサンが尋ねた。
タレクは長い間考えていた。
「危険すぎる」彼はようやく言った。「私は...別の道を選ぶ」
「どういう意味だ?」カリムが尋ねた。
「私はミロシュの提案を受け入れる」タレクは言った。「君たちとは別れる」
「タレク!」ヤスミンは驚いた様子だった。「あなたは彼らの一部になるつもりなの?人身売買組織の?」
「私は生き残るつもりだ」タレクは冷たく言った。「そして、ヨーロッパに行くつもりだ。どんな手段を使ってでも」
彼は立ち上がり、部屋を出て行った。
残されたグループは互いを見つめた。彼らは重大な決断を下したばかりだった。ミロシュの組織に対抗する。それは危険な賭けだった。しかし、彼らには選択肢がなかった。
「では、計画を立てよう」マリヤは言った。
窓の外では、ベオグラードの街が日常を過ごしていた。しかし、このアパートの中では、運命を変える計画が始まろうとしていた。




