第2節:逃亡の決意
# 第2節:逃亡の決意
【登場人物紹介】
・ハサン:17歳のシリア人青年。アレッポの高校生。両親を空爆で亡くし、妹と二人で生き残った。
・アミラ:9歳の少女。ハサンの妹。目の前で両親を失った悲劇から立ち直れずにいる。
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爆撃から三日後、2015年9月8日の朝。アレッポ東部、かつて活気に満ちていた街並みは、今や廃墟と化していた。石灰岩の美しい建物は砲撃で穴だらけになり、かつて子供たちの笑い声が響いていた広場には弾痕が刻まれていた。あの悲劇的な日から72時間が経過し、ハサンとアミラは父方の叔父ファリドの家に身を寄せていた。二階建ての小さな家は、奇跡的に大きな被害を免れていたが、窓ガラスはほとんど割れ、壁には亀裂が走っていた。
両親の遺体は前日、他の犠牲者たちと共に埋葬された。簡素な葬儀だった。戦時下では、長い追悼の時間さえ許されない。ハサンは父と母の顔を最後に見て、静かに別れを告げた。しかし、アミラには真実を告げていなかった。
「お兄ちゃん、お父さんとお母さんはいつ戻ってくるの?」
朝食のテーブルで、アミラが小さな声で尋ねた。彼女の大きな茶色の瞳は、まだ希望を失っていなかった。白いワンピースは埃で灰色になり、ハサンが包帯を巻いた額の傷は、かさぶたになり始めていた。
アミラの問いに、ハサンは言葉を詰まらせた。彼のオリーブ色の肌は青白く、三日間ほとんど眠れていない目は赤く充血していた。妹には真実を告げていなかった。彼女が意識を取り戻した爆撃当日の夕方、ハサンは両親が「別の場所に避難した」と嘘をついた。アミラはまだ幼く、その嘘を信じていた。いつか真実を話さなければならないが、今はまだその時ではない。彼女の心に、これ以上の傷を負わせたくなかった。
「もう少し待とう」
ハサンは妹の長い黒髪を優しく撫でた。その髪は、母ファティマの髪と同じ艶やかさを持っていた。母の面影を見るたびに、胸が締め付けられる思いがした。
叔父のファリドは、二人を快く受け入れてくれた。50代半ばの彼は、かつては繊維工場で働いていたが、戦争が始まってからは職を失い、今は細々と日雇い仕事をしていた。深い皺が刻まれた顔と、戦争で白くなった髪が、彼の苦労を物語っていた。爆撃の翌日、彼は瓦礫の中からハサンとアミラを見つけ、自分の家に連れて帰った。しかし、彼の家も安全とは言えなかった。この地区は毎日のように爆撃を受け、水も電気も断続的にしか供給されない。食料も日に日に乏しくなっていた。冷蔵庫には数日分の食料しかなく、水は貴重な資源として慎重に使われていた。
「ハサン、話がある」
夕食後、ファリドはハサンを脇に呼んだ。彼らは小さな中庭に出た。かつては花が咲き乱れていたその場所も、今は埃と瓦礫で覆われていた。ファリドの表情は暗く、声は低かった。彼の目には、決意と恐れが混ざり合っていた。
「この街にはもう未来がない。特に若い者たちにはな」
ファリドは窓の外を見た。遠くで爆発の閃光が夜空を照らしていた。その光は、一瞬だけ廃墟となった街の輪郭を浮かび上がらせた。かつては星が輝いていた夜空も、今は煙と埃で曇っていた。
「私の友人が明日、トルコへ向かう。彼らと一緒に行くべきだ。お前とアミラを」
ハサンは驚いた。彼の手にある父の腕時計が、月明かりに照らされて光った。「トルコへ?でも国境は…」
「閉ざされている。知っている」ファリドは重々しく頷いた。彼の顔には深い影が落ちていた。「だが、抜け道はある。金はかかるが、命には代えられない」
ファリドはポケットから小さな紙切れを取り出した。そこには名前と連絡先が書かれていた。「この男を探せ。カマルという。彼がお前たちを助けてくれる」
ハサンは黙って考えた。シリアを離れるという考えは、これまで頭になかった。ここは彼の故郷だ。17年間の思い出が詰まった場所。学校があり、友人がいた場所。そして何より、たった三日前に失った両親の眠る場所だ。しかし、アミラのことを考えると…彼女にはまだ長い人生がある。ここに留まれば、その未来は閉ざされてしまう。
「どうやって行くんだ?」
「密航だ」ファリドは正直に答えた。彼の声には恐れと決意が混ざっていた。「危険は伴う。国境警備は厳しく、捕まれば投獄される。最悪の場合は…」彼は言葉を切った。「だが、ここにいるよりはマシだ」
その夜、ハサンは眠れなかった。小さな窓辺に座り、破壊された街を見下ろした。月明かりに照らされたアレッポの姿は、まるで幽霊のようだった。たった三日前までは、ここで友人たちとサッカーをしていた。緑の芝生の上を走り回り、ゴールを決めた時の歓声が聞こえるようだった。学校に通い、将来の夢を語り合っていた。彼は医者になりたかった。人々を助け、この街を再建する手助けをしたかった。それが今や、生き残ることだけが目標になっていた。
窓の外では、時折遠くで爆発音が聞こえた。それは、この街の鼓動のようだった。死にゆく心臓の、不規則な鼓動。
「お兄ちゃん、寝ないの?」
アミラが目を擦りながら起き上がった。彼女の小さな姿が、月明かりに照らされて影を作った。
「すぐに寝るよ」ハサンは微笑んだ。その笑顔は、彼女を安心させるための仮面だった。「ちょっと考え事をしていたんだ」
アミラはハサンの隣に座った。彼女の小さな手が彼の手を握った。その手は温かく、生命の鼓動を感じさせた。
「お父さんとお母さんは戻ってこないんでしょう?」
ハサンは息を呑んだ。アミラの目は悲しみに満ちていたが、そこには理解の色もあった。彼女は知っていたのだ。子供だからといって、真実から目を背けられるわけではなかった。
「アミラ…」
「大丈夫。わかってた」彼女は小さく頷いた。月明かりに照らされた彼女の顔には、年齢以上の成熟さがあった。「あの日、私も見たの。お母さんを…」
ハサンは妹を抱きしめた。アミラの小さな体が震えていた。彼女の髪からは、かすかに母の使っていた石鹸の香りがした。しかし、彼女は泣かなかった。もう涙も枯れたのかもしれない。あるいは、兄の前で強がっているのかもしれない。
「明日、ここを離れるんだ」ハサンは静かに言った。彼の声は、決意と恐れが入り混じっていた。「トルコへ行く。そこから、もっと安全な場所を探す」
「お父さんとお母さんは?置いていくの?」アミラの声は小さく震えていた。
ハサンは窓の外を見た。月明かりに照らされた廃墟の向こうに、かつての家があった場所が見えた。「彼らの思い出は、ここに置いていかなければならない。でも、心の中には、いつも一緒だよ」
彼はポケットから母の数珠を取り出し、アミラの手に握らせた。「これを持っていて。お母さんがいつも私たちを見守っていてくれる」
アミラは黙って頷いた。彼女の小さな指が、数珠の玉を一つ一つ撫でた。
翌朝、爆撃から四日目の朝、ハサンは父の形見の腕時計と母の金の指輪を取り出した。これが彼らの旅費になる。腕時計は父アフマドが大切にしていたもので、彼の父から受け継いだものだった。指輪は、両親の結婚記念日に父が母に贈ったもの。これらを手放すことは、過去との別れを意味していた。
ハサンは学校のバックパックに必要最低限の荷物を詰めた。家族写真が入った小さなアルバム、二人分の着替え、少しの食料、そして父の古い地図。地図には父の手書きのメモが書き込まれていた。「いつか行きたい場所」と題された、ヨーロッパの都市の印。父は一度も行くことができなかった場所だ。
「準備はいいか?」ファリドが部屋に入ってきた。彼の目は赤く、一晩中眠れなかったようだった。
ハサンは深く息を吸い、決意を固めた。肺いっぱいに故郷の空気を吸い込んだ。それは埃と火薬の匂いがしたが、それでも彼の故郷の匂いだった。「はい、準備はできました」
アミラは黙って兄の手を握った。彼女の目には恐怖があったが、それ以上に強さがあった。母の数珠を首にかけ、小さなバッグを肩にかけていた。
「行こう」ハサンは言った。「新しい人生を探しに」
二人は最後に家を振り返った。ファリドは彼らを抱きしめ、額にキスをした。「神の加護がありますように」彼は祈るように言った。
そして、ハサンとアミラは未知の危険に満ちた旅へと一歩を踏み出した。彼らの背後では、アレッポの廃墟が朝日に照らされて赤く輝いていた。爆撃から四日目の朝、2015年9月9日、彼らの新しい人生が始まった。
空には、灰色の雲が広がっていた。それは、彼らの不確かな未来を映し出すようだった。