第3節:プッシュバックの恐怖
# 第3節:プッシュバックの恐怖
【登場人物紹介】
・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。
・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。
・カリム:25歳のシリア人男性。アレッポ出身の元大学生。家族と再会するためドイツを目指している。
・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。
・ヤスミン:22歳のアフガニスタン人女性。単身でヨーロッパを目指している。医学生だった。
・ナディル:40代のイラン人男性。政治亡命者。元ジャーナリスト。
・タレク:30代のシリア人男性。難民グループのリーダー格。頼りになるが、謎めいた雰囲気を持つ。
・ラドミール:40代のセルビア人男性。タレクの友人で、もう一台の車の運転手。
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【セルビア北部 - スボティツァ近郊】
夜の闇が深まる中、二台の車はセルビア北部の田舎道を進んでいた。月明かりが広大な平原を銀色に染め、遠くには低い丘陵の影が横たわっていた。パンノニア平原特有の広がりが、星空の下で果てしなく続いていた。
道の両側には成熟した小麦畑が風に揺れ、時折、孤立した農家の明かりが点々と見えた。セルビア北部の農村地帯は、昼間は鮮やかな黄金色の畑と青い空のコントラストが美しいが、夜になると神秘的な静けさに包まれる。古い教会の尖塔が月光に浮かび上がり、何世紀もの歴史を静かに物語っていた。
車は時折、アスファルトの割れ目を乗り越え、揺れた。ソビエト時代に建設された古い橋を渡ると、道はより狭く、起伏に富んだものになった。遠くでは、国境に向かう貨物列車の汽笛が低く響いていた。
ハサンは窓の外を見つめながら、ヤナの警告について考えていた。タレクは本当に信頼できるのか?彼の真の目的は何なのか?窓ガラスに映る自分の顔は、不安と疲労で引き締まっていた。
「どうした?」タレクが運転しながら尋ねた。「心配そうだな」
「いや、何でもない」ハサンは答えた。「ただ、これからどうなるのか考えていただけだ」
後部座席では、アミラが眠っていた。ヤスミンも隣で目を閉じていたが、その呼吸のリズムから、彼女はまだ起きていることがわかった。
「もうすぐだ」タレクは言った。「国境まであと30キロほど。そこで運び屋と会う」
「彼らは信頼できるのか?」ハサンは尋ねた。
タレクは一瞬、黙った。「彼らは仕事をする。お金のためにね」
その答えは、ハサンの不安を和らげるものではなかった。
車は舗装された道路から外れ、森に向かう未舗装の道に入った。後ろの車も続いた。木々の間を縫うように進むと、やがて小さな空き地に到着した。そこには古いトラックが一台、エンジンを切って待機していた。
「到着だ」タレクは車を止めて言った。「荷物を持って」
彼らが車から降りると、トラックから二人の男が現れた。一人は50代くらいの大柄な男で、もう一人は若い、おそらく20代の男だった。二人とも無表情で、冷たい目をしていた。
「これが全員か?」年上の男がタレクに尋ねた。
「ああ」タレクは答えた。「合計8人だ」
男はグループを見回した。「子供二人、大人六人。3500ユーロだな」
タレクは頷き、内ポケットから封筒を取り出した。男はそれを受け取ると、中身を素早く確認した。
「トラックに乗れ」彼は言った。「急げ」
ハサンはアミラを起こし、彼女の手を取った。「大丈夫だよ」彼は妹に囁いた。「もうすぐハンガリーだ」
彼らがトラックに向かう途中、ハサンはタレクが年上の男と小声で何か話しているのに気づいた。二人の表情は緊張していた。タレクは何度か頭を振り、男は不満そうに見えた。
トラックの荷台は狭く、暗かった。壁には薄い断熱材が貼られていたが、それでも冷気が染み込んできた。彼らは荷台の床に座り、互いに寄り添った。
「どのくらいかかるんだ?」カリムがタレクに尋ねた。
「2時間ほどだ」タレクは答えた。「国境を越えたら、ハンガリーの小さな村で降ろされる。そこからは自分たちで移動しなければならない」
トラックのエンジンがかかり、彼らは揺れる荷台で暗闇に包まれた。ハサンはアミラを抱きしめ、彼女が再び眠りにつくのを感じた。
「タレク」ハサンは小声で呼びかけた。「あの男たちは何を話していたんだ?」
タレクは一瞬、ハサンを見つめた。「何でもない。ただの最終確認だ」
しかし、彼の声には緊張が感じられた。
トラックは未舗装の道を進み、彼らは揺れに耐えながら沈黙の中で時間が過ぎるのを待った。約1時間後、トラックは突然減速し、停止した。
「何かあったのか?」ナディルが尋ねた。
「わからない」タレクは答えた。「静かに」
彼らは息を殺して待った。外から声が聞こえた。ハンガリー語だった。
「国境警備隊だ」タレクは囁いた。「動くな」
数分間、外からは話し声と足音が聞こえた。トラックの周りを歩く音。そして、突然、荷台のドアが開いた。
まぶしい光が彼らを照らし、数人の制服を着た男たちが銃を構えて立っていた。
「出ろ!全員出ろ!」ハンガリー語と英語で命令が飛んだ。
彼らは震える手足で荷台から降りた。外は森の中で、数台のパトカーがライトを照らしていた。10人ほどの国境警備隊員が彼らを取り囲んでいた。
「パスポートを出せ」一人の警備隊員が命令した。
誰も応えなかった。彼らには正規の書類がなかった。
「不法入国者だな」警備隊員は冷たく言った。「全員、あのバンに乗れ」
彼は黒いバンを指さした。
「どこに連れて行くんだ?」カリムが尋ねた。「私たちは難民だ。亡命を申請する権利がある」
「黙れ」警備隊員は怒鳴った。「さっさと乗れ」
ハサンはアミラの手を強く握り、彼女を守るように立った。「彼女はまだ子供だ」彼は言った。「どこに連れて行くのか教えてくれ」
警備隊員は答えず、彼らをバンに押し込んだ。トラックの運転手たちは別のパトカーに連行されていった。タレクは何も言わず、ただ地面を見つめていた。
バンの中は狭く、窓もなかった。彼らは不安と恐怖の中で、約30分間揺られた。バンが停止すると、ドアが開き、彼らは再び外に出された。
そこはセルビアとの国境近くの森の中だった。国境の柵が見えた。
「何をするつもりだ?」ナディルが尋ねた。
「出て行け」警備隊員の一人が言った。「セルビアに戻れ」
「でも、私たちは亡命を申請する権利が—」ヤスミンの言葉は、警備隊員の怒鳴り声で遮られた。
「出て行け!さもないと逮捕する!」
彼らには選択肢がなかった。警備隊員たちは彼らをセルビア側の柵まで連れて行き、小さなゲートを開けた。
「二度と戻ってくるな」警備隊員は言った。「次は刑務所行きだ」
彼らは柵を通り、再びセルビアの土地に立った。バンは去り、彼らは森の中に取り残された。
「これがプッシュバックか」ナディルは苦々しく言った。「法的手続きなし、亡命申請の機会なし。ただ追い返されるだけだ」
「どうすればいいんだ?」ファティマは泣きながら言った。サミルも彼女の腕の中で泣いていた。
「タレク」カリムは怒りを抑えながら言った。「あなたは知っていたのか?これが起こることを」
タレクは黙っていた。彼の表情は読み取れなかった。
「答えろ!」カリムは声を上げた。「あなたは私たちを売ったのか?」
「違う」タレクはようやく口を開いた。「これは...予想外だった」
「嘘つけ!」カリムは彼に詰め寄った。「あなたと運転手が話しているのを見た。何かがおかしいと感じていた」
ハサンはヤナの警告を思い出した。「タレクを信用しないで」
「落ち着け」タレクは手を上げた。「私は知らなかった。運び屋が裏切ったんだ」
「では、なぜあなたは抵抗しなかった?」ヤスミンが尋ねた。「なぜ黙っていた?」
タレクは答えなかった。
「どうする?」ハサンは尋ねた。「ここから先は?」
「別のルートを見つける」タレクは言った。「別の運び屋を」
「もう十分だ」ナディルは言った。「もうあなたには従わない。あなたは私たちを危険にさらした」
グループの中で緊張が高まった。タレクは孤立していた。
「聞け」彼は言った。「私には別の連絡先がある。もっと信頼できる人間だ。彼らなら—」
「もういい」カリムは彼の言葉を遮った。「私たちは自分たちの道を行く」
「森の中で?夜に?子供たちと一緒に?」タレクは言った。「それは自殺行為だ」
彼の言葉には一理あった。彼らは真っ暗な森の中にいて、方向もわからなかった。
「では、どうすればいい?」ファティマは尋ねた。
「近くに小さな村がある」タレクは言った。「そこまで歩けば、休む場所を見つけられる。そこで次の計画を立てよう」
他に選択肢がなかった。彼らはタレクに従い、森の中を歩き始めた。
ハサンはアミラを背負い、彼女が眠るのを感じながら歩いた。彼の心は重かった。ヤナの警告は正しかったのか?タレクは本当に彼らを裏切ったのか?それとも、彼もまた被害者だったのか?
夜の森は静かで、彼らの足音と息遣いだけが聞こえた。時折、遠くで動物の鳴き声が響いた。彼らは約2時間歩き続け、ようやく森の端に到達した。遠くに小さな村の明かりが見えた。
「あそこだ」タレクは言った。「もう少しだ」
彼らが村に近づくと、犬の吠える声が聞こえた。村は小さく、数十軒の家があるだけだった。
「どこに行くんだ?」ハサンは尋ねた。
「知り合いがいる」タレクは答えた。「彼なら私たちを助けてくれるはずだ」
彼らは村の端にある小さな家に向かった。タレクはドアをノックした。しばらくして、年配の男性が開けた。
「タレク?」男は驚いた様子で言った。「何があった?」
「ドラガン、助けが必要だ」タレクは言った。「プッシュバックされた」
ドラガンは彼らを見回し、ため息をついた。「入りなさい」彼は言った。「でも静かに。村の人たちに知られたくない」
彼らは家の中に入った。それは質素だが清潔な家で、暖かかった。ドラガンは彼らに座るよう促し、お茶を出した。
「何があったんだ?」彼はタレクに尋ねた。
タレクは状況を説明した。ドラガンは黙って聞き、時折頷いた。
「最近はよくあることだ」彼は言った。「ハンガリーは国境警備を強化している。多くの難民がプッシュバックされている」
「でも、それは違法だ」ナディルは言った。「国際法では、難民は亡命を申請する権利がある」
「法律と現実は違う」ドラガンは苦々しく言った。「特にここでは」
「どうすればいい?」ハサンは尋ねた。
「今夜はここで休みなさい」ドラガンは言った。「明日、別の方法を考えよう」
彼は彼らに毛布と枕を渡し、床に寝る場所を作った。子供たちは疲れ果てていて、すぐに眠りについた。大人たちも一人、また一人と眠りに落ちていった。
ハサンは眠れなかった。彼はアミラが安全に眠るのを見守りながら、今日の出来事について考えていた。プッシュバックの恐怖、タレクへの疑念、そして先の見えない旅路。
彼はポケットからヤナが渡した紙切れを取り出した。「マリア・コバチ - セゲド」。ハンガリーのセゲドにいるヤナの姉。もしハンガリーに入れたら、彼女に連絡すべきだろうか?
タレクは部屋の隅で、ドラガンと小声で話していた。彼らの表情は真剣だった。ハサンは彼らの会話を聞こうとしたが、声が小さすぎて聞き取れなかった。
やがて、疲労がハサンを襲い、彼も眠りに落ちた。
翌朝、彼らは早く起きた。ドラガンは彼らに朝食を用意し、新しい計画について話し合った。
「別のルートがある」ドラガンは言った。「ハンガリーではなく、クロアチア経由だ。そこからスロベニア、そしてオーストリアへ。より長い道のりだが、成功率は高い」
「信頼できる運び屋はいるのか?」カリムは疑わしげに尋ねた。
「私の甥がクロアチア国境近くに住んでいる」ドラガンは言った。「彼なら助けてくれるだろう」
彼らは新しい計画について話し合った。グループの中には、タレクを信頼し続けることに疑問を持つ者もいた。特にカリムとナディルは警戒心を隠さなかった。
「もう一度チャンスをくれ」タレクは言った。「私は本当に知らなかったんだ。運び屋が警察に情報を売ったんだろう」
「なぜ彼らがそんなことをする?」ヤスミンは尋ねた。「彼らはお金を受け取ったじゃないか」
「時々、彼らは両方から金を取る」ドラガンが説明した。「難民からは越境の代金を、警察からは情報提供の報酬を」
それは理にかなっていた。しかし、ハサンの心の中の疑念は消えなかった。
「どうする?」彼はグループに尋ねた。「このまま一緒に行くか、それとも別々に?」
長い沈黙の後、ファティマが口を開いた。「私たちはグループで行くべきだわ。子供を連れた私一人では、この先の道を進むのは不可能よ」
「私も」ヤスミンは言った。「女性一人では難しい」
カリムとナディルは顔を見合わせた。「一緒に行こう」カリムはようやく言った。「でも、タレク、もう一度裏切りがあれば...」
「ない」タレクは断言した。「約束する」
彼らは再び一つのグループとして進むことに決めた。ドラガンは彼らにクロアチア国境までの地図を描き、甥の連絡先を渡した。
「道中は危険だ、気をつけて」ドラガンは彼らが出発する前に言った。
彼らは村を出て、西に向かって歩き始めた。新たな希望と恐怖を胸に、未知の道を進んでいった。
ハサンはアミラの手を握りながら、空を見上げた。雲が流れ、時折太陽が顔を出した。彼らの前には長い旅路が待っていた。プッシュバックの恐怖を乗り越え、彼らは再び前進していた。しかし、タレクへの疑念は、ハサンの心に影のように残っていた。