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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第2部:国境のラビリンス】【第6章:信頼と裏切り】
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第2節:ヤナの秘密

# 第2節:ヤナの秘密


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・カリム:25歳のシリア人男性。アレッポ出身の元大学生。家族と再会するためドイツを目指している。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ヤスミン:22歳のアフガニスタン人女性。単身でヨーロッパを目指している。医学生だった。

・ナディル:40代のイラン人男性。政治亡命者。元ジャーナリスト。

・タレク:30代のシリア人男性。難民グループのリーダー格。頼りになるが、謎めいた雰囲気を持つ。

・ヤナ:タレクの妻。セルビア人女性。物静かで謎めいた雰囲気を持つ。


---


【ベオグラード - タレクの家】


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ハサンの目を覚ました。彼は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、すぐにタレクの家のリビングルームだと気づいた。床に敷かれた簡易マットレスの上で、アミラが隣で眠っていた。


部屋の中では、他のメンバーもまだ眠っていた。カリムはソファで、ファティマとサミルは別のマットレスで、ヤスミンとナディルはそれぞれ別の場所で休んでいた。久しぶりの安全な場所での睡眠は、全員に深い休息をもたらしたようだった。


ハサンは静かに立ち上がり、窓の外を見た。タレクの家は郊外の静かな住宅地にあった。庭には小さな菜園があり、朝の光の中で露が輝いていた。


キッチンから物音が聞こえた。ハサンは静かに歩いて行くと、若い女性が朝食の準備をしているのが見えた。彼女は昨夜、彼らが到着した後に現れたタレクの妻、ヤナだった。


「おはよう」ハサンは小声で言った。


ヤナは振り返り、微笑んだ。彼女は30代前半で、長い黒髪を後ろで束ねていた。顔立ちは整っていたが、どこか悲しげな雰囲気を漂わせていた。


「おはよう」彼女は英語で答えた。「よく眠れた?」


「ええ、ありがとう」ハサンは言った。「何か手伝えることはある?」


「テーブルを準備してくれるかしら」彼女は言った。


ハサンはテーブルを整え始めた。ヤナはコーヒーを入れ、パンを切り、チーズと果物を並べた。彼女の動きは効率的だったが、時折、窓の外を不安そうに見ていた。


「タレクは?」ハサンは尋ねた。


「早朝に出かけたわ」ヤナは言った。「ハンガリー国境越えの手配をしているの」


彼女の声には微かな緊張が感じられた。ハサンは何か言おうとしたが、その時、他のメンバーが目を覚まし始めた。


朝食の間、彼らは今後の計画について話し合った。タレクはハンガリー国境を越えるための「運び屋」と連絡を取っているという。費用は一人500ユーロ。子供は半額だ。


「高いな」カリムは言った。


「でも、他に選択肢はない」ナディルは答えた。「ハンガリーは国境を厳重に警備している。一人で越えるのは自殺行為だ」


「お金が足りない人は?」ヤスミンが心配そうに尋ねた。


「タレクが何とかしてくれるわ」ヤナは言った。「彼は良い人よ」


彼女の言葉には誠実さがあったが、目は何か別のことを語っているようだった。ハサンはそれを見逃さなかった。


朝食後、ヤナは子供たちを庭に連れ出した。アミラとサミルは久しぶりに安全に遊べる場所を見つけて喜んでいた。ヤナは彼らと一緒に座り、セルビア語の簡単な言葉を教えていた。


「彼女は子供が好きなようだ」ヤスミンがハサンに言った。


「ああ」ハサンは答えた。「でも、何か隠しているような気がする」


「どういう意味?」


「わからない」ハサンは言った。「ただの直感だ」


しかし、それは単なる直感以上のものだった。ハサンは内戦下のシリアでの生活と、その後の長い逃避行の中で、人の表情や仕草から本当の感情を読み取る術を身につけていた。トルコでの日々、密航業者との交渉、ギリシャからの移動—すべての段階で、誰が信頼でき、誰が危険かを素早く判断する能力が彼と妹の命を守ってきたのだ。


ヤナの目には深い悲しみがあった。それは単に難民を哀れむ同情ではなく、もっと個人的な、内側から彼女を蝕んでいるような悲しみだった。そして、彼女がタレクを見るとき、その目には愛情と同時に恐れが混ざっていた。


ハサンは窓の外を見た。アミラが庭で遊ぶ姿が見えた。彼女がヤナと話すとき、妹の表情は久しぶりに明るく、無邪気だった。アミラはヤナを信頼していた。子供は時に大人よりも人の本質を見抜くことがある。


「彼女は私たちを助けたいと思っている」ハサンは静かに言った。「でも、何かに怯えている。タレクかもしれないし、あるいは別の何かかもしれない」


ヤスミンは黙ってハサンを見つめた。彼女も同じことを感じていたのだろう。難民の旅では、直感を信じることが命を救うこともあれば、破滅に導くこともある。どちらに転ぶかは、運次第だった。


その日の午後、タレクが戻ってきた。彼は疲れた様子だったが、良いニュースを持っていた。


「明後日、ハンガリーへの移動だ」彼は言った。「運び屋と話がついた。彼らは信頼できる」


「どのルートを使うんだ?」カリムが尋ねた。


「スボティツァから」タレクは答えた。「セルビア北部の町だ。そこからハンガリーの国境まで近い。夜間に森を通って越える」


彼らは詳細な計画を立て始めた。タレクは地図を広げ、ルートを説明した。ヤナは黙って聞いていたが、時折、不安そうな表情を見せた。


夕食の準備のため、ヤナがキッチンに立った時、ハサンは手伝いを申し出た。二人きりになると、彼は思い切って尋ねた。


「ヤナ、何か心配事があるの?」


彼女は一瞬、手を止めた。「何を言っているの?」


「あなたが何か心配していることは明らかだ」ハサンは言った。「私たちに関係することなら、知る権利があると思う」


ヤナは深く息を吐いた。「ここではない」彼女は小声で言った。「後で」


夕食は和やかな雰囲気で進んだ。タレクは自分のシリアでの生活や、どのようにしてセルビアに来たかを語った。彼はダマスカス出身で、内戦が始まる前は建築家だったという。セルビアに来てからは、難民支援の活動をしていた。


「ヤナとはどうやって出会ったの?」ヤスミンが尋ねた。


「彼女は難民センターでボランティアをしていた」タレクは微笑んで答えた。「私が到着した日に出会ったんだ」


ヤナは微笑んだが、その目は何か別のことを考えているようだった。


夜、子供たちが眠った後、大人たちはリビングルームに集まった。タレクは明後日の移動について最終的な説明をしていた。その時、ヤナが立ち上がった。


「お茶を入れてくるわ」彼女は言った。


キッチンに向かう際、彼女はハサンに目配せした。彼は少し待ってから、「手伝おうか」と言って立ち上がった。


キッチンでは、ヤナがすでにお茶を準備していた。彼女はハサンが入ってくると、ドアを閉めるよう合図した。


「聞いて」彼女は小声で言った。「あなたたちは危険かもしれない」


「どういう意味だ?」ハサンは緊張した。


「タレクは...」彼女は言葉を選んでいるようだった。「彼は最近、変わったの。以前は本当に難民を助けていたけど、今は...」


「今は?」


「彼は運び屋たちと深く関わるようになった」ヤナは言った。「そして、お金が重要になってきた。彼らは難民を助けるふりをしているけど、実際は...」


彼女の言葉は、キッチンのドアが開く音で中断された。タレクが立っていた。


「何を話しているんだ?」彼の声は冷たかった。


「お茶の入れ方を教えていたのよ」ヤナは自然に答えた。


タレクは二人を疑わしげに見たが、何も言わなかった。「急いでくれ」彼は言って出て行った。


ヤナはハサンに近づき、彼の手に小さな紙切れを押し付けた。「これは私の姉の連絡先。彼女はハンガリーのセゲドに住んでいる。何かあったら彼女に連絡して」


ハサンは紙を受け取り、ポケットに入れた。「ありがとう」彼は言った。「でも、なぜ?」


「私にも子供がいたの」ヤナの目に涙が浮かんだ。「シリアに...タレクと私の間に。彼女は爆撃で...」彼女は言葉を詰まらせた。


「理解できる」ハサンは静かに言った。「アミラのことを心配してくれているんだね」


ヤナは頷いた。「お茶を持って行きましょう」彼女は言った。「そして、この会話は忘れて」


彼らはリビングルームに戻り、話し合いは続いた。しかし、ハサンの心は重かった。ヤナの警告は何を意味していたのか?タレクは本当に信頼できるのか?


その夜、ハサンは眠れなかった。彼はヤナが渡した紙切れを何度も確認した。そこには名前と電話番号が書かれていた。「マリア・コバチ - セゲド」


翌朝、ハサンが目を覚ますと、家の中が騒がしかった。タレクが誰かと電話で話しており、その声は緊張していた。


「何があったんだ?」ハサンはカリムに尋ねた。


「警察が近所で難民を探しているらしい」カリムは答えた。「誰かが密告したようだ」


ハサンはヤナを探したが、彼女の姿はなかった。


「ヤナは?」彼はタレクに尋ねた。


「買い物に行った」タレクは短く答えた。彼の表情は硬かった。


その日、彼らは家の中に閉じこもった。タレクは外出し、夕方まで戻らなかった。彼が戻ってきたとき、ヤナも一緒だった。彼女の目は赤く、泣いていたようだった。


「計画を変更する」タレクは言った。「今夜、ここを出る。警察が近づいている」


「今夜?」カリムは驚いた。「準備ができていない」


「選択肢はない」タレクは言った。「私の車で国境近くまで行く。そこで運び屋と会う」


彼らは急いで荷物をまとめ始めた。混乱の中、ハサンはヤナが近づいてくるのに気づいた。


「気をつけて」彼女は囁いた。「そして、約束して。アミラを守ると」


「約束する」ハサンは言った。「でも、あなたは?」


「私は大丈夫」彼女は言った。「ただ...タレクを信用しないで」


彼女はそれ以上何も言わず、キッチンに戻った。


夜になり、彼らは二台の車に分かれて出発した。タレクは一台を運転し、もう一台はタレクの友人が運転した。ハサンとアミラはタレクの車に乗った。カリム、ファティマ、サミルはもう一台に乗った。ヤスミンとナディルは二台に分かれた。


出発前、ヤナは全員にさよならを言った。彼女はアミラを強く抱きしめ、ハサンの目を見つめた。その目には警告と祈りが込められていた。


車が動き出すと、ハサンは後ろを振り返った。ヤナは家の前に立ち、彼らを見送っていた。彼女の姿が闇に消えるまで、ハサンは見続けた。


「彼女は良い人だ」アミラが言った。


「ああ」ハサンは答えた。「とても良い人だ」


彼はポケットの中の紙切れに手を触れた。ヤナの秘密は何だったのか?そして、タレクは本当に彼らを助けようとしているのか、それとも別の目的があるのか?


車は夜の道路を北へと進んだ。彼らの前には未知の危険が待ち受けていた。

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