表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第2部:国境のラビリンス】【第5章:山の向こう側】
14/22

第1節:夜の国境越え

# 第1節:夜の国境越え


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、謎めいた雰囲気を持っている。

・ヨルゴス:50代のギリシャ人。密航業者の一人で、国境越えのガイド役。

・カリム:20代後半のシリア人男性。同じルートで北を目指す難民。


---


【アテネ滞在から3日目 - 夕方】


アテネの北部、小さなホステルの一室。窓から差し込む夕日が壁を赤く染めていた。ハサンはバックパックに必要最低限の荷物を詰めながら、アミラに話しかけた。


「今夜、出発するよ」彼は静かに言った。「準備はいい?」


アミラは無言で頷いた。彼女の目には不安と決意が混ざっていた。アテネでの3日間は束の間の休息だったが、彼らの旅はまだ始まったばかりだった。


ドアがノックされ、ファティマが入ってきた。サミルは彼女の後ろにぴったりとくっついていた。


「ラヒムさんから連絡があったわ」彼女は小声で言った。「集合場所が変わったそうよ」


「どこに?」ハサンは眉をひそめた。


「オモニア広場の北、小さなカフェだって」


ハサンは頷いた。計画の変更は珍しくなかった。警察の取り締まりを避けるため、集合場所は直前まで明かされないことが多かった。


「時間は?」


「8時」ファティマは答えた。「あと2時間ね」


彼らはニコスから紹介されたNGOの支援を受け、アテネで数日間を過ごした。食事と宿泊場所を提供してもらい、次の移動について情報を集めていた。そして、ラヒムを通じて新たな「ゲーム」—国境越えの計画—が進められていた。


「NGOの人たちは反対していたわね」ファティマが言った。「合法的なルートを探すべきだと」


「でも、それには何ヶ月もかかる」ハサンは言った。「そして、認められる保証もない」


彼らは難しい選択を迫られていた。NGOを通じた合法的な難民申請プロセスを待つか、それとも「ゲーム」と呼ばれる危険な国境越えに挑むか。


ハサンはアミラの体調を考慮し、数日間の休息を取ることにしたが、最終的には後者を選んだ。冬が近づいており、山岳地帯の国境越えはますます困難になるだろう。今行動しなければ、何ヶ月も足止めされる可能性があった。


「本当にこの選択で良かったのかしら」ファティマは不安そうに言った。


「わからない」ハサンは正直に答えた。「でも、ここにいても未来はない。前に進むしかないんだ」


彼らは荷物をまとめ、部屋を出た。ホステルのオーナーはNGOと繋がりがあり、彼らの状況を理解していた。彼らが夜に出発することも知っていたが、何も言わなかった。ただ、「気をつけて」と小さく声をかけただけだった。


オモニア広場に向かう途中、ハサンは街の様子を観察した。アテネは古代の遺跡と現代の建物が混在する不思議な街だった。観光客と地元の人々、そして彼らのような難民が入り混じっていた。表面上は平和な日常が流れているように見えたが、彼らにとっては一時的な通過点に過ぎなかった。


指定されたカフェに到着すると、ラヒムがすでにテーブルに座っていた。彼の隣には見知らぬ男性がいた。


「来たか」ラヒムは彼らを見て言った。「こちらはヨルゴスだ。今夜の案内人だ」


ヨルゴスは50代くらいの男性で、日焼けした顔と鋭い目をしていた。彼は軽く頷いただけで、特に挨拶はしなかった。


「座れ」ラヒムは言った。「詳細を説明する」


彼らはテーブルに着席した。ラヒムは声を落として話し始めた。


「今夜、アテネを出発する。マケドニア国境まではバンで移動する。国境の山岳地帯は徒歩で越える」


「どのくらいかかりますか?」ハサンは尋ねた。


「バンで約6時間、その後、国境越えに8時間ほどだ」ヨルゴスが答えた。彼の声は低く、荒れていた。「明日の昼頃には向こう側に着く」


「危険は?」ファティマが心配そうに尋ねた。


「国境警備隊がパトロールしている」ヨルゴスは言った。「だが、私はルートを知っている。彼らの巡回パターンも把握している」


「他にも一緒に行く人がいる」ラヒムが付け加えた。「全部で10人ほどだ」


ハサンは周囲を見回した。カフェには他にも中東やアフリカ系と思われる人々が数人いた。彼らも同じ「ゲーム」の参加者なのだろうか。


「費用は?」ハサンは尋ねた。


「一人500ユーロ」ヨルゴスは即答した。「子供は半額だ」


高額だった。ハサンはニコスからもらったお金と、これまで大切に持ってきた貯金を合わせれば何とか払えるだろう。しかし、それは彼らの資金のほとんどを使い果たすことを意味していた。


「成功の保証は?」ファティマが尋ねた。


ヨルゴスは冷たく笑った。「この仕事に保証はない。だが、私のグループは成功率が高い。それが私の評判だ」


彼らには選択肢がなかった。ハサンはポケットからお金を取り出し、ラヒムに渡した。ラヒムはそれをヨルゴスに手渡した。


「集合は10時、アギオス・パンテレイモン教会の裏だ」ヨルゴスは立ち上がりながら言った。「遅れるな」


彼は何も言わずにカフェを出て行った。


「信頼できるのか?」ハサンはラヒムに尋ねた。


「この道では、彼は最高の案内人の一人だ」ラヒムは答えた。「私も彼のサービスを使ったことがある」


「子供たちのことが心配です」ハサンは言った。


「心配するな」ラヒムは言った。「子供たちは驚くほど強い。それに、山道はきついが、特別な技術は必要ない」


彼らはカフェを出て、最後の準備をするために一度ホステルに戻った。


「本当に大丈夫かしら」ファティマは不安そうに言った。


「必ず成功させる」ハサンは彼女を励ました。「私たちには他に選択肢がない」


---


夜の10時、彼らは指定された教会の裏に集まった。すでに数人が待機していた。ラヒムも姿を見せた。


「みんな来たな」彼は言った。「あそこに見えるのが私たちのバンだ」


路地の奥に、窓が黒く塗られた大型バンが停まっていた。ヨルゴスと思われる男が運転席に座っていた。


彼らはバンに近づいた。他の難民たちと簡単に挨拶を交わす。若い男性が一人、ハサンに話しかけてきた。


「カリムだ」彼は自己紹介した。「シリア出身だ。君たちも?」


「ああ」ハサンは答えた。「ハサンだ。これは妹のアミラ」


「一人で?」ハサンはカリムに尋ねた。


「ああ」カリムは答えた。「家族は先に行った。私は後から追いかけている」


バンの後部ドアが開き、ヨルゴスの助手らしき男が彼らを中に招き入れた。


「急げ」彼は言った。「目立たないように」


彼らは素早くバンに乗り込んだ。内部は座席が取り外され、床に毛布が敷かれていた。窓はすべて黒く塗られ、外からは中が見えないようになっていた。


「座れ」助手は言った。「移動中は静かにしろ。警察に止められても、音を立てるな」


バンのドアが閉まり、エンジンがかかった。彼らの長い夜の旅が始まった。


バンの中は狭く、10人ほどの難民たちが身を寄せ合っていた。子供はハサンとアミラ、そしてファティマの息子サミルの3人だけだった。他は全て大人の男性だった。


「どこから来たんだ?」カリムがハサンに小声で尋ねた。


「ダマスカス」ハサンは答えた。「君は?」


「アレッポ」カリムは言った。「2年前に街が包囲されたとき、家族と離れ離れになった」


彼らは小声で会話を続けた。カリムは25歳で、シリアでは大学生だったという。内戦が始まり、学業を中断せざるを得なくなった。彼の家族—両親と妹—はすでにドイツに到着していた。彼は彼らと合流するために旅をしていた。


「君たちの目的地は?」カリムが尋ねた。


「ドイツ」ハサンは答えた。「そこなら安全だと聞いている」


「そうだな」カリムは頷いた。「でも、そこに着くまでが大変だ」


バンは都市の灯りを離れ、暗い田舎道を北へと進んでいった。時折、急ブレーキがかかり、全員が緊張した。警察の検問があるのかもしれない。しかし、その度に再び動き出した。


アミラとサミルは疲れて眠り込んでいた。ハサンはアミラを腕に抱き、彼女の寝顔を見つめた。彼女のために、この危険な旅を成功させなければならない。


「彼女は強い子だな」カリムが小声で言った。


「ああ」ハサンは誇らしげに答えた。「彼女は文句も言わずについてくれる」


「子供たちは驚くほど回復力がある」カリムは言った。「大人よりもずっとね」


バンは山道を登り始めた。窓がなければ、彼らは今どこを走っているのか全く分からなかっただろう。しかし、エンジン音の変化と道の揺れ方から、山に入ったことが分かった。


約6時間後、バンは突然停車した。


「着いた」助手が言った。「ここからは歩きだ」


彼らは一人ずつバンから降りた。外は真っ暗で、冷たい風が吹いていた。星空だけが彼らを照らしていた。


ヨルゴスが彼らの前に立った。「ここからは徒歩だ」彼は言った。「私の後をついてこい。列から外れるな。音を立てるな」


彼は小さな懐中電灯を取り出し、足元だけを照らした。「準備はいいか?」


全員が頷いた。子供たちは起こされ、眠そうな目をこすっていた。


「行くぞ」ヨルゴスは言った。


彼らは暗い森の中の小道を進み始めた。道は狭く、時に急勾配になった。木の根や岩につまずきそうになりながら、彼らは黙々と歩いた。


「国境まであとどのくらい?」ハサンはカリムに小声で尋ねた。


「わからない」カリムは答えた。「でも、もうギリシャ側の国境地帯にいるはずだ」


彼らは約2時間歩き続けた。アミラは疲れ始め、ハサンは時々彼女を背負った。サミルもファティマに抱かれていた。


突然、ヨルゴスが立ち止まり、懐中電灯を消した。全員が息を殺した。


遠くに光が見えた。国境警備隊のパトロールだろうか。


「伏せろ」ヨルゴスは囁いた。


全員が地面に身を伏せた。光は彼らから離れていくように見えた。数分後、ヨルゴスは再び立ち上がった。


「大丈夫だ」彼は言った。「行くぞ」


彼らは再び歩き始めた。道はさらに険しくなり、時に急な斜面を登らなければならなかった。アミラは黙って頑張っていたが、疲労の色が濃くなっていた。


「もう少しだ」ハサンは彼女を励ました。「頑張れ」


夜明け前、彼らは小さな開けた場所に到着した。ヨルゴスは立ち止まり、周囲を確認した。


「ここが国境だ」彼は言った。「あの尾根を越えれば、マケドニアだ」


彼らは尾根を見上げた。夜明けの薄明かりの中、険しい斜面が見えた。


「休憩は?」誰かが尋ねた。


「短く取る」ヨルゴスは答えた。「15分だ。水を飲め、食べ物があれば食べろ」


彼らは地面に座り、持参した水と食料を取り出した。ハサンはアミラにエネルギーバーを渡し、水を飲ませた。


「あと少しだよ」彼は言った。「向こう側に着けば、休める」


アミラは無言で頷いた。彼女の顔は疲れていたが、目には決意が見えた。


休憩後、彼らは最後の登りに挑んだ。尾根は思ったよりも急で、時に四つん這いになって登らなければならなかった。子供たちは大人たちに助けられながら、必死に登った。


約1時間後、彼らは尾根の頂上に到達した。朝日が地平線から昇り始め、周囲の景色を照らし出していた。彼らの前には、別の国の森と丘が広がっていた。


「マケドニアだ」ヨルゴスは言った。「国境を越えた」


安堵のため息が漏れた。しかし、ヨルゴスはすぐに彼らを急かした。


「まだ安全ではない」彼は言った。「マケドニア側の警備隊もいる。下山して、次の集合場所まで行かなければならない」


彼らは尾根を下り始めた。下りは上りよりも楽だったが、足元は滑りやすく、注意が必要だった。


太陽が完全に昇ったとき、彼らは森の中の小さな道に出た。ヨルゴスは携帯電話を取り出し、誰かに連絡を取った。


「あと1時間ほどだ」彼は電話を切って言った。「そこで次のガイドと合流する」


彼らは疲れた足を引きずりながら、森の中の道を進んだ。子供たちは限界に近づいていたが、大人たちに励まされ、何とか歩き続けた。


最終的に、彼らは小さな廃屋に到着した。そこには別のバンが待機していた。


「ここまでだ」ヨルゴスは言った。「あのバンがスコピエまで君たちを運ぶ」


彼らは感謝の言葉を述べ、新しいバンに乗り込んだ。ハサンはアミラを抱き上げ、バンに乗せた。彼女はすぐに眠りに落ちた。


「成功したな」カリムがハサンの肩を叩いた。


「ああ」ハサンは疲れた笑顔を見せた。「でも、まだ旅は続く」


バンのドアが閉まり、エンジンがかかった。彼らは新たな国へと進んでいった。山の向こう側で、次の挑戦が待っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ