第2節:エレナとの出会い
# 第2節:エレナとの出会い
【登場人物紹介】
・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。
・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。
・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。
・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、謎めいた雰囲気を持っている。
・エレナ:キャンプの医療ボランティア。30代のギリシャ人女性。
・ニコス:エレナの夫。アテネの大学で国際関係を教えている。
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【キャンプ到着から2日目】
アミラの熱は一晩で悪化していた。朝の体温は38.5度まで上がり、ハサンは心配で仕方がなかった。
「医療テントに連れて行こう」ハサンはファティマに言った。「昨日より具合が悪くなっている」
医療テントは前日よりも混雑していた。長い列に並びながら、ハサンはアミラの額に手を当て続けた。
「次の患者さん」
エレナの声が医療テントに響いた。朝から続く診察で、彼女の声は少し疲れていたが、それでも優しさを失わなかった。
ハサンはアミラの手を取り、診察スペースに入った。アミラは朝から熱があり、予定していたキャンプ脱出の計画を見直す必要があった。
「あら、昨日来た子ね」エレナはアミラを見て微笑んだ。「具合はどう?」
「熱が下がらないんです」ハサンは心配そうに言った。
エレナはアミラの額に手を当て、体温計を取り出した。「38.5度ね。昨日より少し高いわ」
彼女は慎重にアミラの喉と耳を診察した。「喉に少し炎症があるわね。単なる風邪ではなく、扁桃腺炎かもしれない」
「深刻なんですか?」ハサンは不安を隠せなかった。
「適切な抗生物質があれば、数日で良くなるはずよ」エレナは言った。「でも...」彼女は周囲を見回し、声を落とした。「残念ながら、キャンプの薬は限られているわ。必要な抗生物質が今はないの」
ハサンの表情が曇った。「どうすれば...」
「私の勤務が終わるのは夕方の6時よ」エレナは小声で言った。「その後、私の車で町の薬局に行くつもり。もし良かったら、あなたたちも一緒に来て」
ハサンは驚いた。難民がキャンプを出ることは通常許可されていなかった。「それは...可能なんですか?」
「私が責任を持つわ」エレナは微笑んだ。「医療上の緊急事態として」
彼女はアミラに向き直り、優しく髪を撫でた。「それまでは、これを飲んで休んでいなさい」彼女は解熱剤を渡した。「水もたくさん飲むのよ」
「ありがとうございます」ハサンは心から感謝した。
「6時に、キャンプの北側の出口で待っていて」エレナは言った。「そこなら人目につかないわ」
テントを出ると、ハサンはラヒムと出くわした。アフガニスタン人の元教師は、何か探し物をしているようだった。
「どうした?」ラヒムは二人を見て尋ねた。「アミラの具合は?」
「良くないんです」ハサンは説明した。「抗生物質が必要だと言われました」
ラヒムは眉をひそめた。「昨夜の計画は?」
「延期するしかありません」ハサンは言った。「アミラがこの状態では移動できません」
ラヒムは理解を示したが、不満そうだった。「運び屋たちは待ってくれないぞ。彼らは予定通りに出発する」
「わかっています」ハサンは言った。「でも、妹の健康が最優先です」
「そうだな」ラヒムは同意した。「では、私は先に行く。アテネで待ち合わせよう」
「どこで?」
「シンタグマ広場の北東の角にあるカフェだ」ラヒムは言った。「『オリンポス』という名前だ。毎日正午に行く。見つけたら声をかけてくれ」
二人は握手を交わした。「気をつけて」ハサンは言った。
「君こそ」ラヒムは答えた。「特に、その医療ボランティアとの件は慎重にな。全ての親切には理由がある」
ハサンはラヒムの警告を心に留めながら、テントに戻った。アミラは横になり、ファティマがそばで彼女の額に濡れタオルを当てていた。
「どうだった?」ファティマが尋ねた。
「扁桃腺炎かもしれないと言われました」ハサンは説明した。「エレナさんが町の薬局に連れて行ってくれるそうです」
「本当に?」ファティマは驚いた。「彼女を信頼していいの?」
「わかりません」ハサンは正直に答えた。「でも、アミラには薬が必要です」
「私たちの計画は?」
「延期します」ハサンは言った。「ラヒムさんは今夜出発するそうです。私たちはアミラが良くなってから行きましょう」
ファティマは頷いた。「そうね、子供の健康が最優先よ」
午後、アミラは熱で眠り込んでいた。ハサンは彼女の呼吸を見守りながら、エレナとの約束について考えていた。彼女を信頼すべきだろうか?それとも罠だろうか?
時計は5時30分を指していた。決断の時が近づいていた。
「行くべきだと思う」ファティマが言った。「アミラには薬が必要よ」
「あなたとサミルは?」
「私たちはここで待っているわ」彼女は言った。「大勢で行けば目立つもの」
ハサンは頷き、アミラを起こした。「少し出かけるよ」彼は優しく言った。「薬を取りに行くんだ」
アミラは弱々しく頷いた。彼女の頬は熱で赤くなっていた。
6時前、ハサンはアミラを抱きかかえ、キャンプの北側の出口に向かった。日が沈み始め、キャンプは夕食の準備で忙しくなっていた。誰も彼らに注意を払わなかった。
北側の出口に着くと、古い青いセダンが待っていた。エレナが運転席に座り、彼らを見つけると手を振った。
「急いで」彼女は言った。「警備員が戻ってくる前に」
ハサンはアミラを後部座席に乗せ、自分も隣に座った。エレナはエンジンをかけ、キャンプを出発した。
「大丈夫?」彼女はバックミラーを通してハサンを見た。
「はい」ハサンは答えた。「本当にありがとうございます」
「気にしないで」エレナは微笑んだ。「私は医者よ。患者を助けるのが仕事」
車は舗装されていない道を進み、やがて小さな町に入った。レスボス島の地元の町は、観光客向けの店と地元の人々の住居が混在していた。エレナは車を薬局の前に停めた。
「ここで待っていて」彼女は言った。「私が薬を買ってくるわ」
エレナが薬局に入っている間、ハサンは窓から町を観察した。普通の人々が普通の生活を送っている。カフェでくつろぐ人々、買い物をする家族、犬を散歩させる老人。平和な日常の光景だった。
数分後、エレナが戻ってきた。「抗生物質を手に入れたわ」彼女は袋を見せた。「それと、熱と痛みを和らげる薬も」
「いくらですか?」ハサンはポケットからお金を取り出そうとした。
「気にしないで」エレナは手を振った。「私の夫のニコスが支払ったわ。彼は難民支援の活動をしているの」
「そんな...」
「本当に大丈夫よ」彼女は微笑んだ。「さあ、薬を飲ませましょう」
エレナは水のボトルを取り出し、アミラに最初の錠剤を飲ませた。「これを一日三回、食後に飲むのよ」彼女は説明した。「三日間続けて」
「ありがとうございます」ハサンは心から感謝した。
「実は...」エレナは少し躊躇した。「あなたたちをうちの家に招待したいの。シャワーを浴びて、ちゃんとした食事をして、少し休んでから戻るといいわ」
ハサンは驚いた。「それは...」
「私たちの家は近いの」エレナは言った。「ニコスも会いたがっているわ。彼はシリアの状況について研究しているの」
ハサンは迷った。エレナは親切そうだったが、ラヒムの警告が頭に浮かんだ。「全ての親切には理由がある」
しかし、アミラの状態を考えると、清潔な環境で休ませてあげたかった。
「お願いします」ハサンは決断した。「ご厚意に甘えます」
エレナは微笑み、車を発進させた。彼らは町を抜け、小さな丘の上にある白い家に向かった。地中海が見渡せる美しい場所だった。
家の前に車を停めると、ドアが開き、40代の男性が出てきた。彼は温かい笑顔で彼らを迎えた。
「ようこそ」彼は英語で言った。「私はニコスです」
「ハサンです」ハサンは握手を交わした。「こちらは妹のアミラです」
「中に入って」ニコスは言った。「夕食の準備ができているよ」
家の中は清潔で明るく、壁には本棚がびっしりと並んでいた。リビングルームの窓からは、夕日に染まる海が見えた。
「まずはシャワーを浴びたら?」エレナは提案した。「清潔な服も用意してあるわ」
ハサンとアミラは感謝してシャワーを浴び、提供された清潔な服に着替えた。アミラの顔色は少し良くなっていた。薬が効き始めているようだった。
夕食のテーブルには、ギリシャ料理が並んでいた。オリーブオイルたっぷりのサラダ、焼いた魚、そしてフレッシュなパン。
「どうぞ、遠慮しないで」ニコスは言った。
食事をしながら、ニコスは優しく質問を始めた。「シリアのどこから来たの?」
「アレッポです」ハサンは答えた。「空爆で両親を亡くしました」
ニコスは同情的に頷いた。「大変だったね。私はアテネの大学で国際関係を教えているんだ。シリア内戦についても研究している」
「なぜ難民を助けているんですか?」ハサンは率直に尋ねた。
ニコスは少し考えてから答えた。「私の祖父母はトルコからの難民だったんだ。1920年代の人口交換の時にギリシャに来た。彼らの苦労の話を聞いて育ったよ」
「それに」エレナが続けた。「人間として、苦しんでいる人を見過ごすことはできないわ」
食事の後、エレナはアミラをゲストルームに連れて行き、休ませた。ハサンはニコスとリビングルームに残った。
「あなたの目的地はどこなの?」ニコスは尋ねた。
「ドイツです」ハサンは答えた。「そこなら仕事と教育の機会があると聞きました」
ニコスは頷いた。「多くの難民がそう考えている。でも、そこに行くのは簡単ではない」
「わかっています」
「運び屋を使おうとしているのかい?」ニコスは突然尋ねた。
ハサンは驚いて黙った。
「心配しないで」ニコスは手を上げた。「あなたを非難しているわけじゃない。多くの人がそうせざるを得ないことは理解している」
「どうして...」
「キャンプでの噂は広まるんだ」ニコスは説明した。「エレナは多くの難民から話を聞いている」
ハサンは警戒した。「私たちを通報するつもりですか?」
「いいや」ニコスは真剣な表情で言った。「むしろ、警告したいんだ。多くの運び屋は信頼できない。彼らはお金を取って、難民を危険な状況に置き去りにすることがある」
「他に選択肢がありません」ハサンは言った。「キャンプで何ヶ月も待つことはできないんです」
ニコスは深く考え込んだ。「実は...」彼は声を落とした。「私には知り合いがいる。NGOで働いている人たちだ。彼らは難民が安全に移動できるよう手助けしている」
「NGO?」
「そう」ニコスは頷いた。「彼らは合法的な手段で難民を支援している。運び屋よりも安全だ」
「どうすれば彼らと連絡が取れますか?」
ニコスはメモ用紙に名前と電話番号を書いた。「アテネに着いたら、この人に連絡して。私からの紹介だと言えば、彼らは助けてくれるだろう」
ハサンはメモを受け取り、ポケットに入れた。「なぜ私たちを助けるんですか?」
「すでに言ったよ」ニコスは微笑んだ。「私の祖父母も難民だった。彼らが受けた親切を返しているだけさ」
その夜、ハサンはゲストルームのベッドに横になりながら、ニコスとエレナの親切について考えていた。彼らは本当に善意から行動しているのだろうか?それとも何か別の動機があるのだろうか?
窓の外では、月が海を照らしていた。同じ月が、シリアの空も照らしているのだろう。両親の墓の上にも。
ハサンはポケットから防水ケースを取り出した。レスボス島に到着した後、キャンプの支援物資の中から見つけたものだ。その中には父の写真が入っていた。ボートから落ちた時、彼の服のポケットに縫い込んでいた小さなビニール袋のおかげで写真は海水から守られた。今はより安全な防水ケースに移し替えてあった。
指先でケースの縁をなぞりながら、ハサンは胸の奥に広がる複雑な感情を感じていた。この小さな透明なケースは、彼の人生の全てを象徴しているようだった。故郷を失い、両親を失い、そして今は安定した生活さえ失った彼らに残されたのは、記憶と希望だけ。この写真は、彼が守るべき過去と、彼が目指す未来を繋ぐ唯一の橋だった。
防水ケースの存在は、彼らの旅の皮肉な現実を表していた。難民として、彼らは常に水、雨、海、涙と向き合っていた。そして、大切なものを守るためには、特別な準備が必要だった。心も、思い出も、希望も、全てを守るための防水ケースが必要だった。
「正しい道を選んでいますか?」彼は写真を見つめながら心の中で尋ねた。
答えはなかったが、心の中で父の声が聞こえるような気がした。「信じる価値のある人を見極めるんだ」
翌朝、アミラの熱は大幅に下がっていた。彼女は元気を取り戻し、朝食のテーブルでエレナと会話を楽しんでいた。
「気分はどう?」ハサンは尋ねた。
「ずっと良くなったよ」アミラは微笑んだ。「エレナさんの薬はすごいね」
「抗生物質が効いているわ」エレナは説明した。「でも、三日間は必ず飲み続けてね」
朝食後、ニコスは彼らをキャンプに戻す準備をした。「これを持っていって」彼は食料と水のパックを渡した。「それと、これも」彼は小さな封筒を手渡した。
ハサンが開けると、中にはユーロ紙幣が入っていた。「これは受け取れません」彼は驚いて言った。
「受け取って」ニコスは静かに言った。「アテネまでの旅に必要だろう」
「お返しできるかわかりません」
ハサンはニコスの言葉に胸が熱くなるのを感じた。この旅の中で、彼は人間の最も醜い面を見てきた。命の値段をつける密航業者、難民を搾取する役人たち、そして無関心という名の残酷さ。しかし、ここにいるのは見返りを求めない純粋な善意。それは彼が故郷で育った価値観そのものだった。
父の言葉が蘇った。「人は与えることで人間になる」。シリアの平和な日々、父は近所の困っている家族に食料を分け与え、母は孤児たちに服を縫ってあげていた。彼らの家は常に開かれ、助けを求める人を拒まなかった。
「いつか...」ハサンは喉の奥に込み上げる感情を抑えながら言った。「必ず、誰かのために同じことをします。それが私の約束です」
その瞬間、ハサンは自分がただ逃げているだけではないことを悟った。彼は新しい人生を築くために旅をしているのだ。そして、その人生では、今日受けた親切を何倍にも増やして返していくのだと。
車でキャンプに戻る途中、ハサンはエレナに尋ねた。「あなたたちは多くの難民を助けているんですか?」
「できる限りね」彼女は答えた。「でも、全ての人を助けることはできない。それが一番辛いわ」
キャンプの入り口に着くと、エレナは車を停めた。「ここで降りた方がいいわ。私たちが一緒にいるところを見られると、あなたたちに問題が起きるかもしれない」
ハサンとアミラは感謝の言葉を述べ、車を降りた。
「アテネで会えるといいわね」エレナは窓から微笑んだ。「気をつけて」
彼らがキャンプに戻ると、ファティマが心配そうに待っていた。「どうだった?」彼女は尋ねた。
「信じられないほど良かったです」ハサンは説明した。「彼らは本当に親切でした」
彼はニコスから受け取ったメモとお金について話した。「アテネでのコンタクトをくれました。NGOの人たちです」
「運び屋よりも信頼できるかしら?」ファティマは疑問を呈した。
「わかりません」ハサンは正直に答えた。「でも、試す価値はあると思います」
その日の午後、アミラの体調は順調に回復していた。ハサンは次の移動について計画を立て始めた。ラヒムはすでにアテネに向かっているはずだ。彼らも早く追いつかなければならない。
「明日の夜、出発しましょう」ハサンはファティマに提案した。「アミラの調子が良ければ」
ファティマは頷いた。「準備しておくわ」
テントの外では、キャンプの日常が続いていた。長い列、限られた食料、そして不確かな未来。しかし、ハサンの心には新たな希望が芽生えていた。
エレナとニコスとの出会いは、この過酷な旅の中での小さな光だった。全ての人が敵というわけではない。助けてくれる人もいる。
【キャンプ到着から4日目の夜】
計画通り、ハサンたちはキャンプ到着から4日目の夜、フェンスの隙間から脱出した。アミラの体調は抗生物質のおかげで回復し、旅を続けるのに十分な状態になっていた。
「これから先の旅は、今までよりも難しいかもしれない」ハサンはアミラに言った。「でも、必ず一緒にいるからね。何があっても離れないで」
アミラは真剣な表情で頷いた。「約束する、お兄ちゃん」
彼らはテントを後にし、ハサンが前日見つけておいたフェンスの緩んだ部分に向かった。キャンプは夜の静けさに包まれ、多くの難民たちはすでに眠りについていた。
フェンスに到着すると、ファティマとサミルがすでに待っていた。彼らは周囲を警戒しながら、静かに合流した。
「急ぎましょう」ファティマは小声で言った。「警備員の交代時間です」
一人ずつ、彼らはフェンスの隙間をくぐり抜けた。最初にファティマとサミル、次にハサンとアミラ。全員が無事に外に出ると、彼らは素早く暗闇の中に姿を消した。
浜辺に向かう途中、ハサンは振り返った。キャンプの灯りが遠くに見えた。あの中で、1万人以上の難民たちが不確かな未来を待っている。彼らは違う道を選んだ。リスクを伴う道を。
「ゲーム」は続いていた。しかし、それは単なる生存のゲームではなく、信頼と希望のゲームでもあった。