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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第2部:国境のラビリンス】【第4章:難民キャンプの日々】
11/22

第1節:収容の現実

# 第1節:収容の現実


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、謎めいた雰囲気を持っている。

・ヤニス:レスボス島の難民キャンプの警備員。50代のギリシャ人男性。

・エレナ:キャンプの医療ボランティア。30代のギリシャ人女性。


---


【キャンプ到着から1日目の朝】


朝の光がテントの隙間から差し込んできた。ハサンは目を開け、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。プラスチックのシートで作られた壁、薄いマットレス、そして遠くから聞こえる子供たちの声。


そう、彼らはレスボス島の難民キャンプにいるのだ。


隣では、アミラがまだ眠っていた。彼女の顔は平和そうに見えた。少なくとも、夢の中では安全なのだろう。ハサンは静かに起き上がり、テントの外に出た。


朝の空気は冷たく、澄んでいた。キャンプはすでに活動を始めていた。長い列が共同トイレの前に形成され、別の列が朝食の配給を待っていた。警備員たちはフェンスの周りを巡回し、時折、難民たちに指示を出していた。


「おはよう、若者」


振り返ると、ラヒムが立っていた。彼は昨夜、運び屋との取引に同行した男だ。


「おはよう、ラヒムさん」ハサンは挨拶を返した。「よく眠れましたか?」


ラヒムは苦笑した。「眠れるわけがない。このテントは夏には暑すぎ、冬には寒すぎる」


「今夜、私たちは出発します」ハサンは小声で言った。


ラヒムは頷いた。「準備はいいか?」


「はい。でも...」ハサンは躊躇した。「本当に信頼できるのでしょうか?あの運び屋たちを」


「信頼?」ラヒムは静かに笑った。「この旅で信頼できるのは自分自身だけだ。運び屋たちは商売人だ。彼らは金のために働く。だが、彼らにとっても、仕事を成功させることが利益になる」


ハサンは納得しながら頷いた。「アミラのことが心配です」


「子供は強い」ラヒムは言った。「彼らは大人が想像する以上に適応力がある」


朝食の列に並びながら、ハサンはキャンプの様子をさらに観察した。テントは整然と並んでいたが、その数は明らかに収容能力を超えていた。一つのテントに複数の家族が詰め込まれているケースも多く見られた。


「ここは3000人用に設計されたキャンプだが、今は12000人以上が暮らしている」列の後ろから声がした。


振り返ると、50代くらいのギリシャ人男性が立っていた。彼は警備員の制服を着ていたが、他の警備員とは違い、友好的な表情をしていた。


「私はヤニス」彼は自己紹介した。「このキャンプで5年働いている」


「ハサンです」ハサンは警戒しながらも挨拶を返した。


「心配するな、若者」ヤニスは微笑んだ。「私は単なる警備員だ。あなたたちの状況を理解している」


「このキャンプでの生活は...どうなんですか?」ハサンは慎重に尋ねた。


ヤニスは深いため息をついた。「正直に言おう。良くはない。食料は限られ、医療サービスは不足している。審査プロセスは遅く、多くの人が何ヶ月も、時には何年も待つことになる」


「何年も?」ハサンは驚いた。


「そうだ」ヤニスは頷いた。「システムは機能していない。政治家たちは解決策について話すが、実際には何も変わらない」


ハサンは黙って考え込んだ。昨夜の決断は正しかったのだろうか。リスクを冒してでも先に進むべきなのか。


「あなたの妹さんは?」ヤニスが尋ねた。


「まだ眠っています」ハサンは答えた。「彼女のために朝食を取りに来ました」


「これを」ヤニスはポケットからチョコレートバーを取り出した。「私の娘が送ってきたものだ。彼女はアテネで教師をしている。彼女も難民の子供たちを助けている」


ハサンは感謝してチョコレートを受け取った。「ありがとうございます」


「気をつけるんだ、若者」ヤニスは意味深に言った。「このキャンプには多くの目と耳がある」


彼は他の警備員が近づいてくるのを見て、さっと離れていった。


朝食を受け取り、ハサンはテントに戻った。アミラはちょうど目を覚ましたところだった。


「おはよう、お兄ちゃん」彼女は眠そうに言った。


「おはよう、勇敢な旅人」ハサンは微笑んで答えた。「朝食を持ってきたよ。それと、特別なものも」


アミラの目はチョコレートを見て輝いた。「本当に?」


「ある優しい人からのプレゼントだよ」ハサンは言った。


彼らが朝食を食べていると、テントの入り口が開き、ファティマが息子のサミルを連れて入ってきた。


「おはよう」彼女は疲れた表情で挨拶した。「よく眠れた?」


「まあまあです」ハサンは答えた。「あなたたちは?」


「サミルが夜中に何度も目を覚ました」ファティマは息子の髪を優しく撫でながら言った。「悪夢を見ていたみたい」


アミラはすぐにサミルの隣に移動し、チョコレートの一部を彼に分けた。二人の子供はすぐに打ち解け、小さな笑い声を上げ始めた。


「ハサン」ファティマは小声で言った。「昨夜、あなたが戻ってくるのを見たわ」


ハサンは緊張した。「何を...」


「質問はしないわ」彼女は手を上げた。「ただ、気をつけて。このキャンプには噂が早く広まる」


「今夜、私たちは出発します」ハサンは決意を固めて言った。「アテネへ、そしてそこからドイツへ」


ファティマは驚いた表情を見せた。「そんなに早く?どうやって?」


「運び屋を通じて」ハサンは説明した。「費用は高いけど、ここで何ヶ月も待つよりはマシだ」


ファティマは黙って考え込んだ。「私たちも行きたい」彼女は突然言った。


「何?」


「サミルと私も」彼女は決意を固めた表情で言った。「このキャンプで腐るつもりはない。サミルには未来が必要だ」


ハサンは躊躇した。「危険かもしれません」


「この全ての旅が危険だった」ファティマは静かに言った。「シリアを出た時から、私たちは命を賭けている」


「わかりました」ハサンは頷いた。「今夜、準備をしておいてください。必要最小限の荷物だけです」


その日の残りの時間、彼らはキャンプの日常に溶け込もうとした。疑いを避けるため、通常通りに振る舞うことが重要だった。


午後、アミラが軽い熱を出し始めた。ハサンは心配になり、キャンプの医療テントに連れて行った。


医療テントは人で溢れかえっていた。多くの難民たちが様々な症状で治療を求めていた。長い待ち時間の後、ようやく彼らの番が来た。


「こんにちは、私はエレナです」30代のギリシャ人女性が優しく挨拶した。「どうしましたか?」


「妹が熱を出しています」ハサンは説明した。


エレナはアミラを診察し、額に手を当てた。「軽い熱ですね。おそらく疲労と環境の変化によるものでしょう」


彼女は薬を取り出し、説明した。「これを一日二回、朝と夜に飲ませてください。水分をたくさん取らせることも大切です」


「ありがとうございます」ハサンは感謝した。


「あなたたちはシリアから来たのですね」エレナは彼らの登録カードを見ながら言った。


「はい」ハサンは答えた。


「私の夫もシリア難民を支援する活動をしています」彼女は静かに言った。「状況は厳しいですが、希望を失わないでください」


テントを出る際、エレナは彼らに追加の水のボトルをくれた。「特に子供には水分が大切です」


キャンプに戻る途中、ハサンは夕方の準備について考えていた。彼らは目立たないように出発しなければならない。アミラの体調が心配だったが、このキャンプに長く留まることはできなかった。


テントに戻ると、ラヒムが待っていた。


「準備はいいか?」彼は小声で尋ねた。


「はい」ハサンは答えた。「ファティマと彼女の息子も一緒に来ます」


ラヒムは眉をひそめた。「より多くの人数はリスクを高める」


「彼らを置いていくわけにはいきません」ハサンは断固として言った。


ラヒムはため息をついた。「わかった。だが、全員が素早く、静かに動けるようにしておけ」


彼は立ち去る前に、最後の指示を出した。「夜の10時、昨日と同じ場所だ。遅れるな」


日が沈み始め、キャンプは夜の静けさに包まれ始めた。ハサンはアミラに薬を飲ませ、彼女の額に手を当てた。熱は少し下がっていた。


「今夜、また旅に出るんだよ」ハサンは優しく言った。


「どこに行くの?」アミラは尋ねた。


「まずはアテネという大きな街。そこから北に向かって、ドイツを目指すんだ」


「ドイツではどうなるの?」


ハサンは微笑んだ。「新しい生活が始まるよ。学校に行って、友達を作って、平和に暮らせるんだ」


アミラは黙って考え込んだ。「お父さんとお母さんも一緒だったらいいのに」


ハサンの胸が痛んだ。「彼らは私たちを見守っているよ。どこに行っても、彼らの愛は私たちと共にある」


夜の9時、彼らは静かに準備を始めた。必要最小限の荷物だけを小さなバックパックに詰め、暖かい服を着た。ファティマも同様に準備を整えていた。


「準備はいい?」ハサンはファティマに尋ねた。


彼女は頷いた。「サミルには冒険だと言ったわ。彼は興奮している」


【キャンプ到着から1日目の夜】


時計は9時30分を指していた。しかし、ハサンはアミラの体調を考慮し、今夜の脱出計画を延期することを決めた。


「アミラの熱が下がるまで待とう」ハサンはラヒムに伝えた。「彼女の体調が良くなれば、また計画を立て直す」


ラヒムは不満そうな表情を見せたが、理解を示した。「子供の健康が最優先だ。だが、長く待つことはできない。このキャンプは罠になりかねない」


ハサンはテントに戻り、すでに眠りについていたアミラの額に手を当てた。まだ熱があった。


窓の外では、月が雲に隠れていた。ハサンは深いため息をついた。彼らの旅は一時的に足止めされたが、決して終わりではない。


「明日はもっと良くなるよ」彼はアミラに囁いた。「そして、私たちは必ず前に進む」


キャンプの夜は静かに更けていった。明日は新たな挑戦が待っている。

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