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運び屋のゲーム 〜バルカンルートの影〜  作者: 犬伏犬太
【第1部:旅立ちのゲーム】【第3章:海の試練】
10/22

第3節:ギリシャの浜辺

# 第3節:ギリシャの浜辺


【登場人物紹介】

・ハサン:19歳のシリア人青年。妹のアミラを守るため、ヨーロッパを目指している。

・アミラ:ハサンの10歳の妹。両親を空爆で亡くし、兄と共に避難中。

・ファティマ:30代のシリア人女性。5歳の息子サミルと共に難民としてヨーロッパを目指している。

・ラヒム:40代のアフガニスタン人男性。元教師で、謎めいた雰囲気を持っている。

・マリア:レスボス島の難民支援ボランティア。20代のギリシャ人女性。


---


レスボス島の難民受け入れセンターは、人であふれかえっていた。


レスボス島はギリシャ第三の島で、エーゲ海に浮かぶ美しい島だった。トルコの海岸からわずか10キロメートルという位置にあり、何世紀にもわたって東西の文化が交わる場所だった。オリーブの木々が丘を覆い、古代からの遺跡が点在する島は、かつては観光客で賑わっていた。しかし今、この島は別の顔を見せていた。中東や北アフリカからの難民たちの主要な入り口となり、その美しい海岸線は救命胴衣や壊れたボートの残骸で彩られていた。


ハサンとアミラは、到着してから三時間、登録のための長い列に並んでいた。周囲には様々な国から来た難民たちがいた。シリア人、アフガニスタン人、イラク人、そして他にも多くの国籍の人々。全員が疲れた表情で、不安げに周囲を見回していた。


「お兄ちゃん、のどが渇いた」アミラが小さな声で言った。


ハサンは持っていた水筒を彼女に渡した。「最後の一口だけど、飲みなさい」


アミラは感謝の目で兄を見上げ、残りの水を飲み干した。


「次の人!」受付から声が上がった。


ようやく彼らの番が来た。受付には疲れた表情の女性職員が座っていた。彼女は機械的に質問を始めた。


「名前、年齢、出身国は?」


「ハサン・アル=アフマド、19歳、シリア出身です。こちらは妹のアミラ、10歳です」


女性は情報をコンピュータに入力し、二人の写真を撮った。


「これがあなたたちの仮滞在許可証です」彼女は二枚のカードを渡した。「これを常に携帯してください。次の審査まで、キャンプで待機することになります」


「次の審査はいつですか?」ハサンは尋ねた。


女性は肩をすくめた。「数週間、場合によっては数ヶ月かかることもあります。システムは混雑しています」


ハサンは息を呑んだ。数ヶ月も待つことになるとは思っていなかった。


「バスがキャンプまで送迎します。外で待っていてください」女性は次の難民に注意を向けた。


ハサンとアミラは建物の外に出た。強い日差しが二人を照らした。海からの風が心地よく感じられた。


「ハサン!」


振り返ると、ファティマが息子のサミルを抱いて近づいてきた。彼女も登録を終えたようだった。


「無事で良かった」ハサンは言った。「サミルは大丈夫?」


「ええ、少し怖がっているけど、無事よ」ファティマは答えた。「あなたたちも登録は済んだの?」


ハサンは頷いた。「これからキャンプに行くところです」


「私たちも」ファティマは言った。「一緒に行きましょう」


彼らは他の難民たちと共にバスを待った。アミラとサミルはすぐに打ち解け、小さな石を使って地面に絵を描き始めた。


「子供たちは適応が早いわね」ファティマは微笑んだ。


「そうですね」ハサンは同意した。「アミラはいつも強いんです」


バスが到着するまでの間、ハサンは周囲を観察していた。ギリシャの警察官たちが建物の周りを巡回し、ボランティアたちが水や軽食を配っていた。


その中に、一人の若い女性が目に留まった。彼女は20代半ばで、長い黒髪を後ろで束ねていた。彼女は難民の子供たちに優しく話しかけながら、水のボトルを配っていた。


「水はいかがですか?」彼女が近づいてきて、アクセントのある英語で尋ねた。


「ありがとうございます」ハサンは水のボトルを受け取った。


「私はマリアです。レスボスの地元のボランティアです」彼女は自己紹介した。「何か必要なものはありますか?」


「情報が欲しいです」ハサンは言った。「このキャンプでどれくらい待つことになるのでしょうか?そして、その後はどうなるのですか?」


マリアは周囲を見回してから、声を落とした。「正直に言うと、状況は良くないわ。キャンプは過密状態で、審査プロセスは遅い。多くの人が数ヶ月待っている」


「数ヶ月も?」ハサンは驚いた。「そんなに長く待てません。私たちはドイツに行かなければならないんです」


「多くの人がそう言うわ」マリアは同情的な目で見た。「でも、合法的な方法で進むなら、待つしかない」


彼女の言葉の裏には何かがあるように感じられた。ハサンは慎重に尋ねた。「合法的でない方法もあるのですか?」


マリアは一瞬躊躇した。「私にはわからないわ。でも...」彼女は小さな紙切れをハサンの手に滑り込ませた。「もし本当に急いでいるなら、今夜、この場所に来て。誰かがあなたを助けるかもしれない」


彼女は他の難民たちのところへ移動する前に、意味深な視線を送った。


ハサンは紙切れを見た。そこには場所と時間が書かれていた。「浜辺の北端、午後10時」


「何かあったの?」ファティマが尋ねた。


「わかりません」ハサンは紙をポケットに隠した。「でも、何か方法があるかもしれません」


その時、大きなバスが到着した。警察官たちが難民たちを整列させ、バスに乗せ始めた。ハサンはアミラの手を取り、ファティマとサミルと共にバスに向かった。


バスの窓から、ハサンはギリシャの美しい風景を眺めた。青い海、白い家々、そして緑の丘陵。平和な光景だった。しかし、彼の心は平和ではなかった。マリアの言葉と紙切れに書かれた約束が、彼の心を占めていた。


キャンプに到着すると、彼らは小さなテントを割り当てられた。テントは簡素だったが、少なくとも雨風をしのぐことはできた。


「ここが私たちの新しい家よ、サミル」ファティマは息子に言った。彼女のテントは隣に設置されていた。


アミラはテントの中を探検し始めた。「お兄ちゃん、ベッドがあるよ!」


「そうだね」ハサンは微笑んだ。「今夜はちゃんとしたところで眠れるよ」


キャンプ内を歩きながら、ハサンは状況を把握しようとした。数百のテントが整然と並び、中央には共同の食堂とシャワー施設があった。フェンスで囲まれており、出入り口には警備員が立っていた。


「まるで刑務所のようだ」誰かが彼の後ろでつぶやいた。


振り返ると、ラヒムが立っていた。アフガニスタン人の元教師は、相変わらず穏やかな表情をしていたが、その目は鋭く周囲を観察していた。


「ラヒムさん」ハサンは挨拶した。「無事で良かったです」


「君も無事で何よりだ」ラヒムは言った。「妹さんは?」


「テントで休んでいます」ハサンは答えた。「あなたはこれからどうするつもりですか?」


ラヒムは周囲を見回してから、低い声で言った。「ここには長くいるつもりはない。私には行かなければならない場所がある」


「どこへ?」


「ドイツだ」ラヒムは言った。「そこに私の兄がいる。彼は医者だ。二年前に難民として認められた」


ハサンは頷いた。「私たちもドイツを目指しています。でも、審査に数ヶ月かかると聞きました」


「そんなに長く待てない者もいる」ラヒムは意味深に言った。「特に、家族を待たせている者はね」


ハサンはポケットの紙切れを思い出した。「他に方法があるのでしょうか?」


ラヒムは微笑んだ。「常に方法はある、若者よ。ただし、リスクも伴う」彼は少し間を置いてから続けた。「今夜、何か予定はあるかい?」


「実は...」ハサンは躊躇した。「浜辺に行くかもしれません」


ラヒムの目が光った。「そうか。私も同じだ。おそらく、同じ理由でね」


二人は黙って理解し合った。


「気をつけるんだ」ラヒムは言った。「全ての人が友人というわけではない」


彼は立ち去る前に、最後にこう付け加えた。「もし行くなら、一人で行け。妹は安全な場所に」


ハサンはその助言を心に留めた。


夕食時、彼らは共同食堂で簡素な食事を取った。パンとスープ、そして少しのフルーツ。アミラは疲れていたが、サミルと一緒に遊ぶことで元気を取り戻していた。


「今夜、少し出かけなければならないんだ」ハサンはファティマに言った。「アミラを見ていてもらえますか?」


ファティマは質問はせず、ただ頷いた。「もちろん。気をつけて」


夜になり、キャンプは静まり返った。多くの難民たちは疲れ果て、早々と眠りについていた。ハサンはアミラがファティマのテントで眠りについたのを確認してから、こっそりとキャンプを出る方法を探した。


フェンスの一部が緩んでいるのを見つけ、そこから滑り出ることに成功した。月明かりを頼りに、彼は浜辺へと向かった。


浜辺の北端に到着すると、既に数人の人影が見えた。ラヒムもその中にいた。彼らは小さなグループで、小声で話し合っていた。


「来たな」ラヒムがハサンに気づいて言った。


「何が起こるんですか?」ハサンは尋ねた。


「私たちと同じように、先に進みたい人たちが集まっているんだ」ラヒムは説明した。「運び屋が来るのを待っている」


「運び屋?」ハサンは驚いた。「ここにも?」


「もちろん」ラヒムは言った。「国境がある限り、それを越えさせる者たちもいる」


しばらくして、二人の男がボートで近づいてきた。一人はギリシャ人らしく、もう一人はアラビア語を話した。


「聞け」アラビア語を話す男が言った。「我々はあなたたちをアテネまで連れて行く。そこからマケドニアへの道を手配する。費用は一人1000ユーロだ」


「高すぎる!」誰かが抗議した。


「これが相場だ」男は冷たく言った。「払えない者は、キャンプで数ヶ月待つといい」


ハサンは持っているお金を計算した。彼とアミラの分で2000ユーロ。それは彼らの資金のほとんどを使い果たすことになる。


「信頼できますか?」ハサンはラヒムに小声で尋ねた。


「完全には」ラヒムは正直に答えた。「だが、私の知人がこのルートで無事にドイツまで行ったと聞いている」


ハサンは決断を迫られていた。キャンプで数ヶ月待つか、リスクを取って先に進むか。


「決めたか?」運び屋が近づいてきた。「明日の夜、出発する。今、前金として半分を払え」


ハサンは深呼吸した。「行きます」彼は言った。「私と妹の二人分です」


「賢明な選択だ」男は笑った。「明日の同じ時間、同じ場所に来い。そして、誰にも話すな」


取引が終わり、グループは解散し始めた。ハサンはラヒムと共にキャンプに戻る道を歩いた。


「本当に正しい選択をしたのでしょうか?」ハサンは不安を隠せなかった。


「正しい選択など、この旅にはない」ラヒムは静かに言った。「ただ、前に進むか、立ち止まるかの選択があるだけだ」


キャンプに戻る途中、ハサンは海を見つめた。同じ海が、彼らをトルコからここまで運んできた。そして明日、その旅は続く。


「ゲーム」はまだ始まったばかりだった。

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