史的な夜話 その12
私:あのぉ。
友:はいはい。
私:一つ聞いてもよろしいか。
友:はいはい、なんでしょう。
私:柳沢吉保って居るやないですか。
友:あれですね、忠臣蔵にも出てくる人ですね。
私:その、柳沢吉保って悪もんやったんですか?
友:いきなりどないしたんよ。
私:二年以上前やったかな、職場でさ一緒に仕事しとった人から聞かれたんよ。
友:二年前やったら、二年前に聞きなはれや。
私:どっかで似たような台詞、聞いたこと有るんやけど。
友:それは有れや、気のせいや。
私:気のせいか。
友:そやけど、二年前の話をなんで今頃話すんよ。
私:そりゃぁあんた、暇やから思い出した以外に理由は無いよ。
友:暇にも程があるやろ。
私:そない言わんと、付き合うてくれや。
友:まぁ、そない言われると、話さずに居れんねんけどな。まず図書館に行ったらええよ。そしたら、新人物往来社が出した「柳沢吉保」って言う本が有るから、読んでみたらええよ。
私:言いたくは無いけどな、わしが図書館行って本借りて、読むと思うけ。
友:あんたは漫画専門やったっけ。
私:わかっとったら無理言うたらあかんで。
友:そないやったなぁ。
私:それで、柳沢吉保でなんか知っとることは無いんですか。
友:あんまし、知っとることは無いんやけど、最近、偶然なんでしょうけどね、福留真紀さんという人が書かはった「将軍側近 柳沢吉保」と言う本を見付けたんですよ。一回読まなさったら宜しいで。
私:そやから本なんざ読まんがな。
友:ほな、どないすんねん。わしが朗読せなあかんのか。
私:最初の一行でわしが寝てまうがな。
友:ほな、意味あらへんがな。
私:そない言わんと、要点だけでも話してくれへんか。
友:しゃぁない、適当に読んで、適当に話したるがな。
私:適当は困るし。
友:ほな、最初の数行だけ読んで感想言うたろか。
私:言うか、偶然にしてもようそないな本買うとったなぁ。
友:なんか、嫌な予感がしたんよ。
私:嫌な予感とか言い無いや。
友:まぁ、宜しいわ。そうですな、結論から言うと、悪人て言うイメージは捨てた方が宜しいな。
私:そうなんや。
友:基本的にさ、柳沢吉保の悪口言うとるんは、その時代や無うて、ちょっと後の時代の人とか、その悪口を読んだ明治時代の人が真に受けてもうたみたいな、そないな感じで拡がって行ったんやな。
私:そうなんや。
友:例えばさ、柳沢吉保って最終的に十五万石の大名になるんやな。
私:そもそも万石って言われても実感湧かへんもん。
友:そないなこと、今聞き無いや。
私:あんた以外に、万石の説明でける人おらへんやん。
友:今な、手元に資料有らへんねん。説明でけへんねん。
私:あんたのことやから、史料無うても説明でける思とったよ。
友:無茶言わんとって。数字が苦手なんはあんたも知っとりょうが。
私:そりゃぁ知っとるけどさ。
友:跡で説明するよ、石高の話は。
私:お願いします。
友:まぁ、とりあえず山梨県の甲府城で十五万石の殿様まで出世するわけよ、柳沢吉保は。
私:それは凄いことなんやな。
友:元々、吉保のお父さんは安忠って名前の人で、若かりし綱吉に仕えはったんやな。だから、綱吉が将軍にならんやったら、綱吉の一家臣で終わってたような、そないな家やな。
私:ほな、綱吉が将軍になったお陰で大出世したわけやな。
友:そりゃぁ、綱吉の家臣のままやったら十五万石なんて領地貰えへんよ。綱吉は館林の城主になって、二十五万石の領地は持っとったけど、さすがにその中から十五万石を家臣である吉保に割くわけにはいかんやろ。今の企業で言うたら、会社の年収から半分以上を重役の給料に回すようなもんやから、な。
私:確かに……
友:例えとして正しいかどうかはわからへんけど、田沼意次っておりますやん。
私:急に田沼意次が出てきた。
友:知ってます?田沼意次って。
私:なんか、悪役の名前な気ぃはするけど。
友:「鬼平犯科帳」で有名な池波正太郎さんは、「剣客商売」では理解力のある人として扱うてはるし、最近は意次の評価を見直す研究も進んでるみたいやから、まぁ、ええねんけど、この意次なんかは五万七千石の大名にまでなったのに、蹴落とされて、一万石にまで落とされて、領地も辺鄙な場所へ移されて、大変な思いしてはるんやな。
私:それこそ、急上昇と急降下を体験しなすったんやな。
友:それまで、遠江国の相良って所にお城まで築いてはったのに、壊されて、福島市の片隅へ追いやられたんやな。
私:福島市はわかるけど、遠江国の相良ってどこやねん。
友:静岡県の牧之原市やな。一万石って大名である最低限の石高やから、ほんまに見せしめというか、きつかったと思うで。
私:大変やなぁ。
友:田沼意次以外で言うと、綱吉の跡を継いだ家宣、家継に仕えた間部詮房もあれやね、関東で五万石の大名にまで出世したけど、越後国に飛ばされたりしたもんね。権力の中枢に居た人って、最後は嫌われて飛ばされる運命なんやろうな。
私:その、間部詮房って人も、一万石になったんけ?
友:この人は五万石のまま飛ばされたんやな。
私:給料減らされへんかっただけ、ましって言う奴か。
友:今風に例えると、そないなるかな。
私:それで柳沢吉保の話は、どこへ行ったんですか?
友:話を戻すとさ、吉保が亡くなった後なんやけど、息子の吉里が家を継いで、甲府から大和郡山へと移されるんやな。でも、十五万石自体は維持しとるし、そのまま何事もなく明治維新まで続いてはるんやな、柳沢家は。
私:ほな、悪もんでもなんでも無かったんやな、柳沢吉保って。
友:なんて言うんやろうか、将軍の綱吉が極端に走る人やったから、それが悪い部分もあるんやろうけど、それを止めれへんかった吉保の悪口を言うて、憂さ晴らししてはった部分もあるやろうな。
私:綱吉言うたら、犬公方で有名やったよね。
友:それも極端に走った例よね。ただ、生類憐れみの令も、元々仏教国やのに、生きもん殺しとるんが気に入らんとか、そないなことが原因とも言われとるし、この件も何が正しいんか、わしにはわからんよ。
私:調べなはれや。
友:無茶苦茶言うし……
私:なんにしても綱吉が極端やから、吉保が出世した言うことでええんかな。
友:そうやねぇ、気に入ったこととか、気に入った人とかを大事にする面があって、一方で気に入らん人とかはあっさりと切り離すって言うんかな、厳しい面があるんやけど、そういう中で吉保は綱吉が若い頃から側近くで仕えて、徐々に出世していったわけやから、側近としての能力もあったんやろうし、運も良かったんやろうな。
私:もし、綱吉や無うて、他の人に仕えとったら、ここまで出世せえへんやったやもしれへんわけやな。
友:普通に身の回りの世話係とか、頑張っても大名家の御家老とか、その辺りで止まっていたかもしれへんよな。
私:運の良い人やなぁ。
友:さっきさ、言うたかもしれへんけど、幕末まで柳沢家は続いたって言うたやん。
私:言うてましたね。
友:これってやっぱし、吉保の子孫達も、その家臣団も不祥事が起こらへんよう、相当気を使うとったんやないか、その様にも思うんよね。隙見せたら潰されるとか、十五万石が一万石になる可能性もあったわけやから。
私:それは大変なことやろうな。
友:それに柳沢吉保自身は綱吉の側近としてほぼほぼ江戸城に詰めっぱなしやん。そやから出世して大名になっても、その土地へ行くことなんてほとんど出来ないわけやし、吉保の家臣、有名な人やと藪田さん言う人が居るんやけど、この人なんかが頑張って吉保の留守を守ったり、甲府まで出かけて領地の管理をしたんやな。
私:ほな、その藪田さんが手ぇ抜いたりしたら、吉保も困るところやったわけやな。
友:家臣の誰かが悪いことしたら、綱吉が吉保のことを嫌いになって、側用人の地位も剥奪されるやろうし、その日の内に切腹とか、それも有り得たやもしれへんで。
私:恐いなぁ……
友:でも、そないにおっかない人に忠実に仕えたんやから、吉保も凄い人やったんやないか、そない思うよ。
私:その点は確かに凄いよね。
友:この辺りで、吉保の話は宜しいでしょうか?
私:そう言えば、さ、吉保と言えば百万石のお墨付きの話とか有るけど、それはどないなん。
友:それも後々の人が作った、まぁ、作り話なんですけどね。百万石のお墨付きって聞くと、伊達政宗の話を思い出しますよ。
私:伊達政宗にも、百万石のお墨付きって言う話が有ったんですか。
友:関ヶ原の合戦の時にさ、伊達政宗が西軍に付くか、東軍に付くか、微妙な雰囲気やったから、徳川家康が領地を百万石にするから、こっちに付きなさいって言う手紙を出すわけですよ。
私:そういう事があったんやね。
友:でも、結局は伊達政宗、東軍について上杉景勝を攻撃したんやけど、その裏でなんか悪いことをしとったらしくて、百万石は無かったことにされたんやな。悪いことしたんは、不問にされたらしいけど。
私:なんか、伊達政宗って切れもんのイメージあるけど、一方で上手いこと行かん人でも有るような、そないなイメージもあるよね。
友:もうちょい早うに生まれとったら、運命変わって、東北で秀吉や家康相手に一戦交えとったやもしれへんよね。
私:なんか、あれやね。伊達政宗について語らせたら、明日の朝まで語りそうやけど、大丈夫?
友:さすがに十二時間も語る気ぃも無いし、伊達政宗に感してそこまでの知識は無いよ。柳沢吉保に話を戻そうな。
私:頼むわ。
友:この、百万石のお墨付きとか言う話は、吉保の長男である吉里が綱吉の子やないか、そないな噂があるんやけど、勿論、これは噂であって、事実では無いんよ。
私:なんや噂かいな。それやったら宜しいがな。
友:ただ一つ、疑ってる部分はあるんやな。
私:あんたが疑うたらあかんがな。
友:まぁ、疑うとるだけやから、真剣に聞かんでもええねんけど、ここまで来たら話させてくれや。
私:止めるだけ無駄なんやろうなぁ、どうぞどうぞ話して下さい。
友:柳沢吉里の生年月日は貞享四年九月三日なんですね。
私:西暦で言うと?
友:一六八七年の十月八日ですね。
私:助かります。
友:そして元禄四年から綱吉は吉保の屋敷へ頻繁に出入りするようになってやな、その回数はなんと五十八回に及ぶんですね。
私:ちなみに元禄四年って言うんは西暦で言うと……
友:一六九一年かな。だから合わないとは思うんですよ。
私:合わない?
友:吉保にはまず正室として曽雌定子さんが居てはるんですね。残念ながら子宝には恵まれなかったようですが、元禄十五年には綱吉の正室さんと面会するという、異例の待遇があったんですね。
私:それって異例なんや。
友:将軍の正室が大名の正室と、わざわざ江戸城の大奥に招いて面会するって言うんは、例が無いみたいですよ。
私:凄いねぇ。夫婦揃って。
友:そいで、吉里のお母さんは吉保の側室である飯塚染子さん、他にも何人か子供居たようやけど、無事に育ったんは吉里だけやったんやな。
私:我が子に先だたれるって、いつの時代でも嫌やろうなぁ。
友:自分より若い奴が、ある日突然居なくなったら、結構嫌やで。
私:それで吉里の話はどうなるんですか?
友:吉里のお母さんは飯塚染子さん言う人なんやな、これは言うたっけ。
私:うん、聞いたよ。
友:この人が柳沢吉保の家で働くようになったんは天和元年、西暦で言うと一六八一年に吉保が実のお母さんを引き取った際、侍女として仕えていたとかなんとか、そないなことで柳沢家に入って、その後で吉保に気に入られて、側室になったようなんやな。
私:実のお母さんって、なんやねん。
友:吉保、実のお母さんとは長らく離れて暮らしてはって、随分と時間が経ってから、引き取ったとか、そういう話やねんな。
私:苦労してはるんやなぁ。
友:そうとも言えるよね。でも、飯塚染子と将軍の綱吉がである接点て言うのは無いんよね。こないして順序を追ってみていくと。
私:ほな、あんたは何が気に入らんのよ。疑うとるんやろ。
友:吉保には染子さんも合わせて六人の側室がいたらしいねんけど、その中に正親町町子って言う女性が居るんやな。
私:長谷川町子なら知っとるで。
友:今、サザエさんを出しなや。
私:言いたかったんや、申し訳ない。
友:染子さんも和歌を残すほどの教養人やってんけど、この正親町町子さんも「松蔭日記」とか言うて膨大な日記を残してはるんやな。この日記は当時のことを知るのに、貴重な史料としても生かされとるし、吉保周辺の事情を知るにも貴重な日記なんやな。
私:なんか、凄い人が側室やってんやな。
友:町子さんは公家の正親町家の出身で、どないな経緯で吉保の側室になったんか、はっきりとした事情はわからへんねんけど、親の正親町なんとかさんも京都と江戸を行ったり来たりしてはったみたいやから、吉保と何らかの接点があって、娘を側室に出したやもしれへんよね。
私:まるで娘を売り飛ばしてるみたいな言い方やん。
友:誰も売り飛ばしたとか、そないな言い方はしてないつもりやけど、幕府側の権力に一歩でも近付いておこうとか、そないな下心が親に合ったかもしれへんやん。
私:結局、娘を売り飛ばしとる……
友:まぁ、解釈は任せるけど、吉保も文学の素養があった人で、「楽只堂年録」という公的な日記を残してるんやな。実際に編集作業したんは荻生徂徠とか言う、有名な学者らしいねんけど、記録としてはこれも大事な史料らしいねん。忙しい忙しい言いながら、吉保は文学もきちんとこなしてはってんから凄いよね。
私:吉保言う人はほんまに寝とったんやろうか。寝る間を惜しんで政治と文学をこなしとったように見えてきたけど。
友:そもそも、綱吉とは師弟関係やったからな。
私:そうなんや。
友:綱吉は学問好きな将軍としても知られとって、これも、まぁ、極端に過ぎたから、吉保を始めとして色んな人の屋敷へ遊びに行っては講義しはって、聞かされた方は有り難かったんか、迷惑やったんか、微妙な気ぃはするけどね。
私:今の時代、学問好きな政治家って居るんやろうか。
友:それは何とも言えへんよね。政治家を隠退した途端、執筆して本を出す人もおるみたいやけど、でも、学者っぽい一面を出す人って居らんのとちゃうけ。
私:学者っぽい一面、とは。
友:例えば、政治とは全く関係の無い分野の専門家やったとか、政治についてわかりやすく解説するとか、そういう人って居ったっけ。
私:知るかいや。そもそも政治に興味ないし、政治家ここについては余計に関心あらへんやん。
友:そりゃそうだ。話を戻してさ、吉保の話を続けるけど、日記を書けるほどの女性と学問好きの将軍様が吉保の屋敷で出会ったらどないなるんやろう、綱吉が吉保の屋敷で一泊した時、どないなるんやろうって考えたんよね。
私:うんうん、それで。
友:この正親町町子さん、吉保との間に二人の男子が居るんよ。経隆と時睦、経隆は元禄七年の十一月生まれで、時睦は元禄九年六月の生まれ、さっきも言うたけど、元禄四年から綱吉による吉保の屋敷訪問が始まっていたから、御落胤が有り得るならこの二人なのかなって思たんよね。吉保と吉里は松平姓を許されて、幕末まで松平家として松平吉保、松平吉里みたいな感じで続いていくんやけど、経隆と時睦も一代に限って松平姓を使って良いとか、そないな扱いになるんやね。
私:なんか、いきなりわけわからんようなってきたで。
友:話が飛び飛びになってもうたかな。
私:うん。まず松平の姓を使うて良いとか。あれけ、表札に柳沢や無うて、松平って書いてええってことか。
友:将軍様からの指示やから、柳沢って表札を掲げとったら逆に怒られるし、公文書とかでも署名する時は松平吉保、柳沢吉里って書かなあかんし、それが吉里の子や孫も続いていくわけやな。これが名誉なことでもあるし、伊達家や島津家なんかもそないな感じやったから、まず名誉ってことで良いことやし、家臣としては厚遇されとったって言う証拠やな。
私:そうなんや、知らんやったよ。それで一代限りって言うとったやん。
友:経隆と時睦がなんで一代に限って松平の姓を与えられたんか、そこが微妙なんよね。二人とも一万石を与えられて分家してるんやけど、これもまたなんでなんかなって、思てるんよね。
私:一万石って言うたら、大名なんやな。
友:大名には違いないんやろうけど、名ばかり大名やで。参覲交替があるわけや無し、領地かて新潟県の寂しい場所やったはずやし、大名になって良かったんか、どないなんか、思うよ。
私:そうなんや。
友:なんて言うの、綱吉がその場の思い付きで経隆と時睦に松平の姓を与えたんか、それとも二人の母親が公家やから箔をつけようとしたんか、二人の顔を見て、どことなく自分に似てるなぁ、そない思たんか知らんけど、なんでこの二人に松平の姓を与えたんか、気になってるんよね。
私:でもさ、吉里、経隆、時睦に平等に松平の姓を与えたって思たら、普通や無いんか。
友:時睦の後にさ、忠仰、保経って言う子が居るんよ。
私:その子らは、松平の姓を貰えへんかったんやな。
友:吉保、吉里、経隆、時睦が松平姓を貰たんが元禄十四年十一月で、忠仰と保経の二人はまだ産まれて無かったって言うのはあるんやけど、経隆は元禄七年、時睦は元禄九年の生まれやから、時睦は五歳で松平の姓を使い始めるわけやから、特別待遇やったんやないか。
私:凄いねぇ。改めてやけど、ほんまに何があったんやろうな。
友:答えは闇の中ですね。
私:あ!思い出した!
友:どないしたんよ。
私:万石って、なに?
友:さ、寝よ寝よ、良い子は寝る時間やで!
私:万石の答え!
友:寒いし、寝ようよ……
1石=10斗=100升=1000合
1合=1.8リットル
1升=180ミリリットル