出会いと初恋
ここはいつでも光で満ち溢れ、咲き誇る花の香りが漂っている。
時折人間がやってきて、恍惚とした表情で「ここは楽園か」と言って去って行くほどに。
もちろんここは楽園だ。
私たち妖精の、だけれど。
妖精の世界に紛れ込んでも自力で無事に帰ることのできる人間はほとんどいない。だからここに迷い込む人間はなるべく帰してあげる。
それが私たちエキザカムの一族の決まりだった。
そんな親切で見返りを求めない妖精がいるのかと言われたら、私たちの一族くらいだろうと思う。
気まぐれな性格の妖精が多い中で、珍しい種族だと思う。
他の妖精よりも人間のことに興味があるし、人間のことが好きな種族なのだ。
妖精界に迷い込んだ人間は、だいたいが私たちに気づく事なく去っていく。けれど、稀に私たちに気がつく人間もいる。
私が恋したのはそんな人間のひとりだった。
「はぁぁぁ」
今日何度目かのため息だ。
「メリン。花の上でため息とはね。今日何度目なの?」
「数えてない」
花弁の中に突っ伏すと、花粉が飛び散った。
「またあの人間のことを思い出しているの? 毎日飽きないね」
「仕方がないでしょ。好きなんだもの」
「好きはいいけど、ため息ばかりじゃ楽しくないじゃん」
「そうだけど。でも顔を思い浮かべるだけで、楽しくなるのよ」
「ため息ついてるけどね」
「だってぇ」
私を揶揄いながら、顔についた花粉を拭き取ってくれる。
メリンは私の名前。彼女はバイオレット。1番の仲良しだ。生まれた時から一緒にいる。
あれは、私が悪い妖精のオオカミに喰べられそうになっていた時のことだった。
***
綺麗なタマムシを追いかけていたら、私たちの住む場所から外れ、滅多に立ち入らない場所まで来てしまい迷子になってしまっていた。
完全にうっかりしていた。
普段ならしっかり者の私がこんなミスは起こさないのに。
そのタマムシがあまりにも綺麗で、甘い匂いがしていたから。
迷い込んだところは、オオカミ(の姿の妖精)に喰われるから行ってはいけないと言われている場所だ。
太陽の光さえも差し込まない、葉が鬱蒼と生い茂る薄暗い森の中。
空気は心なしかじっとりと水分を含んでいて、どこへ行っても木の影にはなにかが潜んでいそうな場所である。
そんな場所だというのに、周りも見えないくらいに熱中していたことに気がついたのはオオカミに追いかけられてからだった。
甘い匂いは私を誘い込む匂いだということに考えが至るには、またさらに時間がかかった。
なんとか逃げ切ろうと、力を振り絞って小さな羽を羽ばたかせる。
何度かオオカミの歯がガチン、ガチンと鳴っていたのが聞こえた。
私に出せる全速力で飛んでも、オオカミには勝てないことはわかっている。
もうだめだと諦めかけた時。
私を追いかけていたオオカミに剣が振り落とされた。
斬られたオオカミは驚いた様子で、慌てて逃げていった。
剣の主を見ると、馬に乗りマントを羽織った人間の騎士だった。
脇目も振らずに逃げていた私は気が付かなかったけれど、人間がすぐそばまで来ていたのだ。
騎士だとわかったのにはワケがある。
昔おばあちゃんがよく話してくれたおとぎ話に出てきた騎士に姿が似ていたこと。
それに、私たちがたまに人間界に遊びに行くと女の子たちが『騎士様だわ』とはしゃいで見つめる先にいる人間の姿と一緒だったから。
私を助けてくれた騎士の出立ちは、まるでおばあちゃんから聞いた人間界のお伽話の王子様のようだった。
薄気味悪い暗い森の中で、彼だけが輝いて見えたのだ。
妖精界にだってかっこいい王子様のお話はあるけれど、人間界の王子様ってどうしてそんなに魅力的なのかしらね。
助かった、と安心した私は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
オオカミは人間にも認識されることが多いけれど、私を認識する人間は稀だ。だから今回も私は認識されないだろうと思った。
鼻息荒いオオカミが駆けてくれば自分が襲われると判断し、剣を振り下ろしたのだろうと。
そしたらへたり込む私に、騎士は馬から降りて膝をつき、手を差し伸べたのだった。
「怪我はないか」
怪我の心配をされたのは、生まれて初めてだった。
飛び回っていれば怪我はつきものだし、裂けた羽も薬の花の甘い蜜を吸ってゆっくり眠れば治るものだから。妖精同士ではそこまで大事にしない。
差し出された大きな手と、騎士の顔を交互に見る。
「あなた、私が見えるの?」
お礼の言葉よりも先に、そう聞いていた。
「全く不思議なことだが、俺には君が見える」
騎士は輝く笑顔でそう答えた。
こんな薄気味悪い場所なのに、笑って助けの手を差し出せるだなんて、なんて強い心の持ち主なのかしら。
私の心は飛び跳ねた。
生まれて初めてのときめきだった。
この人間ならば、私たち一族が手を貸さなくてもこの森を抜け出し、元いた場所へ戻れるだろう。
私はそう感じていた。特別な人間なのではないか、と。
「その羽では飛べないだろう。俺の手に乗るといい」
羽の先がボロボロになってしまっているのにも気づかれていた。
彼は差し出した手をさらにぐいっと私に近づける。
人間の手に乗ることなどした事がないから緊張する。
けれど、この人間なら私を握りつぶしたりなどしないだろうと、不思議に信頼していた。
彼の手に乗ると大きな手は私を壊れものに触れるように優しく包み、そっと顔の近くまで持って行く。
「しかし、本当に不思議だ。君は妖精か?」
上から下まで、さらには背中の羽までじっくりと観察される。
されるがままの私は、まじまじと見つめられて照れてしまった。
「お礼を言っていなかったわ。助けてくれてどうもありがとう。ここは妖精のテリトリーよ。あなたは妖精界に紛れ込んでしまったの。私が人間界に案内できたらいいのだけど」
照れ隠しに少しツンケンしてしまった。
なぜいつも通りに人間に優しくできないのだろう。
変なところで口ごもってしまった私を見て、彼はボロボロの羽のせいだと思ったようだ。
「それでは飛ぶのも一苦労だろう。俺が運んで仲間のところに連れて行こう。君の仲間も俺を人間界に案内してくれるか?」
そう言うと私を手に乗せたまま馬に乗った。
羽のせいというよりは、私も道に迷ってしまったからなんだけど。どうしよう。
なんとなく道に迷ったことが言いづらく、「そうね、お願いするわ」と答えてしまった。
でもこの人ならこの森は抜けられるかもしれない。さきほど感じた私のカンを信じてみよう。
とにかくここから離れるべきだ。
馬は特に私を警戒するでもなく受け入れてくれているようだった。
私はすっかり方向感覚もなくなっていたから、どちらへ進めばいいかなどわからない。
「あなたはどちらから来たの?」
「国境の砦でいざこざがあり、そこへ派遣された帰りだ。王都へ戻るところだったが、山の中で狼に追われている光る鳥を見つけたと思ったら君だった。気がついたらこの森だ。来た道は森の中ではなかったんだけれど」
国境の砦って何処だろう。ますますわからなくなる。
騎士はそのまままっすぐ進んでいく。手綱には迷いがなかった。
まもなく、森がひらけた。
こんなにすぐに森から抜け出せると思わなかった。驚きながら騎士を見る。
どうした? とでも言いたげにこちらを見て右の眉毛を上げてみせた。
なにその仕草。
突然心拍数が上がって、私はウッと息が詰まった。なんなのこの胸の苦しさは。
「どこか痛むのか」
私を覗き込む深緑の瞳に私が映り込んでいる。それを見つけてしまった私は、今度は赤面することになった。
「ち、ちがうの! なんでもないわ」
慌てて顔を背ける。顔があつい。
「森を抜けたらもう安心よ」
少し先に泉があると話せば、とりあえずそこへ向かうことになった。
「メリン!」
泉に着くと、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「バイオレット!」
バイオレットの声を聞いて、身体中の力が抜けた。
騎士のおかげで平静を保っていられたけれど、助かった後も緊張していたのだと気がつく。
「探したんだよ! 急にタマムシ追いかけて行っちゃうし、呼んでも気づかないで森に入って行っちゃうし……って、人間に連れてきてもらったの!?」
私を手に乗せた騎士に驚いている。そうだよね。私だってこの状況に驚いている。
「君の仲間か! これで安心だな」
彼は優しく微笑んだ。
胸の奥がきゅうっと締め付けられる感覚があった。
その途端になぜだか泣きそうになる。
これは、なんなのだろう。
私、変なものでも食べたのかしら。
どこかおかしいのかな?
涙が出そうになるのを振り切って、バイオレットに向き直る。
「オオカミに食べられそうになっているところを助けてもらったの。これで人間界に帰してあげられるわ」
この後はバイオレットに任せて、私は泉で休んでいこう。そう思っていたのだけれど。
「では君たちの住処まで案内してもらおう。君を下ろしたら人間界まで案内してくれ」
騎士はそのまま私を大事そうに手で包んでバイオレットの方まで馬を進める。
「仕方がないなぁ。メリンもボロボロだし、連れて行ってもらった方が安心だもんね」
そういうとバイオレットがくるくると馬の周りを飛び回る。
「さぁ、あたしの後に着いてきて!」
私たちエキザカムの妖精は、人間を案内するのが大好きなのだ。
エキザカムの一族の決まりで、妖精界に迷い込んでしまった人間は人間界に返してあげなければならない。
この決まりを破れば命が消えると言われている。
だから私たちは妖精界に迷い込んだ人間は必ず人間界に帰れるように道案内をしてあげるのだ。
この決まりがいつからあるのか、誰が決めたのか、本当に命が消えるのか、長老でもわからない。
けれど私たちは人間界の物語や様子を見るのが大好きだから、人間には優しい一族でいたいと思っている。
たとえ、人間が私たちを認識できないとしても。
今回のように馬に乗っていれば、馬に道を教えてあげられる。徒歩の人間は、髪の毛を引っ張ったり耳を引っ張ったり、服を引っ張ったりして方向を教えてあげるのだ。
道中、私たちの名前を聞かれたので答えた。そして私も騎士の名前を教えてもらった。
フィオン・フラナガン。
妖精に素直に名前を教えるとは、不用心ね。
私は優しいから「妖精に簡単に名前を教えてはダメ」と教えてあげたけれど。
もうあなたの名前を知ってしまった。
それから私の心はあなたの名前に捕らわれている。本当なら私たち妖精の方が、気に入った人間を名前で捕らえられるはずなのにね。
そうして、一族の元へ戻った私たちは花の蜜で元気になった私とバイオレットでフィオンを人間界へ連れて行ってあげたのだった。
これが私と人間の騎士との出会い。