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魔法院一年生 5月(2)

「―は?」


全くの無。

イルフィアはしばらく、この一瞬のことを思い出すたびに、時間に関する禁術が使われたのでは?と疑うことになる。

あったのはイルフィアの間抜けな声と、髪と服から液体の滴る音だけ。


次に浮かんだのは、これが何かの薬品ではないか?という点だ。

が、その思考は浮かんだだけ。まとまらず直ちに霧散することとなる。


呆然と立ち尽くす(頭の中はそうでなかったが)イルフィアの手が取られた。

「―わっ!?」

後ろからすれ違うように突然手を引かれる。よろめかないように1歩踏み出しても、それは止まってくれなかった。

そのまま、まっすぐ。


後ろを歩かされるイルフィアには、相手がわからない。

ふわふわと揺れる、茶色。

濡れた髪と滴る水が邪魔をした狭い視界では、それだけがすべてだった。



「わたくしたち」


唐突に立ち止まられ、勢い余った体がそのまま何か―固い壁のようなものに阻まれる。

ちょうど腹のあたりに角が当たって、思わず身をかがめる。濡れた体がべちゃと嫌な音を立てた。


「二人でエントリーしますの。よろしくて?」


さっと顔を片手で拭えば、何のことはない、学生課のカウンターだった。奥にいる顔見知りの職員と目が合う。驚愕に見開かれた目は、イルフィアを認めるとサッと逸らされる。我関せずと言った様子だ。酷い話である。


「は、はい。マツヤさんと…」

昼過ぎでにぎわっていたホールのすべての人間が動きを止め、注視した。

群衆は今や遠巻きの観客だった。


「ねえ」

「貴女、お名前は?」



そこで、カウンターに突っ伏したままのイルフィアに初めてその人が顔を向ける。


濡れた視界の中揺れていたのはやはり髪だった。肩の上でウェーブした茶髪。

大きなアーモンドの形の瞳は、髪と同じ茶色で縁取られ、中央にはペリドットが輝いていた。

わずかに色づく頬と、赤く小さな唇。

(禁錮の術をかけられたのだろうか)

視線に射抜かれただけで、二度と逸らすことができない。


「……イルフィア=フランソワーズ……」

いいお名前ですわね、と可憐にその人は微笑んだ。






「ねえ、どうか機嫌を直してくださらないかしら?」


場所は談話室。

数ある部屋のうちの一室で、イルフィアは彼女と2人、ソファに向かい合っていた。


あの学生課での一件で、イルフィアはこの少女と2人で実技試験に登録されるハメになった。職員に名を呼ばれていた気もするが、とてもそう呼びかけてやる気にはなれない。




「はい、マツヤさん、フランソワーズさん、ペアでの登録を受け付けました」

名前を告げてから、冷静さを取り戻したイルフィアは己の姿の惨状に憤慨した。

頭からつま先まで、びちゃびちゃに濡れたイルフィアに対してこうも平然とした態度を取るということは、この女が水をかけた張本人だろう。

それがどういうつもりか!

「やめてくれ!こんな奴、知り合いですらないっ―」



無効だと言い募る声を掻き消し、ゴーン、と重厚な鐘の音が学内に響き渡った。昼の休憩の終わりを、そして、登録の締め切りを告げる合図が、イルフィアのもとへも降り注いだのだった。


何もかもが馬鹿馬鹿しくなってしまった。長いため息をついたところまでははっきりしているが、そのあとはなんだかもう、投げやりな気持ちになっていた。

帰ると言い出したところで、この女は手を離さず、そのまま無理やり談話室まで連れてこられたというわけだ。

いつの間にか、あれだけ濡れていた髪も服も、元通りになっていた。


(振り解くことはできたはずだ)


「自己紹介が遅れましたこと、謝罪いたしますわ。わたくし、はしたない真似を」

「構わないよ」

「えっ……」


そう、構わない。そんなことはどうでもいい。イルフィアは背もたれに倒れ込んだ。苛立ちのまま、最大限の拒絶の意を示す。


()()の名前を今後、口にすることはない。名乗ろうが、そうでなかろうが。自分には関係ない」


この世界に、初対面の人間に頭から水をぶっかける女がいる。そんな常識の通用しない奴が、あろうことか学内にいる。それだけで学びになった。

アレリアはとんでも無いところだ。やはり人付き合いは最低限に留めておくべきだ。

こんな場所にまで、ノコノコ着いてきたのがそもそも間違いだ。学生課には訳を話して、無効にしてもらおう。


「なんの思惑があって声を―いや、水を、かけたのか知らないが、迷惑極まりない。お互い自己紹介は必要ないだろう」

アレリアでは、名乗られたら名乗り返さなければならない。紳士淑女の嗜み、らしい。くだらない。

「もし、今後必要があるのならば、こちらから()()かけるさ。必要があれば、の話だけど」


立ち上がり、扉へと歩き出す。

数歩、彼女が追う気配が、すぐに止んだ。

何か言いたげではあったし、きっと、あの美しい顔は悲痛に歪んだのだろう。それとも怒りに震えてでもいるのだろうか。

どちらにせよ、イルフィアが足を止めることも、振り返ることも、なかった。











先の一件から1週間が経った。この間、イルフィアは心穏やかに過ごしていた。

初めの頃こそ、イルフィアの姿を認めるたびにこそこそと噂されたものだが、やはりそこは、噂好きの10代が集まる学び舎。話題には事欠かないようで。すぐに興味は他へ移ろい、元の―講義に遅刻しようと見向きもされない程度の―生活へ戻った。


今も、食堂でだいぶ遅い朝食を貪っていたところである。

ちなみに本日のメニューは子羊の頬肉のシチュー、トマトとミントのパスタ(ミントは嫌いだ)、リンゴ風味のパンと野苺のプディングだ。


アレリアの食堂は正規生は無料で利用できる。というのも、食費が学費に含まれているためだ。これが大変助かる。メニューにありさえすれば食べ放題である。


当然ながら用務生はこれに含まれない。イルフィアは用務生時代、あまりにひもじく、当初1日1食で凌いでいた。

年若い少女が明らかに足りない食事に肩を落とし帰っていく。その様を哀れに思った食堂の職員たちが、余った料理を分けてくれるようになった。幼い日のイルフィアにとって本当に天の恵みそのものだった。

(今更何を噂されようが、飢えなきゃ勝ちだ)


まあそんなわけで、イルフィアは食事の時間が1日の中で格別好きであった。

何者にも邪魔されたくないとさえ思っていた。


思っていたのに。



「やあ、こんにちは。同席いいだろうか」


イルフィアに友人はいない。話をするのは、教師や職員であり、学生との関わりは全くと言っていいほどない。

名前を知っている人がどれだけいるのかも怪しい。

親しげに声をかけてくる男子学生、なんて存在は絶対にあり得ない……はずなのだ。


彼の存在には気がついていた。食事以上の関心を向けなかっただけだ。

イルフィアの食堂での定位置は、食事が提供されるカウンターから最も近いテーブルだ。必然的に、入り口の扉からは最も奥の席になる。


「―どうぞ。自分はすぐに食べ終わる」


ありがとう、と人当たりの良い笑みを浮かべ男子学生はイルフィアの正面に腰掛けた。

わざわざ、この空いている食堂で他人の隣を目指す人間がいるだろうか。もしいるとすれば、空席ではなく、そこにいる人を目指しているのだ。

この際パンは持ち帰ってしまおう。この場での最優先事項は、速やかに立ち去ることだ。


「では簡潔に自己紹介をしよう。僕の名はキース・へリッジ。よろしく頼むよ」


やられた。同席など許可しなければよかった。

得意げに名乗りだすとは。よろしくすることなど何もないというのに。


「……イルフィア・フランソワーズ」

「そうか。それと僕のことは気軽にキース、と呼んでほしい。イルフィア」


(くそったれ!)

アレリアには敬称についてのしきたりがある。

原則、姓にさん、で呼び合うが、彼はすでにイルフィア、と呼び捨てにした。慣習に倣うなら、イルフィアも彼を呼び捨てにしなければならない。

敬称の有無は、お互いに一致していなければいけないのだ。


アレリアには近隣国の様々な身分の学生が在籍している。貴族、商家、平民……。その全てが、アレリアの大結界を超えたら最後、一切の身分による差別、優遇を禁じられる。呼称制度も、この一環だった。

ため息の出るほど、どこまでもくだらない慣習だと思う。


「そう見られていると食べにくいんだが。キースさん」

「人の話は細部まで聞いておくべきだよ、イルフィア」



何が嬉しいのか、男子学生(キース)はにこにこと笑みを浮かべている。

その先を促すように、笑顔のまま、待っている。未だ手付かずのプディングがあるから、イルフィアは逃げられない。

あまりに悔しくて、わざと大きな舌打ちをしてやった。


「チッ……ああわかったよ、キース。これでいいか」


性格の悪い奴だ。それがイルフィアが、キース・へリッジに抱いた第一印象だった。


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