幸せ兎に花束を
白い花束がぎゅっと集まって、冷たい兎が生まれました。
それは水墨画のような、時が止まったような世界でのことでした。
幼子の両手に包まれた真っ白な雪が、薄く色付くだけだったその手を真っ赤に染めます。
鮮やかな赤い実と緑色の葉っぱが揺れ、自分達が被っていた雪を落としました。
灰色の空から舞い降りる、白くて冷たいふわふわとした花束は、『雪』と呼ばれます。それを丸く押し固めて赤い目と緑色の耳を飾ったものを、『雪兎』と呼びました。
寒い中、一面が真っ白な雪で覆われた庭で、そこだけが鮮やかに色付いて見えます。
冷たくて可愛い兎が、幼い女の子の手によって作られたのでした。
女の子は病気で寝たきりで、家の外へは出られません。
なので、部屋のすぐ隣、縁側で庭の雪を掬い上げて、ガラス戸に掛かる南天の実と葉っぱをもぎ取って、一つ、雪兎を作ったのでした。
雪兎は、女の子の話し相手になりました。
と言っても、縁側の近くの岩にちょこんと乗せられて、ガラス戸越しに女の子のお話を一方的に聞いているだけです。
それでも、雪兎は毎日が楽しいと思いました。
女の子が楽しそうだからです。
透き通った静かな世界では、女の子の小さな声も、ガラス戸越しでも、ちゃんと聞こえます。
暖かそうな向こう側には行けないけれど、雪兎はなんだか、心が温かい気持ちでした。
女の子は時折、少しずつ小さくなっていく雪兎を、新しい雪でまた大きくします。お互いに触れる体温が、お互いを温め、冷やし、一緒にいられる時間を伸ばしてくれます。
雪兎は、それを嬉しく、そして、くすぐったく思いました。
――――でも。
それは、長くは続きませんでした。
それは、冬も終わりという頃でした。
雪兎を残し、突然、女の子の姿が見えなくなったのです。
雪兎は自分が日に日に小さくなっていくのを感じながら、また部屋の障子戸が開く日を、今か今かと待ち構えます。
それでも、いつまで経っても、女の子の姿は見えませんでした。
そんな、ある日。
久しぶりの青空のもと、一つの小さな影が、雪兎の隣に降り立ちました。
眩しい白い雪の上に、艶やかな黒がパッと目を惹きます。
それは、時折この庭で見掛ける、一羽のカラスでした。雪兎とは顔馴染みです。
「よォ。お前もそろそろか?」
カラスは雪兎を見下ろし、話し掛けました。
雪兎はカラスを見上げ、応えます。
「何が?」
「そろそろ溶けきって崩れそう、ってことだ。耳も目も、もう取れそうじゃないか」
「そうなんだよね。だから早く、また直してもらいたいんだ。……あ、そうだ」
雪兎はついでに、女の子のことを訊こうと思いました。
「そんなことより、女の子、知らない? 最近見てないんだ」
「ああ、何でも、病院とやらに行ったらしいぜ」
やっぱり、カラスは何でも知っています。自由に空を飛び回れる翼があるので、その場所を動けない雪兎よりは、うんと沢山のことを知っているのです。
「ああ、女の子が嫌がってたところだね。苦ぁいお薬を出されるから、嫌いなんだって。それでそのお薬、前にこっそりジュースで飲んで、お母さんにバレて凄い怒られてた」
雪兎はその時のことを思い出し、笑いながら言いました。
女の子のことなら、雪兎も負けていません。いろんなことを聞きましたし、見てきました。
なので、ちょっと自慢げに張り合いました。
「それで、いつ帰ってくるの?」
「さァな。まァ、あの子が帰ってくる前には、お前は溶けて消えてしまってるだろうし、気にしても意味は無いんじゃないか?」
「それは困る。せめてその前に、最後に一目だけでもあの子に会いたいんだよ。別れるのなら、『さよなら』くらい言いたいんだ」
そこで、雪兎はピンときました。名案だと思いました。
「そうだ、カラスさん。ボクを病院まで連れていってよ。お願い!」
でも、カラスは渋りました。
「よせよ、オレはそんなに器用じゃない。お前を足で掴んだところで、病院まで羽ばたいてる内に握り潰しちまうのがオチだ。オレなんかより、せいぜい、流れ星にでも頼んでみろよ」
「流れ星?」
初めて聞く言葉です。疑問に思う雪兎に、カラスは説明してくれました。
「夜になると、たまァに空を流れる星だ。人間は、それに願い事をすれば叶うと思ってる」
「じゃあ、それを見ることができれば、」
「もしかしたら、何か良い方法が見つかるかもしれないな」
それだけ言って、カラスは飛び去っていきました。
残された雪兎は、日の光を反射する雪解け水よりも眩い希望を、見つけた気がしました。
その晩。
雪兎は目を凝らして、空を見上げ続けました。
真っ暗な中、雪のように白く、小さく、でも、地上へは降ってくることの無い光が、あちらこちらでちらついています。
「あっ。……今のかな? 消えるのが早いなぁ……」
キラッ、と一瞬夜空を駆けた光に、雪兎はしょんぼりしました。
いくらなんでも、星が流れるのが早過ぎます。これでは、言葉で願っていては、願い終わる前に星は流れ去ってしまいます。
そこで、雪兎は考えました。
「あ、そうだ!」
女の子と過ごした日々を思い出して、その頃のことを強く念じてみようと思ったのです。
これなら、言葉に出さなくても、女の子とまた一緒にいたい想いは一瞬で伝えられます。
また過ごしたいと自然と思える思い出は、何よりの『一言』だからです。
雪兎は、空が明るくなり始めても、ずっと女の子のことを思い出し続けました。
いろんなことがありました。
見て、聞いて、触れられて。
動けなくても、楽しい日々がありました。
そして。
朝に溶けるように小さくなっていく夜の端っこを、見届けます。
その時でした。
小さな光が再び駆け抜けたのを、雪兎はたしかに見たのです。
それは、紛れも無く、待ちに待った流れ星でした。
「……やった。やったよ……」
誰に言うでもなく、自分で確かめるように、言い聞かせるように、呟きます。
雪兎はようやく安心できたので、一旦寝ることにしました。
たくさん思い出した幸せな思い出に浸りながら、雪兎は眠りに就きました。
すると。
雪兎はその日、夢を見ました。
まだ自分が雪兎になる前、雪にすらなる前の、水の一部だった頃の記憶でした。
端っこの見えない広い大海原から、遥かに高い空へと昇った日。そうして辿り着いた雲の中で、小さな小さな氷の花をたくさん咲かせた日。
それから、少しして。
いくつもの冷たい花束が地上へと降り注いで、真っ白に埋め尽くした後のことでした。
しんと静まり返った世界の中で、産声のようにはっきりと、しかしわずかに音を立てるだけで。雪兎は、女の子の手によって、形作られたのでした。
お昼になりました。
今日も、珍しく続いた良いお天気です。
何かが割れる大きな音で、雪兎は目を覚ましました。
視界の端っこにかろうじて見えるのは、鏡のように割れた、薄く氷の張った池です。
どうやら、その傍にある井戸の屋根から、こんもり積もった雪が落ちたようでした。
久しぶりに見えた水面に、落ちた雪が溶けていくのが見えます。ぼろぼろと砕けて、小さくなっていきます。
そこで、雪兎はピンときました。名案だと思いました。
雪兎はさっそく、再び訪れたカラスに、頼んでみることにしました。
「カラスさん、カラスさん。昨日はありがとう! おかげで、良いことを思いついたんだ!」
「へェ、それは良かったな。それで? 良いことって?」
「ボクをあそこまで連れていってほしいんだ。池の中に!」
何をふざけているのか、とカラスは思いましたが、雪兎は本気のようです。キラキラした目に弾んだ声で、今にも動き出しそうな勢いでした。
泣き腫らしたような真っ赤な実の目は、まるで涙を流し過ぎたかのように、萎みかけているはずなのに。ピンと警戒するようにまっすぐ伸びた緑色の葉っぱの耳は、まるで自ら塞ぐように、巻かれ始めたはずなのに。
とても嬉しそうに、雪兎は活き活きとしていました。
「おいおい、いいのか? 水の中に入ったらお前、自分が溶けちまうんだぞ?」
「病院まで運ばれなくても、雲になれば、自分で行けるだろう? だったらボクは、その方が良いんだ! ボクが崩れてただの雪になる前に、ボクがボクでいられる内に!」
「……知らねェからな」
カラスは根負けしました。溜め息を吐きながらも、仕方無いとばかりに、頷きました。
両足でそっと雪兎を掴み、羽ばたき数回、短い距離を渡ります。
そして、少し崩れかけた雪兎を、池の中へと落としました。
ぽちゃん。
白い体躯に、水が滲み込んでいきます。氷を溶かして水に変え、混ざっていきます。
はらはらと、鮮やかだった葉っぱが浮かび、舞い上がります。ぽろぽろと、鮮やかだった実がこぼれ、水の流れに巻かれて引きずり下ろされていきます。
一つになります。
(ありがとう、カラスさん)
声も出せない水の中で、雪兎はお礼を言いました。
カラスはじっと、雪兎だったものを見つめているのでした。
そうして、雪兎は跳びました。一羽でたくさん飛びました。
鳥より高く、星より低く。
たくさん、たくさん、飛びました。
そして、数日が経ち。
雪兎は、立派な雲になりました。
白くてふわふわで丸い、まるで綿を詰め込んだような雲でした。
雲となった雪兎は、風に乗ってあの子を探します。
どこだろう。どこだろう。
あちらこちらを漂って、やっと見つけた町一番の病院を、空高くから覗き込みます。
女の子は、見当たりませんでした。
カーテンの閉められた部屋もあるので、そこにいるのかもしれません。
でも、雲となった雪兎は、ずっとそこにはいられません。カーテンが開くのを、いつまでも待っていることはできません。
風が吹けば、流されてしまうからです。
それでも、雪兎は気にしませんでした。
女の子は毎日障子を開けて、雪兎とお話をしていました。女の子は外が大好きで、よく空を見上げていました。ということは、病院でもカーテンを開けているはずだ、と雪兎は考えたのです。
(別のところに行ったのかな。もしかしたら、もう帰っちゃったのかも。ああ、それじゃあ、行き違いになっちゃった! 早く戻らなきゃ!)
雪兎はなんとか良さそうな風に乗り、出てきた家を目指しました。
その、途中のことでした。
雪兎はようやく、女の子の姿を、煙突の煙に見ました。
前に見た時とはだいぶ形が違いますが、雪兎にはわかります。
雪兎だって、いろんな形になれるのですから、不思議ではありません。
黒い服を着た人達の、すすり泣く声が聞こえます。寄り添う姿が、遠く下の方に見えました。
でも、雪兎はそんなことよりも、再び女の子に出会えたことの方が大事でした。
嬉しくて、すぐに声を掛けました。
(ああ、やっと会えたね! ボク、雪兎だよ。わかる?)
下を見下ろしていた女の子が、雪兎を見上げます。
ひとひら、ふたひら。まるで咲くにはまだ早い桜の花弁のように、薄く小さくなった煤けたその身を翻して、軽やかに舞い上がります。
(わぁ、お家の雪兎さん?)
女の子の小さな声が、聞こえました。
相変わらず弱弱しくって控えめだけれど、雪兎と同じように、嬉しさで弾んだ声でした。
(ずいぶん、大きくなったのね)
(キミは小さかったのに、もっと小さくなっちゃったね)
(でも、これでまた一緒になれるね)
(それに、いっぱい外で遊べるよ)
(嬉しいね)
(嬉しいね)
雲へと昇ってくる女の子を、雪兎は迎えます。
春より暖かい炎の中から、寒い空の上へ上へ。
そうして雲へと辿り着いた女の子は、小さな小さな、氷の花を咲かせました。
いくつも、いくつも。
たくさん、たくさん。
それは、ある日のことでした。
白と灰色の舞台の中で、たくさんの霰が降りました。
まるで、たくさんの流れ星のようです。
白くて眩い冷たい粒が、地面で跳ねて踊りました。
拍手で満たされるように賑やかな中で、何度も、何度も、何時間も。
雪兎と女の子は、一緒に踊り続けました。