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橘から明日妻と店に行くと連絡が来たのは昨日のこと。カレンは橘にあることをお願いして、二人が来るのを店で待っていた。
昼時を少し過ぎた頃、橘夫妻は『喫茶ドロシー』に訪れた。
「ここが噂の魔女の居るお店ね」
店内をキョロキョロと見回す隆子は、先日見たときよりラフな格好をしていた。
「カレンさん、妻を連れてきたよ」
「いらっしゃい。待ってたよ」
「あらあなた知り合いなの?」
席についた橘夫妻に水の入ったグラスを出す。
「この人はカレンさん。この店の魔女さんだ」
「まぁ!」
「いやいや、私は魔女なんかじゃないですって」
ホットコーヒーを2つ注文され、カレンは自分で数種類のブレンドしたコーヒー豆を少し粗めに挽く。そして挽いた粉をコーヒーメーカーに入れていく。
「見たことないコーヒーメーカーだな」
「なんだか西洋のインテリアみたい。やっぱり魔女さんが使うと絵になるわね」
カレンは苦笑いしながら火をつけた。
「サイフォン式コーヒーメーカーって縦型のものをよく見ると思うんですけど、うちは横のタイプで。手入れは面倒ですけど気に入ってて」
片側の容器に入った水が下からアルコールランプで熱され、上部から伸びた管を通って沸騰したお湯がもう片方の容器に入る。そしてコーヒーの粉と合わさりコーヒーが抽出される。全ての水が沸騰すると天秤のように空の容器が持ち上がり火が消える。そして真空作用でコーヒーとなった液体がもう一度管を通って蛇口のついた容器に移る。
「なんだか理科の実験みたいだ」
「見ててわくわくするわね」
橘夫婦が会話をしているところを見ると、本当に仲が良いのだと伝わってくる。
「ところでカレンさんや、言われた通り妻を連れてきたが……」
「ではまず隆子さんに説明しないとね」
「説明?」
カレンも椅子に座り三人で机を囲む。
「まず隆子さん。あなたは最近どこか思い詰めていると、夫である橘さんから相談を受けました」
「そう、なんですか?」
夫を見る隆子の視線を避けるように橘は明後日の方を見ている。
「ため息ばかりついていると。私にはなんとなくわかったんですけど、橘さんは全く検討がつかなかったみたいで」
カレンの言葉に体を小さくする橘を見て隆子は笑った。
「まあ鈍感ですからね」
「は、はっきり言わんでいいだろう」
ごにょごにょと拗ねる橘を見てカレンと隆子はくすくすと笑った。
「ごめんなさいね。でも、別に悩んでいたわけではないの。ただ……」
「ただ?」
恐る恐る橘は妻の顔を覗き込む。
「あと何年あるかわからないこの生活をどう過ごそうかしらと悩んでいたのよ。あなたと私。当たり前すぎてこの関係もなんだか物足りなくなってしまったし」
すると橘は勢い良く立ち上がり、カレンと隆子は思わず目をぱちくりとさせた。
「わ、私には隆子しかいないんだ! 初めて見合いの席で会ったときからお前を嫁にすると決めていた! これまで贅沢はさせてやれなかったかもしれないが、私には十分幸せすぎる家庭だった。隆子のいないこの先の人生なんて考えられない。だから!」
橘は回り込んで隆子の横までやってきて手を握った。
「別れるなんて言わないでくれ! 頼む!」
必死に手を握りしめる橘の行動に隆子は大笑いした。橘は訳がわからないという様子でおろおろとしている。
「何を言い出すかと思ったら。別れませんよ。今さら別れてどうするんですか」
「じゃあまだ一緒にいてくれるんだな?」
コクっと頷く隆子に心底安心した様子で橘は大きく息を吐いた。
「じゃあ何が不満だったんだ?」
「不満とかではなくて、さっきも言ったようにこの先のことの漠然とした不安と、あなたが私をどう思ってるのかと少し思い詰めてたのかもしれないわ」
「そんなこと! 愛してるに決まっているだろう!」
「それもわかった上で、ね」
頭上にクエスチョンマークをいくつも浮かべる橘にカレンが助け船を出す。
「女性は表面上の愛情表現も欲しいものなんですよ」
「表面上? そんな軽い気持ちで接していいものなのかい?」
「はぁ、これだから男は」
カレンのため息に隆子はいたずらっぽく笑う。
「はい、じゃあ橘さん。そろそろあれにしますか」
「あれ?」
カレンは二人を立ち上がらせ、橘にはこっそり話を合わすようにと耳打ちした。店の奥にある扉に手を掛けてカレンはにっこりと笑った。
「では、いってらっしゃい」
扉を開けて中を見た橘夫婦は息を飲んだ。店の大きさからは想像もつかない空間が広がっており、季節外れのクリスマスカラーに装飾されたレストランが現れた。
「これって……」
「いったい、どうなってるんだ?」
恐る恐る歩みを進める橘夫婦の前に、黒いスーツを着こなした端正な顔の男が現れ丁寧にお辞儀をした。
「橘様、お待ちしておりました」
男にエスコートされ、呆気に取られながら橘夫婦は席に着いた。
「はい、結婚50周年おめでとう」
カレンはこの日のために何とか作ることができたケーキをテーブルの真ん中に置いた。
「これは……!」
カレンは口に人差し指を当てて何も言わないように橘に合図する。
隆子はケーキを色んな角度から眺めては何度もうんうんと頷いた。
「懐かしいわねぇ、このブッシュ・ド・ノエル。それに覚えててくれたのね、記念日」
「あ、あぁもちろんだとも」
橘が出掛けたときに話していたケーキはブッシュ・ド・ノエルというフランス語でクリスマスの薪という意味のケーキだ。
できる限りイメージ通りサンタやトナカイ、小さなクリスマスツリーを模したクッキーやイチゴを乗せて、お菓子の家のように仕上げた。
「ふふっ、かわいいわね。あの子もこれ見てすごくはしゃいでたわね」
「そうだったな」
「今度あの子が来た時買おうかしら」
それから二人は時折会話をしながら、ゆっくりと二人だけの時間を楽しんでいた。
部屋の隅で二人を眺めていたカレンの元に先ほどの男が近づいてきた。
「これは高くつくからな」
「わかってるって。手伝ってくれてありがとう」
「たく、俺は散歩に行くぜ」
男が部屋から出ていったあとも、カレンは仲睦まじい夫婦を見つめていた。
「カレンさん、今日は本当にありがとう。おかげで妻と久々にゆっくり話せた気がしたよ。ところであの部屋はどうしたんだい? 記憶の中のお店にそっくりだったよ」
「私もビックリしたわ。でも、本当に懐かしかったわ。あの頃のことを思い出せたわ」
よく見ると橘夫妻は手を繋いでいて、カレンはとても微笑ましく思った。
「これからは妻と旅行へ行ったり、一緒に出掛けたりして、残りの人生を目一杯楽しむよ。隆子との時間を大切にする」
「うん。よかった」
「そうだ、今日のはいくらくらい払えばいいのかね?」
財布を取り出そうとする橘をカレンは手で制した。
「今日のはいいですよ。それにお代はもうもらってますから」
橘夫妻は顔を見合わせて困った顔をしていた。
「また二人でお店に来てください」
カレンは帰っていく二人の並んだ背中を少し羨ましく思った。
店に戻ると、どこに隠れていたのかノワールがトコトコと歩いてきた。
「おつかれ」
「たく、猫使いが荒いんだよお前は」
「これで許してよ」
カレンが魚の身をほぐしたご馳走が入った器を床に置くと、ノワールは飛びついてむさぼっていた。
カレンも席に座ってコーヒーを啜った。
「でもお前もお人好しだよな。あとどんだけ生きるかわかんない老人たちにそこまでするなんてさ」
ノワールはあっという間に器を空にしてふわふわの前足で顔をぬぐっていた。
「あとどれだけ生きられるかわからないから、今を大切にしようって思えるんだよ」
「ふぅん、人間はよくわかんねえな。お前もあの二人からそんなにもらってないだろうよ」
「さすがにお年寄りからそんなにたくさんもらえないよ。ちょっとはもらったけどね」
「その美貌が人間から吸いとることで維持してるかと思うと、魔女ってのは怖いねぇ」
わざとらしく毛を逆立てるノワールを無視してカレンはコーヒーを啜る。
今こうして猫と会話ができるのは、ノワールが魔法使いのいる世界から来た猫であることと、カレン自身が魔女であるからに他ならない。
カレンは人間から若さ、つまり生命力をもらうことで力を保っている。あまりもらいすぎると人間は徐々に衰弱していくから気をつけなくてはならない。
カレンの元いた世界は誰もが魔法を使うことができた。どの世界にも悪人というものは存在するもので、人間の世界に来て人間を食いものにする魔法使いもいた。
カレンはその中の一人だった。
しかし今はこのように喫茶店を構えて平和に暮らしている。
「久し振りに結構力使って疲れたなー。姿を変えるのも何年振りだったかな」
カレンは隆子に今日以前に二回接触している。一度目はカフェで青年として、二度目はスーパーで老婆の姿であって話をした。
「あとは橘さんの頭を覗いたのと部屋を変えたことくらいか」
「おい、俺にあのジジババをエスコートさせただろ」
「あ、そうだった」
ノワールの頭をうりうりと撫でながらカレンは謝る。
「さて、午後から店開けますか!」
カレンは立ち上がって大きく伸びをすると、店を開く音がして慌てて姿勢を正した。
「いらっしゃい!」
店内に快活な声が響いた。
一章終わりです。