婚約破棄してくださってありがとうございます
「ルイゼ、君との婚約を破棄する」
冷たい声で告げたのはこの国の王太子アレン。わずか6歳で一方的に決められた婚約は十年の時を経て、また一方的に破棄を告げられた。
先ほどまでは談笑していた周囲も、異変を察したのかこちらに視線が集まる。卒業パーティーという場に似つかわしくない空気があたりに張り詰めた。
無意識かもしれない。気が付けば、私の手は震えていた。
「…“破棄”ですか…?」
絞り出すようにして出た言葉は、かすれてしまった。
それでもアレン様には聞こえたようで、冷え切った瞳でこちらを一瞥し、横にいた令嬢の腰に腕を回した。
「そうだ、リリィと婚約するからな」
そういってアレン様は腕の中の令嬢を優しい目で見た。その令嬢には見覚えがあった、というより見覚えしかなかった。失礼な言動に淑女にあるまじき行為、元平民とはいえ今は男爵家の令嬢という立場を忘れた行動の数々にたびたび悩まされた。
ある時は婚約者のいる殿方と腕を組み、ある時は婚約者のいる殿方と部屋で二人きりになり、ある時は婚約者のいる殿方に敬称をつけずに名を呼び。
ちなみにこの婚約者のいる殿方とはアレン様なのだが…。
「アレン!」
感極まったとばかりに目を潤ませながらリリィ様がアレン様を見上げた。
その姿をじっと見つめていると、不意に視界がゆがんだ。瞬きをすると後から後から留まることを知らないように涙がほほを伝っていった。
もう、我慢できなかった。いまだに震えている両手を胸の前に重ね、ぎゅっと目を閉じ先ほどの言葉を反芻した。
もう、我慢できなかった。人前で涙を流すのは何年ぶりであろう。少なくともこの十年、いかなる時でも微笑みを絶やさなかった。悲しさも、うれしさも、楽しさも、寂しさも、感情の変化を見られてはならない環境下で、押しとどめられてきた様々な感情。
目を開く。寄り添いあう二人の姿に抑えきれない感情があふれ出てきた。
「アレン様!リリィ様!」
2人の視線がこちらを向いた。いや二人だけではなかった。この会場にいる全員の視線と言っても過言ではない。
もう、我慢することは無い。
「婚約を破棄してくださって、ありがとう存じます!」
静まり返っていた会場の空気が揺れた。こちらを見ている二人もわずかに目を見開いた。
自然とほほが上がった。こんな風に笑うのは久方ぶりだった。心からの笑顔。強要された微笑みではない笑顔。
人はうれしくても涙があふれるというのは本当らしい。笑顔になったとたんにさらに目じりを涙が伝った。
歓喜に打ち震えながらも、手を二回叩き侍女を呼ぶ。すでに控えていた侍女はスッと後ろに控え、紙を差し出した。その紙を受け取りアレン様に差し出す。
「アレン様、こちらを確認してご署名を」
眉を寄せて差し出された紙を見たアレン様は驚いたようにこちらを見た。
「陛下からすでに婚約解消のお許しをいただいております。アレン様がそちらにご署名をくださったら、こちらの書類はすぐに有効になるよう、大臣の承認紋もありますし、陛下のご署名も、私の署名も入っております。あとはアレン様だけです。さぁ」
こちらの勢いに押されたのか、婚約解消の書類を受け取ると、侍女が差し出したペンを受け取りその場で署名した。
もうこれ以上打ち震えることは無いと思った胸が、喜びでさらに踊りだす。
書類をアレン様から受け取り、胸に抱く。
十年間、何度も何度も願った紙が手に入った。
「リリィ様、これから頑張ってくださいませ。アレン様は外国語は一切話せませんので、少なくとも5か国語は習得されないと外交に支障をきたします。あ、もちろん王宮行事には古語も必要ですよ。他には、政治や経営についてもアレン様は一切できませんので工夫されてください。帝王学も序章の序章で躓いておりますわ」
うれしさのあまり言葉が次から次へとあふれ出てくる。
「ルイゼ、様、アレンは成績最優秀者ですよ…?」
そうでしょう、そうでしょう。
アレン様は常日ごろからご自身でそうおっしゃっていましたし、赤点を取り再試を受けたことはありません。そう思われるように私が手をまわしたのです。
「これまでは、私がアレン様に短期集中赤点対策を行っておりましたので赤点を取ることはありませんでした。ちなみに成績優秀者は私です。アレン様と思わせるために名を伏せていましたが、不思議に思う方もいらしたのではないでしょうか。お疑いになるようでしたら、この場で証明しても構いません」
もちろん、成績証明書は控えている侍女が持っている。
「アレン様、私はもうおそばにいることは叶いません。どうかリリィ様に護衛術を学ばさせるのではなく、アレン様自身が最低限の護身術を学ばれてくださいませ。乗馬もです。チェスも嗜み程度には必要になります。私がおそばで耳打ちすることは叶いません」
言葉を重ねるごとに二人の顔色が悪くなる。
それでも私は言葉を続ける。
「アレン様、できないことは悪いことではありません。ですが、できるように努力することは必要です。ましてやアレン様は王太子です。いくら周りの者が支えようとしても、アレン様が努力することから逃げてしまわれては、お力になれません」
そう、私はこの国の王太子を支えるためにこの十年努力した。しかし、肝心の王太子は逃げるばかり。もう、疲れてしまった。王太子妃という人柱にされることに気づいたとき、わずかな望みをかけ、陛下に願い出た。アレン様が婚約破棄を口にされたとき、受け入れる許可を。
陛下の元には本来の成績も生活の様子もすべて報告されている。将来の王に必要な資質があるのか否かを見極めるため。もちろん私についても同様に。3回の話し合いの末、私の願いは聞き入れられた。いくつかの条件は出されたが、アレン様と婚約を解消できるのであれば微々たるものであった。
多分アレン様は気づいていないだろう。ご自身が王太子でなくなったことを。王族ですらない、臣下に降ろされたことを。ろくに目を通さずに婚約解消の書類に署名されていたから。
「ルーク様」
私が呼びかけると周りを取り囲んでいた人混みが、ルーク様を振り返った。
ルーク様がこちらへ向かう。一歩踏み出すごとに道が開いていく。
こちらにいらしたルーク様が私の横に並んだ。その瞳にあるのは、揺れ動く悲しさと侮蔑。
「兄さん、これまで王太子の役目をお疲れ様。これからは僕が王太子としてこの国を導くよ」
これまで第二王子の立場をわきまえた発言しかしなかった弟からの言葉に、アレン様が反応する。
「何を言っている!」
やはり読んでいなかったのか。本当に大丈夫か心配になる。溜息を押し込め口を開く。
「婚約解消の条件に記してありましたよ、アレン様。王太子を廃されることも。ルーク様が王太子になることも、私と新たに婚約されることも―」
そこまで言うとアレン様はその場に膝をついた。目は一点を見つめたまま動かない。何か言葉にならない音をぼそぼそと言っているが、もう話すことは無い。
「では、アレン様、リリィ様失礼させていただきます」
そういって美しく礼をする。この十年、何度も何度も練習した動きで。
振り返るとルーク様が手を差し出した。その手にそっと手を重ねる。
一歩、一歩進んでいく。後ろは気にならなかった。
会場を出たところでルーク様が足を止めた。合わせるように立ち止まる。
ルーク様の目が左右を往復した後、ゆっくりと手を私のほほに添えた。
目じりを撫で、涙の後をなぞる。
「お疲れ様」
奥底にいた涙がこみあげてくる気がした。婚約が解消されてうれしかったのは本当だった。あの涙は確かにうれし涙だった。だけどどこか奥底に、悲しさもあった。十年という月日を過ごしてあっさりと終る関係にも、一度も感謝されなかった努力にも、少しの悲しさは気づかないうちに溜まっていたらしい。
ゆっくりと息を吸い涙を押しとどめる。泣くのは嫌だった。
ルーク様が手を差し出した。
「どうぞ」
手を重ねる。一歩一歩また進みだす。
ルーク様となら大丈夫だろう。十年間、アレン様を支えようと共に努力した姿を知っている。
「頑張りましょうね、ルーク様」
自然と微笑みが出た。
評価やブックマークありがとうございます。
こんなにたくさんの方に読んでいただけるとは思わず、驚いています。
誤字脱字のご報告もありがとうございました。
気づかない点が多く、とても助かりました。