世界を終わらせるその度に、花の香りの髪結いを
口付けを、抱擁を、よりも前の時代、同じ大陸
「つまり、そのアヒルは肉食ってことね!」
いつものように阿呆のような顔をして、君は嬉しそうに笑った。
木で作られたアヒルの小物入れ。
美術室で余った板切れを使って作った四角いアヒルのそれは、小物入れというにはちょっと大きかった。
食パン3斤分くらいの大きさのそれは、ニスを塗られて尚更に安っぽい輝きを放つ。
てらてらとわざとらしく輝くアヒルの小物入れを見た君は、嬉しそうに嬉しそうに目を書いてくれた。
「まあ、そういうことに、なる…のか?」
君が嬉しそうに持つアヒルの顔は直方体と一枚の板でできている。もちろん一枚の板は嘴だ。
そんなアヒルの顔の正面の板に彼女は目を書いた。
目が前にある動物って肉食獣なんだけど。
嬉しそうに可愛い可愛いと言っている君に思わずそう口にしてから、僕は慌てて口元に手をやった。
せっかくご機嫌な君の気分を害してしまったかと思ったのだ。
しかし君は、それはそれは嬉しそうに冒頭の言葉を述べた。
「つまりそのアヒルは肉食ってことね!」
もう一度繰り返した君は、にっこり顔を崩してアヒルを手の中でくるくると回した。
以前ぬいぐるみを上げた時には抱きしめたけど、このアヒルを抱きしめたら間違いなく痛いだろう。
さすがに抱きしめようとするそぶりはなく、僕は安心して喜ぶ君を見ていた。
だから、とっても嬉しそうな君がアヒルを片手で持って僕近づいてくるのも特になにも思わずに見ていた。
「大好き!ありがとね!」
抱きしめてくる君は、すごくすごく痩せ細っていた。
抱きしめてくる君を、抱きしめ返せばその顔が苦痛に歪むと知っていたから、僕は君を抱きしめ返すことができなかった。
あざだらけの身体で僕を抱きしめれば、君は痛いはずなのに。
抱きしめ返すことのできない僕を、君は嬉しそうにぎゅうぎゅうと抱きしめた。
その目尻に涙が浮いていることなんて見なくてもわかったから、僕は抱きしめ返すことはなかった。
僕は渡り鳥と呼ばれる商人組合の次男として生まれた。
遥か昔から、渡り鳥の女人は畏れ多くも空の神の寵愛を受けやすく、次代の後継ももちろん、空の神に愛された僕の姉と決定されていた。長兄は姉を溺愛し、一族の者たちは姉の我儘を当たり前のものとして叶え続けていた。
姉に与えられた寵愛は、この世にある美しいものを見出す瞳と、美しいものを作り出す手。
僕はそんな姉に「美しいもの」として執着されている。
「お姉様、お姉様。あなたの瞳に映るのは、どこの誰だか教えてください。」
「愛しの美、あたくしの弟、この世に生まれた美しいもの。あたくしの見つけた黄昏の美。」
僕の朝は、こうしてお姉様との問答により始まる。
夕焼けの色の髪と夕日の色の瞳を持つ僕は、黄昏の美としてそれはそれは着飾らされた。
抜けるように白く瑞々しい肌は化粧いらず、目尻に薄く朱を乗せるだけ。豪奢な髪はそれ自体が絹糸のよう、三本の玉や鼈甲の簪で結い上げる。華奢な肢体の、特に脚と手が美しいという姉の言葉から、纏わされるは柔らかく風と戯れる特製の衣装。
僕に許されたのは朝の問いかけと、美しい肢体を保つための適度な運動。そしてそのあとは、姉の命令で人目につかないように隠された。
姉への挨拶を終えれば、すぐに衣装は脱ぎ落とし、楽な白シャツと短いズボンに着替える。こうしてしまえば、無駄にひらひらした衣装を引っ掛ける心配はしなくて済む。
姉の見出した黄昏の美。
その希少性を上げるため、僕が一族以外の前に姿を表すのは一族が開いた特別な夜会の最後だけ。
世間での僕は、渡り鳥に守られた秘宝として、無性の雛鳥として、綺麗な御伽噺になっているらしい。
ー知らないって、幸せなことだ
黄昏の美を見出した秀でたお姉様が、遠い分家の女の子を日々虐待していると知ったら?
優しいお兄様が、お姉様を溺愛するのと同じくらいに僕を憎んでお姉様のいないところで粗末な服を着せていると知ったら?
僕が朝晩の問答と夜会の間以外は、犬猫のように為すべきことも与えられず飼い殺されていると知ったら?
僕が、傷つきボロボロになっている分家の女の子の、壊れていく様を愉しんでいると知ったら?
ー知らないとは、本当に幸せなことだ
物心ついたときには、親という存在はすでに物語の中だけに存在する架空の役職となっていた。付け加えれば、家庭円満とか、一家団欒とか、家内安全とか、そんな言葉たちも空虚な夢の話だった。
別に親がいないわけではない。私の親だった人間は私を本家のお嬢様の玩具として売り払った。
私は昔から、虫に好かれるという不思議な体質を持っていた。別に、だからと言って大地の神様の寵愛をお受けしているわけではない。大地の神様に愛されれば、地を駆ける獣にも愛される。しかし私に懐いてくれるのは空を飛ぶ虫たち。大地の神様というより空の神様に近しい。
蝶や蜻蛉に囲まれるのはまだいい。むしろ蝶に囲まれるなんて童話のお姫様のようだ。きっとその光景は美しいだろうけど、私には蝿や飛蝗まで群がってくる。
虫を身体中に這いまわらせ、虫を引き連れた幼い少女。中には毒虫や害虫だっていただろう。
空の神は気まぐれで残虐なことで知られている。そんな空の神の眷属とも言える空を飛ぶ虫たちに好かれた娘を、かつて親であった人間はとりあえず殺そうとした。今から思い返せばかなり不気味な子供だっただろう。
彼らは、決して人間味のない人達ではなかった。むしろ、人間味のあるありふれた人たちだったのだと思う。
だから彼らは、私を受け入れられなかったし、殺すこともできなかった。
私は頑張った。
父を尊敬し、母を愛し、優良な子であるように努力した。
虫たちを追い払い、蝶や蜻蛉など比較的好まれる虫に芸を仕込んで見せたりもした。
幼心に、皆が虫を怖がっているのがわかったから、友であった虫たちを退けた。
悲しくて、寂しくて、それでも私は頑張った。愛されるために、好かれるために、彼らに褒めてもらうために。
いや、そこまでは望まない。
せめて、せめて否定しないで欲しかった。
愛してくれなくてもいい、好いてくれなくてもいい、抱きしめろなんて、褒めろなんて言わないから。
だから、否定しないで、私の存在を、私の生を。
それでも彼らは私を売り飛ばした。
彼らにすがる私を罵倒し、あの古き村から追い出した。
私は、期待するということをやめ、未来を夢みることをやめた。
確かにあの時、私は一度死んだのだ。
「2日ぶり、かな。お腹空いてる?」
僕用にと用意される菓子はいつだって多すぎる。
3時のお茶会で用意されたクッキーを見せれば、君は爛々と目を輝かせた。
目は口ほどに物を言う、まさにその状態に僕は笑ってしまった。
2人っきりでのお茶会は、マナーなんて気にしない。仁義なきお菓子争奪戦で、君は必ず最後の一枚を分捕っていく。
「また私の勝ち!すごかろう!」
僕は知っている。
僕の持ってきたお菓子が、彼女の主食になっていることを。
多分、僕がいなくなれば君は死ぬ。餓死でも、虐待死でも、僕という細い細い助けの糸が切れた瞬間に、きっと君は死ぬ。
可哀想な女の子。親に売られて主人に虐げられて、それでも死ぬことを許されずに飼い殺される哀れな少女。
閉じ込められて虐げられて、なのに君の瞳は、いつだって未来を見据えて明るく輝く。
君が毎日を楽しそうに過ごすから、僕はいつだって、未来を信じることができた。
「ね、お昼寝しよ!空を見て、芝生に触れて!なんて素晴らしいお昼寝日和!ほら、早く!」
僕の腕を引っ張って転ばせた君が、ゆっくりゆっくり横になるのは、昨日の鞭か、一昨日の殴打か。
僕の知らない間に増えた傷は、僕と君の幸せな時間の陰に潜み時折ちらりと存在を匂わせる。
君から香るのは日向の匂い。
太陽の光をいっぱいに浴びて、太陽の元気を分けてもらって、そうして君は生きている。
「ねえ、海って知ってる?」
「う、み?なあに、それ。美味しいもの?綺麗なもの?痛いもの?嬉しいもの?」
「…美味しくて、綺麗で、痛くて、嬉しい、大きな水溜り、かな。」
「なにそれ、変なのー」
きゃらきゃらと笑う君は、好奇心が乏しくて、だから僕は1日1つ、君に何か知識を教える。
その日、海の話をしたのは何故だったろう。
その待遇に違いはあれど、渡り鳥に囚われているのは同じで、外の世界に出ることはないことなんて嫌になる程わかっていたのに。
「広くて、深くて、浅いところもあって、美味しいものがたくさんあって、舐めるとちょっと塩っ辛くて、朝昼晩で違う色になって、それから、白いベランダのお姫様がいるんだって。」
「白い…ラベンダーのお姫様?ラベンダーに白なんてあったっけ」
「ラベンダーじゃなくて、ベランダ。海に張り出した、展望台、みたいなところ。」
「ふうん、それで、そのお姫様はどんな人なの?」
珍しく食いついてきた君に、僕も得意になった。
「その人はね、陽のご尊顔に浮かぶ陽の紋様を読んで予言をなさるんだって。海の色をしたその人はね、海鳥と遊び、陽の紋様を描き、海の民に傅かれて暮らしてるんだって。」
「それ、楽しいのかなあ。」
君はひどく不思議そうに首を傾げた。
お姫様。女の子だったら誰でも憧れるだろうその人に、君はごくごく自然に疑問を抱く。
「傅かれてたらお喋りできないし、空を見上げてたら人の姿が見えないでしょ?未来が分かってしまったら、今日のお菓子がなにか想像することもできいないし、つまりそれは、未来を奪われたのと同じなんじゃないかな。死ぬってことも、全てを知っているってことも、その先なにも新しいものに出会えないのと同じだもん。」
「…そう、だね。確かに。」
「その点私は恵まれてるね!なにも持ってないけど、私には君がいるのだから!」
その笑顔は、僕が今まで見た君の笑顔の中で、1番可愛くて、ぐしゃぐしゃで、悲しそうな笑顔だった。
「海は、綺麗なんだって。朝は黄金に、昼は蒼穹に、夜には白銀に染まる、とても美しいものらしいよ。」
「でも、そのお姫様は空を見てるんでしょ?ずっとずっと。そんなのって馬鹿らしくない?」
ぐっと空に手を伸ばした君の、露わになった腕には引き攣れた火傷の跡、重なる青あざ。
空に伸ばされた手が、力を失った瞬間、僕は思わず手を伸ばしていた。
「わ、…ふふっ。ねえ、もしもさ、もしも2人でここを出れたら、」
僕に支えられて、空へと伸ばされていた手を、君は優しく、強く、握り返した。
「空ばっかり見てるおバカさんをさ、お茶会に誘いたいな。それでそれで、」
地面に散らばった僕の髪を、傷だらけの君の指が掬い取る。
「髪結いをしよう?花を、玉を、鼈甲を、海を飾って、たくさんたくさん、楽しいことをしよう?」
僕と君との逢瀬の終わり、互いに髪を結いあって、小さな小さな約束をした。
僕と君とが初めて交わした、実現の目のない未来の夢は、僕らが交わした最初で最後の約束になった。
誰もが美しいと褒めそやす、彼の夕焼けの色に、私は最初から心を動かさなかった。
彼の色は痛みの色で、苦しみの色で、彼の持つ美しさは私を恐れさせることはあっても感嘆させることはまるでなかった。
「あなた、なあに?」
痛くて、苦しくて、悲しい色の女の子を見つけたと、そう思った私は、空を睨みあげていたその女の子に声をかけました。
切り裂かれた足も、炙られた腕も、どこもかしこも赤に染まって、頭が痛くて、体が熱くて、だから私はその女の子を神様だと思ったのです。
気味が悪いくらいに整った顔も、風にゆらゆら揺蕩う服も、私は神様のように思えたのです。
すとんと表情の抜け落ちた女の子は、鷹揚に私を見て、そしてコテリと首を傾げました。
「君、誰」
なにかもっと、透き通った、明るい声を想像していたのに、その女の子が落としたのは、低くて、ガサガサしていて、掠れた声でした。
もうなににも期待してなかったはずなのに、低い低いその声の誰何は、たやすく私に涙を溢れさせました。
名前を奪われて、尊厳を貶められて、家畜よりもひどい扱いを受けて、発熱した体も凍えた心も、彼女のたった一言で、楽になってしまったのです。
「なまえは、ないの。かみさまは、わたしをむかえにきたの?」
「…僕、神様じゃないんだけど。」
「じゃあ、なあに?」
「…飛べない渡り鳥」
「えっと、どこがいたいの?」
「…痛いのは君じゃないの」
「えと、いたいのはね、ずっとずっとなの。だからね、きみ?の、いたいのもね、わたしがいたくなれば、きみはいたくなくて、わたし、ずっといたい、だから」
初めて会った人で、全然変わらない表情の人で、なのにどうしようもなく悲しくて、辛くて。
「わたしが、きみのぶんのいたい、するから、きみは、わたしのぶんの、たのしい、して?わたし、いたい、なれてるけど、きみは、なかないで」
「…泣いてないよ。痛くない。泣いてるのも、痛いのも、君でしょ」
夕陽の色の瞳が、すごく悲しそうで、彼女にどうしても笑って欲しくて、
「いたいときはね、そらじゃなくて、まわりをみるの。そうすれば、うれしいと、たのしいが、みつかるから」
私は彼女に抱きついたのです。
ひらひらの衣装が痛いに染まって、悲しいが滲んで、辛いが香って。
「そんなの、見つからない」
「みつけたよ」
痛いの色だけど、辛いの色だけど、彼女の髪は、柔らかくて、いい匂いで
「ねえ、かみをゆってもいい?きみのかみは、たのしい、だよ?」
「…うん」
私が彼と出会って、彼が私と出会って、2人で初めて髪を結いっこした。
その時、たしかに、
なにも考えない道具になろうとしていた私は死んで、
なにも考えない道具であった彼は死んだのだ。
「おお、これが黄昏の美ですか」
「なんと美しい…」
「本当に夕陽の色ですのね」
着飾らされて、夜会に連れてこられて、そこでの役目はただ1つ。声を出さずにお姉様の指示通り動くだけ。
煌びやかな衣装と臭いばかりの匂いをまとった人間たちに凝視されながら、剣舞に扇舞、管弦を奏で絵を描く。
いつだってボロボロの彼女と出会って、僕は人間であることを思い出した。
僕よりもひどい扱いを受けて、どん底で楽しいと嬉しいを探す彼女を、僕は彼女より少し上から眺めることで平安を保っていた。
誰もが感嘆し褒めそやす髪を、楽しいから結わせて欲しいと言ってきたのは彼女が初めてで、誰かに触れられて嬉しいと感じたのも、彼女が初めてだった。
蒸せ返るような香水の香りの中で、どんどん霞みがかっていく思考は次第に彼女のことへと彷徨い出す。
表情が抜け落ちて、まるで人形のように手足を投げ出して椅子に座る僕を、僕という存在の器を、人間たちはお姉様の作り出した美しいものの1つとしてお姉様にゴマをすった。
くだらない、くだらない
もしも僕が彼女のように火傷をしたら
もしも僕が彼女のように打撲痕を得たら
もしも僕が彼女のように虫を纏っていたのなら
誰も僕に見向きもしなくなるだろうに
誰1人僕を褒めることがなくなるだろうに
いい歳して人形遊びにかまける大人たちも
美しいものを見出し、美しいものを作り出す力を与えながらお姉様自身を何より醜くした空の神も
彼女を虐げることしかできない渡り鳥の人間たちも
みんなみんな、なぜ僕と彼女を放っておいてくれないんだろう
彼女を痛めつけなくても、僕で遊ばなくても、彼らには何ら困ることはないだろうに。
愛して欲しいなんて言わない
守って欲しいなんて言わない
癒して欲しいとかそばにいて欲しいなんて言わない
ただ、ただ、
放っておいて欲しいだけなのに
「いやはや、かの有名な黄昏の美がこれほどまでに美しいとは。幼い子供の心のない様はおぞけ立つほどに魅力的ですなあ、」
「あら、心のないわけではありませんわよ?黄昏の美、あたくしの弟、あなたはなあに?」
「お姉様の見出した美しいものです。ありがとうございます、お姉様」
機械仕掛けの機構人形のように、蝋人形のような青ざめた顔で花の綻ぶような笑みを浮かべる。
繰り返し、繰り返し、躾けられた体はお姉様以外に笑顔を浮かべることを許さない。
まるでお兄様と僕に全ての美しさを奪われてしまったかのような醜い醜いお姉様。
ぶくぶくと脂肪に埋もれ、がらついた舌ったらずな声を出す、かわいそうなお姉様。
お姉様を見ると思う、この粘ついた暗い想いは、一体何を表すものなのだろう。
美しいものに囲まれた、醜いお姉様を見て、心の奥底で燻る仄暗いこの想いは。
空の神に愛された渡り鳥の一族の、宗家に生まれた若様は、私をひとしきり痛めつけたあと、いつも苦々しげに弟妹を睨みつけてきました。
可もなく不可もない凡人、それが若様に下された評価であり、剥がすことのできないレッテルでした。
世間では妹を溺愛している兄という体で通っていらっしゃるようですが、お嬢様を見るその目は、まぎれもない妬みと嫌悪の色が揺らめいていらっしゃいました。
容姿も能力も平々凡々な若様の不幸は、偏に渡り鳥の一族に生まれてしまったという点に尽きるでしょう。
名家の長男、豪商の長男、にも関わらず若様は家を継ぐことは決してありえないのです。
玉の輿に乗る美貌も新たな商いを起こす才覚もない若様の唯一と言っていい長所が空の神に愛された渡り鳥の娘の兄という立場だったのですから、彼が酷く醜い妹に阿るようになったことは何ら不思議なことではありません。
それでも、私を痛めつける若様の瞳に、私の感じる以上の苦痛の色を見て憐憫の情が浮かぶのです。
彼は私の両親のようにどこまでも人間くさい人間でした。
幼気な少女を理不尽な暴力に晒す。
よく、何をするには弱すぎて、何をするには強すぎたという言い回しを聞きます。
しかし、彼はそれを止めるにも、それを続けるにも、ただただ弱すぎたのです。
私は美しい友を得ましたが、私の友である黄昏の美もまた、彼を追い詰める要因の1つでした。
自分が媚び諂う妹に愛され、自分を軽んじる人々に持て囃される美貌の弟。
才ある醜い妹に向ける弟の瞳の中に、憎悪と嫌悪の色を見つけて喜んだその微笑みは、己を見る弟の瞳に、何の感情もないことに気づいた瞬間、消え去りました。
嫌われるでも好かれるでもない、無関心は、鬼にも仏にもなれなかった彼にとって何よりの刃となり心を傷つけたのです。
「私は、私は一体なぜ、なぜ生まれた…?」
「なにを、だれを、どうして憎めばいい?」
「私より醜い妹を?私より不遇な弟を?それとも皆に貶められ傷つけられるお前をか?」
「私は誰だ、私はなにだ、私は、私は、私は」
「私はどうすれば良い…?」
「空の神は、なぜ私を愛してはくれなかった?憎んではくれなかった?せめて、私を、」
「私を、見てくれ…」
遂には虐げられる私を羨むまでに壊れかけた彼が、どうしようにも憐れで、どうしようもなく愛おしくて。
それでも私は、私に痛い、辛い、悲しい、苦しいを与える彼が苦しむことを喜びました。
心を引き裂くような心情の吐露を、私だけが聞きながら、苦しいの匂いの中でそれを着こぬふりをしたのです。
そうすることで、彼の苦しみが増すことを理解しながら。
己の平凡さと他の非凡さに苦しむ兄と
己の凄まじい醜さを疎い、弟の美しさに焦がれる妹と
己の美貌を嘲り嫌い、姉を嫌悪する弟と
決してだれも自らに非があるわけではないのに、どこまでも憎悪を募らせていく兄妹を、私は紅の中で見ていました。
若様に至ってはその苦しみに拍車をかける一端を担っていたとも言えるでしょう。
だからこそ、私は気づいて然るべきだったのです。
そんな憎悪の輪廻の中から、ただ1人、助かろうとした友を、彼も彼女も許すはずがなかったのだと。
「ああ、美しい子。あたくしが見出した黄昏の美。お喜びなさい。遂に、次の満月の晩、あたくしとお前は1つになるの。美しいものを見出し、美しいものを創り出すあたくしが、だれよりも美しいお前になるのよ。」
醜い姉が、そう言った時、僕は穏やかにそれを迎え入れました。
諦観、なのでしょうか。
来るべきものが来た、ようやく終わるのだと、漸く本当の意味で僕は僕を終わらせることができるのだと、ほっとしたのです。
ほっと、した、はずなのです。
「…なあに、その顔。返事をなさい。黄昏の美。」
いつもなら、いつもなら平気で出てくるはずの了承の言葉が、喉に引っかかるばかりで音になることはなく、冷え切っていたはずの心が終わりたくないと悲鳴をあげるのが確かに聞こえたのです。
生まれてすぐに見出されて、着飾らされて、心を殺すことを覚えさせられて、ひたすらに姉に従えと躾けられて、人形になろうと努力してきた。
せめて嫌われないようにと、痛めつけられないようにと思えども、その根底にあった僕の根本は、確かに姉への絶対服従のはずだったのに。
海で、髪結いをしよう?
なんで、なんであの子とあの約束が聞こえる?
なんで、なんで凍りついたはずの心が泣いている?
なんで、なんで、なんで、なんで、
なんで僕の絶対であったはずのお姉様の言葉が聞けない?
「返事をなさい、返事を!」
僕は、僕はなぜ今まで頑張ってきた?
僕を見て僕に話しかけてくれたのは、お姉様だけだった。
僕を愛し、僕の命を保障してくれたのも、
お姉様、だけだったから。
おねえさま、おねえさま、
わらってください、よろこんでください
あなたがすきです、おねえさま
あなたのためにぼくはいるのです
おねえさま、おねえさま
ぼくの憎悪、ぼくの嫌悪
「…ぁ」
愛おしい
大切な人
何よりも大事な
ぼくを見出した人
あなたに、幸あれ
「黄昏…?黄昏や、何かあったの?お姉様に言ってごらんなさいな。ね、黄昏、あたくしの見出した黄昏の美…?」
相反するわけではない
愛おしくて憎くて、大切だけど呪わしい。
幼い頃からの刷り込みと、それを超えるほどの憎悪
ぼくの美を愛しながらも妬むお姉様
美しいものに囲まれた、何より醜いお姉様
ああ、なんて可哀想…
なんて惨めなお姉様!
黄昏の美、お姉様が見出した最高の美に嫌われることを恐れて、
なんて可愛らしい、醜悪なヒト。
「黄昏、黄昏や、何か嫌なことでもありましたの?お姉様に言ってごらんなさい、お姉様が何でも叶えて差し上げますわ。」
ぼくの太ももより太い腕、ぼくの指よりひと回りもふた回りも太い指。
ブクブクと肥え太った、醜く浅ましいお姉様。
「ふふ、イトオシイお姉様。次の満月の晩、一体何をなさるおつもりですか?」
「え、ええ、愛おしい子。海を知っているかしら。大きな大きな美しい鏡。海の神様が住まう、神々の愛する陽を孕む大いなる水。満月の晩、供物を捧げて私がお前の体を得るのよ。」
「…お姉様は、ぼくに死ねと。」
「違うわ!違うわ、あたくしの最高の美。あたくし達は1つになるの。美しい物の発見者であり創造者であるあたくしが、体現者にもなるのよ。あたくしとお前は、漸く正しい形を得るのよ。お前の器にあたくしの意思。何よりも何よりも何よりも、あたくしは、美しくなる…」
お馬鹿なのだろうか、愚かなのだろうか。
体を寄越せと言われて、逃げようとしない者など居なかろう。
体を奪われて死なぬ者など居なかろう。
満月の晩まではあと5日。
海に行くまで、あと5日。
「お、お前もお姉様に体を捧げることが嬉しいでしょう?喜ばしいでしょう?幸いでしょう?ね、ね?あたくしの最愛、あたくしの見出した美しい子?」
「…ええ。」
嬉しいと歌い上げる心と、死ねと慟哭する心
嘲笑と憐憫が、心にどろりと蠢き嗤う
ああ、ぼくが死ぬ時、ぼくが死ぬ晩、
ぼくは約束の海に見える。
そして僕の死は、友であるあの少女の死でもあるのだ。
ぼくが終わるそのときは、あの子の終わるその時でもある。
なんて甘美な、なんて醜悪な、悲しいほどに美しい。
「…楽しみです。」
最後には、海をこの目に。
なぜか、花の香りと共に、君に髪に触れられた気がした。
「あはっ、あはははっ、あはははははは!!!」
かつてないほどに怖く気持ち悪い。
壊れたように笑いつつ、蹴り飛ばしてくる若様の足元で、頭の腹を庇うために小さく小さく丸くなる。
「ざまあみろ、ザマアミロ、ざまあ見ろ、」
いつになく、悲しそうで苦しそう。
綺麗に結われた髪を振り乱して、真っ青な顔で泣きそうに顔を歪めて哄笑するのははたして楽しくも嬉しくもなさそうですが。
「なあ、なあ虫女?嬉しいか?嬉しいだろう?朗報だぞ、お前に取っても私に取っても!」
唐突に髪をつかんで引きずり上げられた反動で、思い切り若様の方へ倒れかかってしまう。
すわ腹に一撃を喰らうかと思った瞬間、
暖かな腕に包まれた。
「なあ、5日後、5日後私はいなくなる。お前を苦しめる私は、漸く、漸く意味を得た。嬉しいで、楽しいで、喜ばしい。ああ、なあ、嬉しいだろう?もうお前は、私に痛めつけられずに済む…」
ああ、悍ましい。
あの美しい友の体温は、とても安心するのに。
この温もりは、この熱は、私を痛めつける痛いで苦しいで悲しいで辛いなのだ。
鳥肌が立つ、反吐がでる、怖気立つ、気持ち悪い
「5日後、5日後だ、お前、海を知っているか?」
「…う…み?」
海、約束の場所。
初めての、未来の夢。
美味しくて、苦しくて、塩辛くて、痛くて、美しい大きな水溜り。
「連れて行ってやる、お前も、私がいなくなるその時を、お前はただ突っ立ってみているがいい。」
若様の口の端が、ぐにゃりと歪む。
「何もせず、何もできず、黄昏の美が終わるところを、ただ見ているといい。」
抱かれているのは、触れているのは若様のはずなのに、花の香りとともに、あのたのしいである友の髪に触れたような気がした。
潮風が頬を嬲り、裸足の足から伝わる岩の冷気が身体中を凍えさせる。
初めて見る海は、おどろおどろしい美しさを持って、悠然と目の前に横たわっていた。
あの日、お姉様に呼び出された日。
身体中を磨き上げられ、隔離された僕は禊と称して塩と水、それから不思議な薬草のみを与えられ続けていた。
無味無臭の薬草は、着実に僕を器から引き剥がしていることが、説明されるまでもなく理解できた。
最初は手足のしびれ、次に握力や筋力の低下、今はもう、寝返り1つ打てない。
まさに、お姉様のための美しい器となった僕は最後の祈りを、と白ベランダに1人取り残されていた。
月光を孕んで白銀に輝く海は静かに小々波立ち、この世に一人きりになったかのような無音は、生への執着が希薄になった僕を更に死へと近づけさせるように思えた。
暗闇の大地も月光の海も、どこまでも遠く届かないくせに、冷え冷えとした空だけは姿なくその存在を伝えてきた。
海で髪結いを。
その約束は果たされなかった。
当代に白ベランダのお姫様はいなかったし、肝心の友は連れてこれるはずもない。
僕の終わりは彼女の終わり。
あの能天気な笑顔は、そろそろ終わりを迎えただろうか。
僕が彼女に会わなくなって5日。
僕が彼女にお菓子を差し入れなくなって5日。
海で髪結いを。
その約束は果たされなかったけれど、僕の終わったその後に、もしも楽園があるのなら、その花園でまた、髪結いをしたい。
ああ、寒くてたまらない。
僕は1人で、彼女はそばにいない。
僕はこれから一人きりで終わるのだ。
お姉様に器を受け渡して、そしてひっそりと終わるのだ。
はたして黄昏の美の終わりに気づく人はいるだろうか
寂しい、悲しい、辛い、痛い、寒い…
「黄昏の美、時間です。」
壊れ物のように、大切な宝物のように扱われても、そこに人を慮る情はない。
運ばれた先には祭壇、いつになく醜いお姉様。
「ふふ、綺麗だわ、美しいわ、あたくしの新しい器、あたくしの美。あたくしの見出した美しいもの。ねえ、嬉しいでしょう?あたくしの弟。あたくしの可愛い可愛い従順な子。」
危うい光の揺れるその瞳に。
どろどろとした思いが、鎌首を擡げた。
「気持ち悪いんだよ、豚が。」
吐き棄てると同時に、腸を食い破り、積み重なった憎悪と嫌悪が産声をあげる。
「何があたくしの美だ。あんたに見出されなくても僕は生まれていたし、僕の美貌は変わらないんだよ。今から終わらせられるってのに喜ぶ馬鹿がいるとでも?いくら洗脳されたって、さすがに命の危機には刃向かうでしょ。ベタベタベタベタ触りやがって、鬱陶しい。あんた、醜いのを自覚してるくせに僕にひっついてたけどさ、相対的に僕の美しさが誇張されて、あんたの醜さが見るに堪えないものになってたの気づかなかった?ほんっとに、きもい。」
ぽかんと口を開けた渡り鳥たちに、嘲笑が浮かぶ。
慌てたように僕の口を抑えようとする者たちは、同時に僕に傷をつけないようにとためってロクな働きをしていない。
「この体は僕の体だ。この命僕の命だ。お姉様の物じゃない。お姉様が自由にしていいものじゃない。人殺し、外道
極悪人。見た目だけでなく中身も醜いって、救いようがなさすぎる。」
「そこまでだよ、黄昏」
茫然自失のお姉様の背後、月光に浮かぶのは、
「…っ」
「死ね、壊れろ黄昏。僕の死をもってお前は器から引き剥がされ、」
お兄様が短剣を突きつけているのは、ボロボロの、友。
「友の無駄死によって、お前の精神は終わりを迎える。」
振りかざされた白銀の刃が、傷ついた少女の胸に、深々と突き刺さった。
「私はお前が嫌いだよ。あの黄昏のお気に入り、あの黄昏を救った罪人。」
満月の輝きの下、若様は狂気をのぞかせる。
「お前を殺してやろう。私があれを器から引き剥がす。だが、あれを終わらせるのはお前だ。お前が救いかけたあれを、お前自身が終わらせるんだ。」
よくぞここまでと感嘆するほどに身体中を隙間なく埋め尽くした傷のせいで、幸か不幸か寒さは全くと言っていいほど感じなかった。
ボロ雑巾のような私を引きずって現れた若様に、渡り鳥の宗家の人たちは瞠目したが、その注意はすぐに、連れてこられた黄昏の美へと向けられた。
月光の下で、危ういまでの色香を放つ痩身の少年は、今までになく着飾らされ、目尻と唇に刷かれた朱は凄艶で、毒々しい。
と、ふっくらした朱唇がとろりとした毒を吐いた。
表情のない美貌の人形の淡々とした毒の中に、死への忌避と人への憎悪を見つけて、
ひどく安堵した。
「友の無駄死によって」
彼のお菓子が、友情が、私を生かし、世界を諦めた私を終わらせた。
彼の贈り物が、私を救った。
だから、
「お前の精神は」
君の憎んだ世界を
「終わりを迎える」
終わらせてあげる。
振りかざされた刃を、争うことなく胸に受け、虫の助力を得て走り出す。
目まぐるしい場面の転換に目を白黒させる人々に、毒虫たちが昏倒する程度の毒を盛る。
大量の羽を持つ虫たちに背を押され、紅を撒き散らしながら岸壁へと駆ける。
すれ違いざま、呆然とする友の髪に、祈りを込めた花を挿して。
私のできる、彼への唯一の贈り物を。
「…ぁ」
「海の神!」
一年に、祭壇は一度だけ開かれる。
一年に一度の願いと生贄、
君の望まぬ終わりと哀れな青年の死なんて、私は嫌だ
そんなの、楽しくもないし嬉しくもない。
「私の命と、幾万の虫を貴方に捧げる!どうか!我が友に」
「まって、」
友がゆっくりと振り向く。
ごめんね私のだいすき、たいせつ、うれしい、たのしい。
「幾万の終わりと始まりを!」
「ま、待て、待て!!!」
ごめんね、若様。可哀想でどこまでも救われない若様、
「若様に、認められるきっかけを!」
ああ、私の命が終わる。
私の願いに応えて、その身と命を投げ出した虫たちが、私と友に白銀に散る。
「「待て!!!!」」
ごめんね、ごめんね。
貴方達が望まない終わりを、私が終わらせるから。
だから、どうか、貴方達に幸を。
月光花が、世界を憎んだ2人の青年に、花の香りを届けますように。
そして、とある満月の晩。
渡り鳥の一族の分家に生まれ、虫を操り虐げられた少女は
彼女を助けた少年と
彼女を苛んだ青年の幸を願って
数多の虫と共に白銀の海へと消えた
残されたのは、呆然と立ち尽くす青年と少年
そして、2人の髪に少女が挿した2輪の月光花
「お兄様、では。」
とかしたガラスに封じ込めた、一輪の押し花を首から下げた少年は、凍りついた無表情のままに、青年に背を向けた。
潮風に靡くのは、夕焼け色の艶やかな髪。
月光を湛えるのは、夕陽色の透き通った瞳。
この世のものとは思えない美貌の少年は、踊るように大地を駆けて。
「私の命を生贄に、我が友をお返しください、海の神よ。」
少年は、白銀の海へと続く谷に、迷うことなく飛び込んだ。
「1824回」
そして青年は、いつものように淡々と数字を口にする。
様々な悪行を暴かれ、罪に問われたかつての豪商渡り鳥は、今まで凡庸と言われていた長男の得意な薬学の才により、新たに薬問屋として繁栄し始めていた。
白銀の海に、虫と少女が消えてから約5年。
あの祭壇の日の次の晩から、少年は不死となった。
あの祭壇の日の次の晩から、青年の才は見出された。
「また、またダメでした、お兄様。」
数瞬。
変わらぬ様で姿を現した少年こ目に、諦めや苛立ちはない。
凪いだ瞳が交じり合い、少年と青年は黙って次の晩を待つ。
そうして、2人はあの晩からずっと。
少年は白銀の海へと飛び込み、青年はその数を数え続けていた。
「…まだ、ですか」
天を見上げる青年の瞳に映るのは、青ざめた月。
「おはようございます、お兄様。」
「おはよう、黄昏」
今晩も今晩とて、言葉少なに兄弟は目を開ける。
目覚めた2人は天を仰ぐ。
中天に輝くは、満ちた月。
「お兄様、では。」
あの日から、髪は解き流したまま。
誰にも髪に触れさせず、伸びた夕焼けは走らないと地に引きずる。
体がいつになく軽く、心がかつてないほどに穏やかで。
足が柔らかく地面を蹴り、大地の引き裂かれた場所へと、少年は駆けていく。
「私の命を生贄に」
海で、髪を結いあおうと約束をした。
数多の命など、欲してなどいなかった。
「我が友を」
幾万の終わりと始まりを共にする友がいなければ、僕は全く楽しくないし嬉しくなんだから。
「お返しください」
白銀までは
あと、3歩。
「うん、だから帰ってきたよ。」
「海のか…み?」
2歩
視界が白銀に染め上がる。
白銀の上で微笑むのは、
深緑の髪と金の瞳を持つ少女。
「182…5……あ、あぁ」
1歩、
「お待たせ、我が友、それと若様。」
0歩。
あの夜には、あれほど遠く思えた白銀も、地面も。
柔らかく、黄昏を受け止めた。
白銀に輝く、柔らかな地面。
そこに蠢くのは、
1000を超える蜘蛛の大群。
「…なん、で、」
「1825匹。あの時、私と一緒に白銀の海へと身投げた子達の数だよ。1824回、君は死んだ。最後の1度、だけど私を得ずに死ぬのは、君の望んだ終わりではなかった。だから、海の神様が私を返してくれた。」
近づいて、近づいて、
触れるのは、彼女の長い、艶やかな深緑。
「大地の神様が、愛してくれたの。君を終わらせないために、白銀の大地を作る力をくれた。その代わり、私がここに住まうことが条件だけど。ねえ、虫まみれの私だけど、君は嫌わない?」
「…嫌わ、ない、よ、君は、君は僕の、」
ああ、ぼくのたいせつ、いとしい、だいすき、だいじ、うれしい、かわいい、うつくしい、たのしい、
「僕の幸なんだから」
ずっと持ち続けていた、ガラスに封じ込められた月光花を、少女の髪を柔らかく編んで、挿す。
匂い立つのは、甘い、甘い、月光花
「約束を、覚えてる?白ベランダのお姫様は、いなかったけど、玉でも鼈甲でもなく、花だけど、」
花に触れた少女が、ふわりと笑う。
「ありがと、だいすき!」
5年と5日ぶりに、少年と少女は笑いあった
話し合って、ふざけあって、そうして、
むせ返るような花の香りの中、
森の緑と陽の紅を、優しく優しく結いあった。
「おばあちゃまおばあちゃま!転んじゃったぁぁ、いっ 、いたいぃ、」
昔々、遠い昔のそのまた昔。あるところに、住処を追われ迫害された者達が住まう谷がありました。
柔らかい白銀の蜘蛛の糸で編まれた架空の大地は、多くの人の命を救い、大地に寄り添い生きる人々の礎となりました。
谷の民と呼ばれた彼らの始まりは、体を壊された少女と、心を壊された少年と、体も心も壊れることを許されなかった青年の3人だと言われています。
器用な少女と、美貌の少年と、薬師の青年の3人は、傷ついた人々の優しく迎え入れ、恐れる者にはまず、花を飾って髪を結って、こう言ったと言います。
「大地の傷を編んで塞いで、白銀の大地を作ったように、あなたの傷も編んで塞いで、そうしてみんなで笑いましょう。」
祖母の心地よい声音に、転けて顔をぐしゃぐしゃにしていた少女は顔を上げました。
祖母が編んでくれた三つ編みが、さらりと前に落ちてきて、少女はパッと顔を輝かせます。
「似合う?似合う?おばあちゃま!」
「ええ、似合うわ。あなたは本当にひいお婆様にそっくり。」
「ひいお婆様…あ!髪結いの少女だったっていうひいお婆様ね?」
「そうですよ。命をかけて呼び戻してくれたひいお祖父様を愛した、器用で不器用な人。さ、髪結いをしてもらったら、どうするんだっけ?」
月光花を挿した少女が、祖母ににっこりと笑いかける。
「ありがと、だいすき!」
白銀の架空の大地の上で、髪を結って2人は笑う。
その2人を、優しい花の香りがゆったりと取り巻いていた。