第7話 水没タワー
この件が終われば、かならず署で話をすること——それを条件に、警察はライカの案を飲んだ。
ライカの話を全て信じたわけではないようだったが、早く患者たちを救出しなければという使命感は同じだったらしい。
というわけで、僕らは赤いモーターボートに身を寄せ合って詰め込まれていた。
操縦は藤堂刑事が行い、ボートは白波を立てて進む。
巨大な鉄骨に囲まれた電波塔にたどり着くまでに、一時間ほどかかった。
電波塔の近くまでくると、もっと古い時代の電波塔が右方向にぼんやりと霞んで見えた。
古い方の電波塔の先は、朽ちてぽっきり折れていた。
怪獣が折った跡だという都市伝説がまことしやかに囁かれているのを聞いたことがある。
とにかく新しいほうの電波塔——それでも廃墟になっているが——に船をつけ、巨大な鉄骨の上に飛びのって次の手を考えるまでに、結構な時間が費やされた。
ぐるっと一周まわり、僕らはなんとか、水没しかけの展望室に入り込んだ。
足もとが見えないのが不安だったが、膝までしか水がなくて助かった。
壁には塔の形をしたマスコットが描かれ、汚れながらもにっこりと微笑みかけている。
僕らは水をはね飛ばしながら階段へと向かった。
「昔はこのロビーから、街中を見渡せたもんだった」
百合川警部が懐かしむように言った。
警部が子供のころはまだ水没地域も少なく、この展望台も機能していたらしい。
「確か、塔の中心に非常階段があったはずだ。
彼らが立てこもるなら水のない第二展望室だろう。
階段で上がるのはことだが、仕方ない」
それから、僕たちは延々と階段を上り続けた。
階段には障害物こそなかったものの、どこかぬるぬるとしていて、僕は何度となくつまずきかけた。
「君たちは若いな」
今、どこまで登っているのかわからない状況で百合川警部が呻いた。
藤堂刑事も辛そうな顔をしている。
「こっちは足がいうことをきかない」
「僕は鍛えてるから」
そう言って、僕は一人さっさと登っていくライカの後を追った。
足だけロボットにする手術でも受けるべきかな、と百合川警部が後ろで愚痴っていた。
やがて、階段を上りきった僕らを迎えたのは、堅牢な非常扉だった。
押しても開きそうにないそれを、ライカは躊躇なく蹴破った。
腹に響く音がして、扉がぐにゃりと曲がった。
アンドロイドの力はこんな場所でも発揮される。
第二展望室が僕らの眼前に現れた。
展望台というからには窓ガラスが入っていたはずだが、今では鉄骨の隙間からびゅうびゅうと海風が吹きすさんでいる。
ライカがゆっくりと前を歩く。黒髪が風に揺れている。
僕はその後ろ姿を追って、回廊を回って行った。
と、靴音が聞こえ、僕たちは足を止める。
出てきた場所と同じような扉から、警部たちが疲れた様子で姿を見せた。
「一周したけれど誰もいなかったわ」
ライカがそう言うと、彼らは崩れ落ちるように膝をついた。
僕は安心半分、残念な気持ち半分でため息をつき、外を眺めた。そして、固まった。
乗ってきたボートが、白波を立てて遠ざかっているのが見えたからだ。
高い展望台の上からでも、五、六人くらいの人々が乗っているのが辛うじてわかった。
そのなかの一人は、長いピンク色の髪をなびかせていた。
刑事たちも遅まきながらボートが盗られたことに気付いたようで、錆びた手すりから身を乗り出さんばかりにして罵倒している。
「奴ら、第一展望室の空き部屋に潜んでいたんだ」
警部が悔しそうに言う。
「私たちは既に彼らの術中に陥っていたんだ。あの瓦礫の中に皆いたに違いない」
そうは言っても、遠ざかるボートには既に届かなかった。
僕は警部がイリスに向かって怒りぎみに、ボートについたGPSを追えと言っているのをききながら、コンクリートの壁にもたれかかった。
結局、僕らはなんの手がかりも得られず、警部たちが呼んだボートに乗り、そのまま警察署までいくことになった。
僕は警部にひどく怒られただけですんだ。
こういった事件の場合、子供でも警察に協力する義務がある。
説明しづらいという理由で逃げるのは身勝手である云々。
僕は頭を垂れて聞いていたが、その頭の中は警察署の奥に連れていかれたライカのことと、逃げ出した七星のことだけでいっぱいで、訓戒など入る余地もなかった。
夕方パトカーで家に到着すると、今日は休みだった父さんまでもが玄関に飛び出してきた。
眉間に深い皺をよせて僕を叱る。
「海人。もう白崎家とは関わるんじゃない」
「ああ、海人君のお父さん、栄枝雅人さんですねえ」
僕の返事を待たず、百合川警部が言った。
「栄枝さんは、確か白崎さんと同じ、システムエーアイワークスにお勤めだったとか」
「あいつはもう五年以上前に辞めています。
たとえ隣同士とはいえ、もう無関係だ」
怒ったように父さんは言う。
「それは私も存じあげております。
しかし、あのイリスの初期バージョンを発表したときには同じ部署だったんでしょう?」
「……そうだが。しかし私も部署変更になった。今はイリスにも携わっていない」
現在世界の二十億人が使用しているマルチ端末カード、イリスの制作には僕の父さんも開発に関わっている。
しかしなぜか僕は持たせてもらえなかった。
子供には不要なものだと言われ、制限付きとはいえイリスを持っている仲間たちをうらやましそうに指をくわえてみているしかなかった記憶がある。
だからこそ、高校入学祝いに買ってもらったときには一日中遊び尽くした。
ふむ、と百合川警部は顎をなで、白髪まじりの頭を傾けた。
「今回の事件は、イリスのシステムをハックできるレベルの者が関わっています。
それが白崎さんかどうかは、未だ調査中ですが」
「それは骨ですな」
無表情な顔で父さんが頷いた鼻先に、百合川警部が胸ポケットから取り出した写真を突きつけた。
僕にもその顔が見えたが、どこかしら陰鬱な雰囲気で眼鏡をかけた男だった。
「この方に見覚えは?」
「……弊社にいた秋月ですな。確か、病気で療養中です」
「やはりそうですか」
ポケットにその写真を直しながら警部は満足そうに言った。
「白崎七星さんのいた例の病院に、彼も入院していました。
そして、現在脱走中の患者の一人です。
彼ならば他人のイリスをハックできるでしょうな」
「しようと思えば、それも可能でしょう。
しかし、なぜそんなことをする必要が?」
父さんがけんか腰で尋ねても、百合川警部は笑みを顔に貼り付けたままだった。
「逃げ切るためですよ。
実際、イリスシステムが組み込まれているボートのGPSも追跡不能になりました。
なぜ逃げるのかはわかりませんが、とにかく私は誘拐のからんだ集団脱走事件として追わなければいけませんのでな。ところで栄枝雅人さん」
警部は人のよい笑みを崩さずに言った。
「できれば、白崎さんや秋月さんについて、元同僚の立場からいろいろな証言を取りたいのですが。
署にご同行願えませんか?」
「そんな……」
口を出したのは母さんの方だった。
真っ青になっている母さんのそばで、父さんは落ち着いた態度でうなずく。
「私でよろしければ、息子の分まで喜んで協力致しましょう」
それでは、と百合川警部は母さんに会釈してくるりと背を向けた。
僕はその背中に向かって叫んだ。
「ライカの話は? 信じたんじゃなかったの?」
「あのアンドロイドは壊れているか、嘘をつくようにプログラムされている」
君は精神生命体とかいう迷信を信じたのかね、と去りざまに言われ、僕は言い返すこともできずに立ち尽くした。
この現代において、精神生命体などというものがあるとは証明されていない。
けれど、全ての事象において、ないということを証明するのも至難の業だとは思う。
それを警部に言ったところで、父さんが連れて行かれることには変わりはないのだろう。
父さんが警部に続いてパトカーに乗ると、静かに車が出された。
母さんは心配そうに車が走り去った方向を眺めていた。