その1
季節は三月。
本日、俺は仕事を辞めた。
電車とバスで片道一時間半の場所にある冴えない工場で、重たい物を運んだり、大きな物を作ったり、薬剤や染料の悪臭・異臭の中で作業をしていた。
作っていたものはそこらのスーパーやゲームセンター、おもちゃ売り場にあるゲームなんかの基盤。家庭用の家電なんかとは違って一つ一つが大きいから大変だ。
朝は六時に目覚めて、夜は終電で帰って来るのがほとんど。
休みなんて言葉を知らないのではないかと疑いたくなるぐらい休日出勤が当たり前の劣悪な環境だった。
給料は良くても使う時間も場所もない。
貯金は貯まれどなにも幸福なことはなく、曜日感覚と友達は失い、当然彼女なんていない。
それでも生きている以上腹が減るが、そんな生活のため料理などできるはずもなく、毎日がコンビニか外食だ。
「退職届を出した日まで、残業させるなんてブラック企業だよなぁ」
勉強も運動もできない学生時代を過ごしたのに、過酷な職場環境にいたせいで体力や筋力はついてしまった。
「でも、今日でこんな生活ともおさらばだ」
明日からのことなどなにも考えていない。
次の就職先も見つけていない。
ハローワークのやっている時間に自由があったのは、就職した十八歳の年が最後だろうか。
平日休みは皆無、有給は取れない、定時で帰っても地元に帰るのは午後七時過ぎ。
そんな真っ黒な職場から、自宅に寄ることなく真っ直ぐに向かったのは自宅近くの定食屋。
「いらっしゃいませ」
エプロン姿の若くて美人な女性が店主を務める午後八時までしか営業していないが、夜でも定食が食べられる定食屋『小冬』。
たまに早く帰って来れるとここに来る。
ファミレスやコンビニなんかよりも、実に家庭料理らしい味に出会える。
「お好きな席へどうぞお座りください」
そう言われて俺は迷うことなく空席の目立つカウンターへと腰を下ろす。
席数はカウンターに六つ、四人掛けのテーブルが二組の小さな店。
俺の他に客はカウンターでビールを飲んでいる作業着のおじさんと、テーブル席に二組。
一組はスーツの二人連れで、もう一組は鎧を着てマントを羽織った赤髪の青年。
十中八九異世界人だろう。でなければ、感化されたコスプレ好きの人。
「今どき珍しくないからな」
そんな異質な客には構わず、
「とりあえず生」
「はい」
笑顔の似合う店主に注文しながら、帰りの電車の中でなにを食べるか決めてはいたものの、入り口近くの席でガツガツとオムライスを掻き込む様を見ては誘惑に駆られてしまう。
壁には所狭しとメニューの短冊が貼られていて、メニューになくても頼めば出てくる。
「生姜焼き定食」
やっぱり記念すべき日に、考えを揺らがせるのはいけない。
「はい。生姜焼き定食一人前お願いします」
店主は店の奥の暖簾のかかった向こう側に声をかけた。
「あれ? 今日は誰かいるんですか?」
もしや、と思って訊ねる。
もう何日前に来たか覚えていないが、そこに暖簾がかかっていた記憶はない。
「内緒ですよ?」
奥からは冷蔵庫の開け閉めやフライパンかなにかの道具をコンロにかける音だけが聞こえてくるぐらい物静かな店内で、店主はカウンターに身を乗り出し囁く。
「実は本日、うちの店に来ているんですよ。魔王さんが」
「なるほど」
「内緒ですからね、これ。SNSとかに書いちゃ駄目ですよ」
普段は料亭にでもいそうな寡黙な男性が調理場に立っているが、今日はあの魔王がいるらしい。
「その代わり、味は保障しますよ」
そう言って店主が厨房に近づくと、そこから盆が差し出される。
「はい。お待たせしました。生姜焼き定食です」
カウンターの向こうから盆を受け取り、箸立てから割り箸を抜く。
「いただきます」
米粒一粒一粒が輝きを放って立っている宝石のような米。
飴色の玉ねぎがたっぷりとの豚の生姜焼き。
付け合わせはキャベツの千切りに赤く瑞々しいトマト。
そして豆腐とワカメというシンプルながら具がたっぷりの味噌汁のセットで六百円。
これがランチ時なら五百円というのだから破格だ。
箸を動かす手が止まらない。
甘辛いタレに旨味が最大限に引き出された米。
香りだけで唾液が分泌される味噌汁からの芳醇な味噌の香り。
付け合わせの野菜だって鮮度がしっかり保たれ栄養素をしっかり体内に取り込める感覚を胃の中で感じる。
「幸せだ」
朝は食べても栄養補助食。
昼はカップ麺かコンビニで朝のうちに買った菓子パンというのがほどんとの毎日。
その分、夜はこうして温かいものを食べるようにしているが、ファミレスなんかでは味わえない喜びが腹を満たしてくれる。
「デザートをくれ」
そんな至福の時間を味わっていると、背後のテーブル席から若い男の声。
「はい。ただいま」
店主が一人で切り盛りしているとはいえ、ファミレスのように事前に注文していたのか。入り口付近に座っていた異世界人の男は。
定食屋でデザートがあるのも珍しいが、それ以上にどれだけ食べているのか、空いた皿でテーブルが埋まっている。
バニラアイスと果物を口の中に押し込むようにした青年は、音を立てて椅子を引いた。
大きな音で店内の視線を一身に集めた青年は、あろうことか会計をせずに飛び出して行った。
「食い逃げよ!」
呆気にとられる俺に反して、すぐに我を取り戻した店主が叫ぶが、追いかけたりはしない。なぜなら、
ドシン!
地響きのような足音の直後、なにかが店の外で飛び、食い逃げ犯を潰した。
「ごめんなさい。ごめんなさい! 許してください! もうしませんから!」
入り口の開け放たれた外から先ほどの男と思われる情けない声が聞こえてくる。
「またか」
この町で食い逃げは珍しくないし、ほとんどが逃げられず、ほぼすべての犯人がゲートを渡ってやってきた異世界人たちだ。
それを捕まえるのは用心棒のようにそこらにいる、これまた異世界人たち。
闇夜でも夜目が利いたり、動物のような嗅覚や身体能力を持っていたり、なかには魔法なんてファンタジーのものまであるので、正直ただの人間が食い逃げなんてしようとはしない。
そんなことを味噌汁を啜りながらしみじみ思う。
「またか」
いつも同じ人なのかは知らないが、いつも同じような光景を見ることができる。
その被害店舗すべてに共通するのは、異世界から来た魔王が経営者として君臨している外食店だ。
現在、暖簾の向こうの厨房にいるようだが、普通の人は彼の姿を見たことがないのに、テレビとか雑誌のインタビューには出ているのだから、実在しないわけではあるまし。
「きっと暗殺とかそういうのを恐れてるんだろうな。魔王だけに」