老兵 2
サンクが急速に力を伸ばせば、当然のことながら相手をするディーも激しく応酬し、訓練は日ごとに激しさを増していた。
訓練を初めて三週間ほど経ったある時、普段よりも少々熱が入り過ぎた日があった。
午前の訓練を終えて、食事と休憩を取った後も、サンクが庭に現れない。
あまりにもディーの教えが厳しく、訓練から逃げた……という訳ではなかった。
状況的に見て、体を洗おうとしていたのだろう。井戸の側で気絶していた所を、メアリが発見した。
程なくしてサンクは目を覚ましたが、その日はディーから訓練中止を告げられた。
「……くそっ!」
ベッドの上で、サンクは吐き捨てた。
自分は最初の頃とはもう比べ物にならない。それは分かる。しかしディーの背中はまだ遠い……。
それでも、少しづつディーに追いついているはずだ。だからこそ、今はこんな事で躓いてる場合じゃねえってのに。
サンクは苛立っていた。
表面上では従っているとはいえ、生まれてこの方ずっとお山の大将だった男である。身の内では燻っていた反骨の心がメラメラと燃え上がり始めていた。
もうすぐなんだ、もうすぐあのジジイに手が届く。
そうすりゃもうデカい顔はさせねえ。
サンクがそう考えながら、回復に努めていると、ドア越しに「サンク」と名前を呼ばれた。
「開いてるぜ」と言うと、無言でドアノブが回る。現れたのはメアリだった。
「様子を見て来いと言われてな、大丈夫か? 名誉伯もグレース様も心配なさっていたぞ」
「ああ……まあな。クソ忌々しいが」
ディーも、不甲斐ない自分も、と心の中で付け加える。
それを知ってか知らずか、メアリはふんと鼻を鳴らした。
「だいぶ絞られているみたいだな。訓練は順調か?」
「ケッ今はまだだが、すぐにあのジジイを追い越してやる。もう少しで教わる事も無くなるだろうよ」
向かい合っている時は、サンクは渋々ディーの事を『先生』と呼ぶが、このように本人のいない所では『ジジイ』呼びである。
サンクの傲岸な態度にメアリの眉がピクリと吊り上った。
「名誉伯をそのように言うのは止めろ。あの方から学ぶところは大いにある」
「今のところはな。だがもうすぐお払い箱になるかも知れねーぜ」
「ばっ……!」
サンクの言葉にメアリは反射的に何かを言いかけたが、すぐに口を閉じると、こう言い直した。
「大きい声でそう言う事を言うな!」
メアリはそう言い、頭だけ突き出し廊下を見渡し、誰かが通って居ないかを確認した後、すっとサンクに詰め寄る。
「言葉には気を付けろよ! 名誉伯をそのように言った事が、グレース様に知られたら……」
メアリはそこから先を特に小さな声で言った。
「覚えておけよ、グレース様は怒鳴る直前までは笑っておられるが……いざ怒りを現した時は、何があってももう手遅れだぞ」
「へっ……まぁジジイをバカにするつもりはねえよ。ただ、ジジイはそろそろ歳が歳だろ。そろそろお役御免になるのも悪かねえだろうよ」
「だからそう言う事を言うなと言っているんだ! 名誉伯は60歳を超えていらっしゃる。つまりもう『貴限』を迎えているんだよ!」
「あ『貴限』? ……なんだよ、そりゃ」
サンクは聞きなれない言葉に首を傾げた。
「『貴き者の限界』だ。お前は自分が法術使いなのに知らないのか?」
「知らねーよ。知らねーからなんだって聞いてるんだよ」
「ええい、話が通じない奴だな。つまり、貴限というのは法術使いの寿命だ。お前も含めて、全ての法術使いというものは……60歳を過ぎた辺りで、逝く」
「は?」
突然の事にサンクは目を丸くした。
「寿命だと? そんな訳ねーよ、あのジジイがそう簡単にくたばるか。毎日ぶん殴られてる俺が一番よく知ってらァ。とても今日明日死ぬようには見えねえよ」
「お前が信じようと信じまいと、これは絶対だ。法術使いは強靱な体を持っている。私達から見れば互いに争い、戦場で倒れる以外は殆ど不死身と言ってもいい。
しかし60歳、つまり貴限を過ぎると、ある日眠りから目を覚まさず息を引き取るようになる。61歳までに半分が召される。62歳を迎えられるのは24人に1人。
そして、法術使いが63歳の誕生日を迎えたというのは聞いたことがない。分かるか? 名誉伯はいつ亡くなられてもおかしくないのだ」
そこまで言ってメアリはさらにもう一度念を押すように「分かるか?」と大きな声で言った。
「分かるか? あの方は幾度となく戦場に立ち、その後は王家の武術指南を務め、貴限を迎えるまで長らく国に尽くした。だから名誉伯号を賜っているのだ!
分かるか? 本来ならば、もう最後の時までゆるりと過ごして当然! それをな、お前の為にな! グレース様がわざわざ呼び寄せたのだぞ!
いいか、だから見掛けだけでも敬意を払え! いや払って下さい! 頼んだよ! でないとグレース様も名誉伯も報われないじゃないか……!
私は法術使いではないが、お二人がどんなに信頼し合っているか知っている……うう、私も剣を持てたらどれだけ良かったか……」
「お、おう……でも、グレースはお前がいないと仕事にならないから守るって言ってたぜ」
「……! ほ、本当か! グレース様、私などの為に……あとグレース様に様を付けろ、ボケ……」
一方的に言葉を捲し立てて、精神の臨界点を超えた後のメアリは、今度は一転してすすり泣く。
グレースの側にいる時は静かに後ろに控えている彼女だが、なかなかどうして感情的なタイプらしい。
メアリはハンカチで涙を拭いて暫く俯き、再び顔を上げた時はいつもの顔に戻っていた。
「……よし。これ私から言う事はない。今言った事は肝に銘じておけ。頼んだよ、本当に」
「おい、待て」
メアリがドアに手を掛けた時、サンクがその動きを制した。
「なんだ?」
「いや、その、俺いろいろ分からないからよ、これからも……な、何かあったら教えてくれ」
「……そうだな、分かった。私もそこまで気が回らなかったわ。グレース様に聞くより、私に言った方が何かと良いだろう。分からない事があったら聞きに来い」
「おう……」
パタンとドアが閉じられると、静かにサンクは呟いた。
「寿命……ジジイが死ぬだと……」
信じられない、とても。あの男が死ぬなんて。
ディーは押しても引いても叩いてもビクともしない巨大な壁だった。この三週間ずっとそれを思い知らされた。
その壁がある日崩れるとは信じがたい。
だが、サンクにはそれよりも信じられない事があった。
自分の死だ。
誰しも自分がいつか死ぬと言う事は知っているが、それを理解している者は少ない。
多くの人間は死と向き合う事はしない。無関心と忘却をもってこれに当る。そうしなければ正気を保つ事は難しい。
サンクもまた同じだった。
「……『貴限』」
その言葉を口にした瞬間、サンクの体を悪寒が貫いた。
明くる日のサンクはいつもよりも随分早く庭に出ていた。
そして、ディーが姿を現すと、軽く会釈する。それは、これまでにない行いだった。
「おはようございます。昨日は俺のせいで時間を無駄にして、わ……悪かった」
「む。ど、どういう心境の変化だ」
「メアリから聞いた。先生の……その、残りの時間について」
サンクは口ごもって言った。
ディーはその様子を見て頷く。
「うむ、ひ、ひ、姫様は、お、おま、お前を『我が臣下に相応しい貴士にせよ』と言われた。こ、このままでは儂もこ、ここ、心残りよ」
ディーの様子は、言葉のどもりも、仕草も普段とまるで変わらない、自然体であった。
だが、サンクの受け取り方は、昨日までとまるで違っていた。
サンクにとって目の前の男が自然体で振る舞う事、それ自体が尋常ではない。
自分が『貴限』を迎えたとして、こんな風にいつも通りでいられるわけがない。
当人にこれを聞くべきではないと思いながらも、サンクは聞かずにはいられなかった。
「……なんで平気なんだ?」
「な、何がだ?」
「『貴限』だ! 死ぬことが怖くはないのか!」
「こ、こ、この時が来る事は何十年もむ、む、昔から知っていた。い、今更何を怖がる事がある。そも、そもそも、生まれ落ちたからには、し、し、死ぬ。これが道理よ」
「だが、俺には無理だ。怖ええものは怖ええ! どうしたら先生みたいにビビらなくなる?」
「……お、おま、お前は死の恐れを消したいか?」
「そうだ」
「そ、それは無理だ」
「……じゃあ俺はずっと腰抜けのままだって事か? 俺は……そこまでクズなのか?」
サンクは苦虫を噛み潰したような顔で拳を震わせた。
幾ら強くなってもこれでは意味がなかった。例えイムリア最強となっても、死の間際に死を恐れ醜態を晒すようでは、屈辱を味わったあの時と変わりないではないか。
サンクが望んでいるのは、単なる強さではない、上等な強さなのだ。
「ちが、違う。そう言う事ではない」
しかし、ディーは首を振った。
「よ、ようく考えてみるがいい。こ、この世にじゅ、純粋な、一つの感情などないだろう」
「どう言う事だ? 先生の言っている意味が分からない」
「つ、つま、つまり、感情は押し並べて別の感情と結びついているのだ。じ、自信と傲慢は双子、自尊心の胎から、ほ、ほ、誇りと慈悲と残忍さが生まれる。信念とい、意固地は表と裏。
……に、人間とは不思議な物だ。大欲を満たす為にじ、自制し、愛の為にし、嫉妬に狂う」
「それで……?」
「わか、分からぬか。ひ、一つの感情を消す為には、お、恐らく全ての感情を消す必要がある。そ、そんな事は出来ぬ。出来たとしても、そ、そんな人間が役に立つとは思えぬ。
か、感情はい、必要故に、元来備わっているのだ。お、お、お前の忌み嫌う、恐怖にさえ意味がある。恐怖は慎重に通じる。お、怯えの混じらぬ慎重さなどない。こ、怖いからこそ我らは軽々に動かぬのよ。
「だが、怖くて足が竦んじまったら意味がねえ! そこんとこ、どうしてるって聞いてんだよ!」
「うむ。か、感情は消せぬ、け、け、消せぬ以上は律する他あるまい。では何を以って律するか……し、し、知れたこと。理と法である。物の道理を真に理解すれば、お、自ずと感情の暴走を抑えられよう。
す、竦むほど恐ろしいのは死を理解しておらぬからよ。ひ、ひと、人は皆死ぬ。お、恐ろしいが致し方ない。な、ならば望むのは陛下の臣に相応しい死のみ。儂はその道の途上にいる。ならば怖がる必要どこにある?」
「……俺にはそうはとても思えん」
ディーはすうっと息を吸った。
「『我らは血肉のみで戦うに非ず。心のみで戦うに非ず。
偽りの武、偽りの権威、また我が身の奸と佞と戦うなり。
これ故に法理を武具とすべし。これ悪しき時に遇いて敵を防ぎ、その事を成就して立たん為なり。
勇気を具足として足に穿き、軽やかなる法を剣として悉く悪しきものを斬り裂かん。
忠義を護胸として胸に当て、重やかなる法を盾として悉く悪しきものを防ぐ事を得ん。
垣にて種々の理と智を求め、かつ友の為に慎みを持て此の事を為さんと欲すれば倦まざるべし』……言うは易く行うは難し。これぞ法術の奥義よ」
ディーの口から出たのは、いつもの様にどもりがちな言葉ではなく、流暢な調子の文である。
だが、ディーがそこまで言うと、サンクは言葉の洪水でくらくらと眩暈がして、頭を抑えた。
彼にあまり難しい事は理解できない。
「……話が難しくなってきたな」
「何、よく考えて、よく戦えと言う事にすぎん。な、な、納得がいかないならいくまで考えたらいい。さて、は、話は終わりか? そろそろ行くぞ」
訓練は続く。
それから、さらに一週間。
この日は雨の日だった。
その雨の中、ディーはサンクに立っていろ、と命じた。
別に嫌がらせではない。雨に濡れる事に慣れておくのも戦場では大事な事なのだ。
グレースとディーは屋敷の中から直立不動のサンクを眺めつつ、お茶を啜っていた。
「先生から見てサンクはどうですか?」
「……や、奴の妙な気真面目さは忠義に通じます。そ、粗野ですが、同時に勇敢……否、ど、獰猛さが見えます」
「ほう!」
グレースの眉が吊り上った。サンクに対しての言葉はディーが他人を評する言葉としては、満点に近い。
「実力の方は?」
「……は、半人前と言ったところで。じ、じぶ、自分の身を守る事で精一杯かと」
「うん、結構ですわ。足手まといにならないのならば、それで構いません。流石先生ですわぁ。この短期間によくも……」
「過分な言葉を……」
「メアリとも仲良くしているようです。ふふ、これなら連れて行っても大丈夫ですねぇ……」
グレースもほっと溜息を吐いた。
法術使いがそれ以外の人間を過剰に見下す例は多い。多少はしょうがないとしても、目に余るようなら一緒に連れてはいけないのだ。
「つ、連れて行く? では、そ、そろそろ此処を発つので?」
「ええ。私を殺そうとした連中の尻尾を掴みましたわ。まずはそちらに向かって調べてみようかと。先生も来てくださいますか?」
「む、無論。の、乗りかかった船です」
ザーザーと雨が屋敷の屋根を叩く。草木は雨に打たれて震えていたが、サンクは風にも、雨にも彫刻のように揺るがない。
「この雨が上がったら出発ですね」
グレースはそう呟くと、すぐにその事をメアリにも告げる。すると使用人たちも慌ただしく動き始めた。