老兵 1
麻布で織られた服、上下合せて重さは約700g。絹や羊毛に比べて重量はあるが、繊維の靱性は比較にならない。
法術の訓練はこの服を着る所から始まる。
ディーは着替えたサンクをジロジロと見ると「はっ」と短く溜め息をついた。
「な、な、なるほど。あ、甘やかされた生き方をしてきたらしいな」
「……!」
サンクは反射的に口を開きかけたが、ぐっと抑えた。自分は教えを乞う立場、しかも頼んだのは自分である
「た、た、弛みきっておるわ。案山子のほうが幾らか役に立つわ」
ぎゅっと拳を握り、サンクは自分を抑えた。教えを乞うと決めたのだ。少なくとも自分が納得するはまでこの男に従うのが筋である。
「ほうれどうした、こ、こ、ここまでい、言われてて憤りもせんのか? それでも男か? も、も、もしや去勢済みか?」
「……あ? 上等だよ」
三度目はダメだった。
悪口を言われ慣れてない男の堪忍袋は小さい。
頭に血が登りきったサンクは反射的に飛び掛かったが、次の瞬間にあっさりと投げ飛ばされ、地面に叩き付けられていた。
「な、な、何が上等だ。い、い、粋がっていてこの程度か、腰抜け」
地に伏せったサンクに投げかけられる罵声。分かり切っていた結果。
どちらも耐えがたい屈辱だ。
「くそったれ……くそったれが!」
こいつに殺されてもいい。けど我慢するのは無理だし、逃げるのだけは絶対に嫌だ。
負けると知っていてサンクは再びディーに向かっていく。
こうして、教官役のディーと乱取りの形式でひたすら戦い続けた。
途中何度か挟む術理の説明、型の確認を除いて、その戦いが止まる事はない。
しかも、老兵ディーはグレースのように甘くなかった。やる事は同じでも、その内容は遥かに濃密で苛烈である。
サンクの攻守に隙があれば、容赦なく殴り、打ち、蹴り、叩きのめす。
ディーはその加減が実に上手かった。サンクが受けられるかどうかというギリギリの速さと力で、正確かつ念入りに、壊れる寸前まで痛めつけるのだ。
正午になると一端休憩を挟み、ボロ雑巾となってしまった服を着替える。
脱ぎ捨てた麻の服は、サンクの汗と血で、重さは約5倍にまで膨れ上がっていた。
グシャグシャになった雑巾が処分され、再び拳の音が響き始めると、グレースも物陰から心配そうに訓練の様子を窺う。
「……堂々とご覧になれば如何です?」
メアリが主を促したが、グレースは首を振った。
「なんか邪魔しちゃ悪いかな~って……」
「何もグレース様が遠慮する理由はありませんよ」
「や、私が先生の訓練を疑っているように思われたくないのよ。わざわざディー先生にお越し頂いたのだから、私は全面的に先生に任せる! でも、それはそれとして気になるわぁ……」
「グレース様はそれほどあの男に期待しているのですか?」
「期待は勿論してるわ。けど、不安って言うか心配な所もあるのよ。弟や妹ってこんな感じなのかしらねえ? まぁ私はいい子だから兄上達に心配なんてかけなかったけど」
「……? そうですね」
「メアリ、今、少し間が開いたわよ!」
午後になっても訓練は続く。
痛みと体力の限界により、サンクの動きに陰りが見え始めると、ディーの攻撃は手や足だけに留まらない。
叩き付けられるのは、弱り始めた精神を叩く罵声である。
「ぐ、ぐ、愚鈍だのう。これが貴様の本当の姿よ。ぶ、無頼漢を気取っていても一皮剥けばこんなものだ」
「黙れ!」
そう言って反撃をしようとした瞬間、反対にディーの蹴りが額を掠める。動く事も出来ない。
「い、今までは、さぞや好き勝手にあ、暴れていたのだろう。よ、よ、弱き者の前で威張り散らしていたのだろう。そ、そ、そんな性根だから、いざとなった時に足が竦むのよ!」
サンクの顔が羞恥に染まる
その瞬間、痛みと疲労を忘れ、サンクはディーに飛び掛かったが、ディーは身を翻して躱すと、さらに言葉を続けた。
「貴族を真似てはいるが、しゅ、収穫と収奪の違いも分からず、間引きとね、根絶やしの区別もつかず、民草を踏みにじっていたのだろう。ええ、どうだ? 違うか!?」
「違う!」
「何が違うものか! お、お、お前のような奴は、もの、も、物の道理が分かっておらぬ。弛みきった法術がその証左よ!」
「黙れっつってんだろ、ジジイ!」
叫びながら突き出した大振りのパンチは、ディーの掌にあっさりと捕獲された。
そして叱咤が飛ぶ。
「い、い、一々動揺するな。法術が乱れるだろうが!」
ディーの手を振りほどこうともがいたが、まるでディーの体が巨大な岩石になったかのように、びくともしない。
「こ、これが重法だ。即ち揺るがぬ強さである。ほうれ、ふ、ふ、ふ、振りほどいてみよ」
サンクは全身の力と法術を使って抵抗したが、ディーの腕は少しも動かない。
また叱責が飛ぶ。
「もっと集中せんか! け、け、軽法とは邁進する強さだ。は、は、半端者めが! お前は意志が弱いから、ど、どちらの力も定まらんのよ」
「くそ! こうか!」
サンクはさらに力一杯腕に力を込めた。
筋肉が盛り上がり、そこに不可視の力が加わる。
だが、ディーの腕はビクともしない。
「集中しろ! お、お、お前の力はそんなものか! これでは皿も持てぬわ!」
打撲と疲労に押しつぶされ、サンクがついに動けなくなるまで戦いは続く。
日が傾く頃、顔を腫らし、雑巾を身に着けたサンクが、地べたにごろりと転がると、ようやくその日の組手は終了となるが、修練自体は途切れる事はない。
眠りながらも重法を用いて、傷ついた体を僅か一晩で治さなければならないのだ。
こうしてサンクは毎日のように叩き伏せられ、夜毎に死の瀬戸際まで追い詰められた。
屈辱を晴らすどころか、鬱憤は溜まる一方。それでもサンクが現状に我慢出来ていた理由は、朝毎に感じる生き返る様な鮮烈な感覚だった。
起きる度に体の奥で炎のようなものが燃えているのを感じる。その炎に意識が触れると、体中に力が駆け巡った。
自分の体が、活性化していくのが分かる。
無論、いくらディーが優秀な教官でも、ゼロの状態から急速に強くなるはずがない。サンクの急成長には理由がある。
ゼロをプラスにするというより、マイナスをゼロにする。ディーはそういう訓練をしていたのだ。
そもそも法術使いが平民の内で暮らしていれば、全力の軽法など使う必要もない。重法を使って傷を治すどころか、傷を負う機会すらない。
常にごろ寝でいるような状態では、体が鍛えられるはずがない。贅肉が付いて当然である。
例えるならサンクはネズミの群れの中で暮らしていた狼だったのだ。
ネズミの中でぬくぬくと暮らしている内に、狩りの仕方どころか、吼え方も走り方も忘れてしまい、精々自分をドラ猫か何かと勘違いしていた狼に、もう一度走り方を教える。
ディーがやっているのはそれだった。そしてサンクはそれに応え、真綿が水を吸うように、本来の強さを取り戻しつつあった。
とはいえ、毎日タコ殴りにされて、面白くないのは確かである。
それも組手の時ならまだ理解も出来るが、ディーがサンクに罵声を浴びせて殴るのは、訓練中だけとは限らない。
背が曲がってるとか、しゃきっと歩けとか、唾を吐くなとか、時間を守れとか、返事がないとか、挨拶をしろとか、喰い方が汚いとか、とにかくいろんな事でサンクは殴られた。
また、同時に馬鹿者とか、阿呆とか、愚鈍とか、負け犬とか、根性なしとか、腑抜けとか、腰抜けとか、半端者とか、女の腐った奴とか、両親の失敗作とか
クズとか、能無しとか……サンクが舌を巻くほどの罵声を浴びせられた。
強くなるのはいいが、これに関しては全く面白くない。内心はディーに対して不満たらたらである。
いつもいつも好き勝手に殴りやがって、今に見てろよジジイ、と筋違いの憎しみを抱いていたのだ。
ところが、ある事を知った時に少しその風向きが変わる事になる。それはサンクが望んだ、腕力ではない強さを手に入れる切っ掛けとなった。
その事を教えたのは、誰であろう、グレースの侍女メアリだった。