戦いに背を向けて
赤ら顔のアドーが、自分の泊まっている部屋の扉を開けた瞬間、窓から吹く風が鼻を撫でた。
朝の風は冷たく、思わずブルッと体を震わせて、アドーは反射的に窓を閉めようとしたが、途中ではたとその手が止まる。
おかしい。
便所に行く前、窓は開いていただろうか?
「バカな事をしでかしたな……アドー」
耳元で、しわがれ声が囁いた。
ごくりとアドーは生唾を飲み込む。
「シュ、シュルツ……」
「勝手に資金を持ち出して、どこの馬の骨とも知れぬ男を雇い、あまつさえグレース王女の暗殺に失敗した? これ以上はない、これ以上はない!」
シュルツを呼ばれた男は、まるで道化師のような男だった。
背は低く体は不自然に痩せ、髪はぼさぼさ。顔の中心には鷲鼻が居座り、頬骨が突き出していて、眼窩は異常にくぼんでいた。
「ま、待て、俺の話を聞け」
天然の道化師シュルツは、アドーの言葉を無視してその喉元を鷲掴みにし、締め上げた。
気管を押し潰されたアドーは、いつもよりもさらに顔を赤くして、バタバタともがく。
シュルツという男の力は、所謂普通ではなかった。アドーの喉を締め付けたまま、苦も無くその体を持ち上げる。
「お前の勝手な行動のせいで、グレースは警戒している。警戒しているぞ! 奴がこのまま王都に引き返したら……クルトー様になんと申し開きをするつもりだ?」
「待て……」
アドーは何とか声を絞り出したが、シュルツは構わず続けた。
「ほら、言ってみろ、言ってみろ! 俺をクルトー様だと思って言ってみろ! 王女を殺す千載一遇の機会、不意にしかけた理由を言ってみろ!」
囃し立てる様なシュルツの言葉は、アドーに言っているというより自分自身に言っているかのようだった。
実際シュルツの瞳孔は徐々に拡大し、その顔はますます人間離れしたものへと変わっていく。
「話を……」
シュルツは突然掌を開き、アドーを床に落とした。
喉を抑えてぜいぜいと倒れ込むアドーを見下しながら、シュルツは剣を抜く。
その刃は空気を焦がしながら、山吹色に輝いていた。融けた鉄の色だ。
「さあ。聞いてやる、聞いてやるぞ!」
声を震わせながら、アドーは叫ぶように言った。
「俺が雇った男は……銀狼のサンクは、賭け試合で負けたことがねえって奴だ! この辺じゃ、貴族にだって負けねえって言われてる男なんだよ!」
「……救い難い。救い難いな、アドー! 田舎貴族とグレース・グランクラムを同じだと思ったか!」
しわがれ声で怒鳴りつけながら、シュルツはゆっくりと剣を振りかぶった。
何があったかと思えば、口から出てくるのは浅薄としか言いようのない理由である。
もはや、シュルツにアドーを殺さない理由などなかった。
しかしアドーは最後まで足掻いた。どもりながら早口で言い訳を並べ立てる。
「まま待て、それだけじゃねえ! 最後まで聞け、このサンクって男は銀髪なんだ! く、く、く、クルトー様と同じなんだよ! だから俺は期待して依頼したんだ!」
「……なんだと?」
シュルツのしわがれた声が、一層低いものとなった。
「確かか? お前はそれを見たのか? 本当に見たのか?」
「あ、ああ。見たぜ、確かにこの目で、みみ見た。間違いなく、ありゃ銀髪だ……」
「何故その事を早く言わなかった? その男はどこにいる? 今、どこにいる?」
シュルツがそう叫んだ、まさにその瞬間、部屋の扉が開いた。
現れたのは、銀狼のサンクその人だった。
サンクが足を踏み入れたのは、どう見ても修羅場だった。
床にへたり込む依頼人アドー。それに詰め寄る男。
大変な事が起ったのだろう。だが、そんな事はサンクには関係なかった。
重要なのは、アドーがまだ生きている事。ただそれだけ。
上等だぜアドー、とサンクは思った。
「まだここにいて助かったぜ」
サンクはそう言いながら無造作に頭陀袋を放り投げた。袋は弧を描き、ガチャンと音を立ててテーブルの上に落下する。
「アドーよ、済まねえが俺ァこの話から抜けさせてもらう……お前にも王女にも付かねえ。すっぱり手を引く。金も返す」
「サ、サンク……!」
縋りつく様なアドーの声。
「丁度良かった、今、お前さんの話をしていたんだよ! 殺しはもういい、こ、この人について行け!」
アドーは身振りで剣を持つ男を指したが、サンクは首を振った。
自分なりに考えた結論を、そう簡単に変える気はない。
「話を聞けよ。俺は手を引くって言って……」
ゴトッ。
サンクの言葉は重石の転がる様な音に遮られた。
但し床に転がったのは、重石ではなく、アドーの首である。
男の持つ輝く剣が、音もなく素っ首を斬り落としていたのだ。
「確かに、確かに銀の髪。これぞまさしくイマリの末裔」
シュルツの言葉に対し、サンクは何も答えず、ただ舌を打って踵を返す。
「待て、どこへ行く?」
首だけ振り返りながら、サンクは言った。
「お前には関係ねえだろ」
アドーが死んだ以上、もうここに用はない。
サンクには仇をわざわざとってやる義理もなければ、興味もなかった。
話の途中でアドーを殺されたのには少しムカついたが、今は喧嘩する気分でもない。
「じゃあな」と、サンクは捨て台詞を吐いた。
その言葉をもって、この件は終わらせるつもりだった。
しかし、シュルツにとって、サンクを見逃す事など有り得ない。
「じゃあな、じゃない。じゃあな、じゃない。お前は俺と来るんだよ!」
「……」
サンクは答えない。言葉の代わりに、ぺっと唾を吐いて拒絶を示した。
「力づくがお望みか、救い難い、救い難いぞ」
「……何言ってやがる」
シュルツの声と喋り方はサンクの癇に触った。
一発ぶん殴って黙らせてやると思い、足に力を掛けた瞬間、剣の柄頭がサンクの脇腹を打つ。
たった一発。
ガタンと音を立てサンクは膝を折った。
「っ……」
それでも打たれた腹を押さえながら、シュルツを罵ろうと口を開けたが、痛打によって横隔膜がせり上がり、とても言葉にはならない。
辛うじてできた事はと言えば、睨む事だけである。
しかしそんな事でシュルツは怯まなかった。かえって面白がるようにキーキーとサンクを嘲笑する。
「そんな目をしても無駄だ、無駄! お前は俺が連れて行く! 黙って俺について来い!」
「耳障りねえ。まず貴方が黙りなさい」
しわがれた嘲りを打ち消すように、ハープの旋律に似た声が空気を震わせた。
続いてかたん、かたんと廊下を上がる足音。
「お前……お前!」
現れた旋律の主を見た瞬間、シュルツの嘲りは引きつり顔に変わっていく。
その時、窓からバタバタと風が吹き抜けた。
好奇心旺盛な朝の風はまず、シュルツの脇を通り、次いでサンクの銀の髪を揺らして、最後に微笑む女性の胸へと飛び込んだ。
「グレース・グランクラム!」
「それは貴方に言われなくても知っているわ」
慣れた手つきでグレースが腰の剣に触れたかと思うと、乙女が服を脱ぐかのように、するすると美しい刀身が姿を現した。
その刃先は、やはり高熱を発して、煌々と青く輝く。
「さぁ降参しなさい。私が相手じゃ分が悪いでしょう」
「ほざけ、ほざけ! 望む所だ!」
次の瞬間にはもう、甲高い音と共にぶつかり合った刃と刃が火花を散らした。
グレースの笑みに変わりはないが、シュルツの表情は悪鬼のそれと化している。
「カァァァァァァァ!」
かすれた声の叫びを上げながら、シュルツは狂った猿の様に目まぐるしくグレースを攻め立てた。
その攻めは地に足を着いたものではなく、部屋の壁と跳躍を多用した三次元の猛攻である。
上から襲い掛かったと思えば、地を這うように薙ぎ、寄せたかと思えば引き下がる。
対するグレースは、動き回るシュルツと対照的に、その場から殆ど動かない。
繰り出される無数の晦まし、そしてそれに紛れた必殺の斬撃を、ただ静かに受け流していた。
バカな、なんだこれは、とサンクは思った。
この時、初めて彼は、法術使いの中でも上位に位置する人間達の戦いを見たのだ。
それは自分では到底、太刀打ちできない領域だった。
激しく攻めた立てる男の動きは、小さな災害だった。そいつが踏み込む度に床や壁が踏み砕かれ、次の瞬間剣戟の音が響く。
そして、男は一瞬たりとも同じ所に留まってはいない。
男の動きは目で追うのさえ難しかったが、かろうじて山吹色の刃の光が、男の位置を示していた。
その刃の先にある物は、ただ一つの例外を除いて、音もなく切り裂かれていく。
なんでコイツはこんなに速く動けるんだ? と、サンクは心底思った。
そしてなぜ、グレースはアレを防ぐ事ができるんだ? と叫びたかった。
自分があの場に立てば、三秒と持たずになます切りにされる。
人間が、こんなに速く動けるわけがない。
人間が、あの剣の嵐を防げるわけがない。
なぜあんなに動ける?
なぜあそこに留まれる?
こいつら、本当に人間なのか?
「サンク」
鳴り止まぬ剣戟の中でグレースの声がした。
その声はいつもと変わらない声だったが、動揺していたサンクは過剰にビクッと体を震わせる。
「危ないから、貴方は下がって伏せていなさい」
ふざけんなよ、グレース。王女だか何だか知らねえが、こいつは俺が売られた喧嘩だぜ、手前ェこそすっこんでろ、と、言う場面。
今までの自分を曲げたくないなら、ここはそう言わなくてはならない場面だ。
だが、舌が動いてくれない。声が出ない。
金縛りにあった様に、サンクは動けなかった。
「カハァァァァ!」
シュルツの雄叫び、そして刃がうねるほどの突き。
剣と剣がぶつかる鋭い金属音。捌くグレースの手元で、今までより一際大きな火花が散った。
均衡が崩れるのか?
脳裏にそんなぼんやりとした考えが浮かんだが、サンクははっと息を飲んだ。
その瞬間、グレースと目が合ったのだ。
戦いの最中、彼女は敵から目を逸らし、こちらを見ている。
「伏せなさい」
相変わらず平静な声。だが、その中には僅かな苛立ちが込められていた。
そのほんの少しの怒気に、圧倒的な格の違いに、サンクは圧され、その言葉に従って伏せた。
逆らう事などできなかった。
頭上で剣戟の音が響いたが、その音は酷く遠い世界から聞こえて来るかのように思われた。
賭けの拳闘では無敵だった。どれだけ体格差があっても、相手は普通の人間で、自分には貴族の力があった。負けるはずがない。
相手の多くは他の町から連れてこられた喧嘩自慢だ。試合まで自分の力が漏れないように徹底して、必ず先に相手に殴らせる。
そしてネタばらし。本当のショータイムだ。
見物人が俺の名前を叫ぶ。薄暗い熱気。相手は青ざめ、許しを請う。何度もそんな怯えた顔を見てきた。
ガキィン。火花が散る。
試合の後は馴染みの酒場で乱痴気騒ぎ。
酒を呷った後、決まって対戦相手を馬鹿にした。
「ざまぁねえや! あいつの顔、見たか!」と。
何人かは、ぶん殴った時に、粗相した奴もいた。そんな時は特に嘲笑った。
「小便の仕方も分からねえ奴だったな!」と。
いつかこう言った事を覚えている。
「どいつもこいつも腰抜けばっかだな! 俺は違うぜ!」
ギチギチと刃と刃が軋む。
グレースには確かにしてやられた。人生初の敗北だ。
しかし、目が覚めてみると、グレースは見所があると言ってくれた。もしかしたら、自分よりも強くなるかも知れないとも。
嬉しかった。そして、心のどこかでは、自分なら当然だと思っていた。
だが今なら分かる。あれは世辞だ。
今、自分の頭の上で戦っているような連中には絶対になれない。なれるはずがない。
それどころか、さっき、グレースの言葉に従った時、そしてこうして伏している今、自分はどんな顔をしている?
俺は……。俺は……。
サンクの脳裏に浮かんだのは、幾度となく見下してきた男たちの顔。
自分では、自分をクソ野郎だと思っていた。但し上等なクソ野郎だ。
絶対に自分を曲げない奴。ムカつく奴は相手が誰だろうが噛みつく狼、だと思っていた。
それが、このザマはなんだ?
眼頭に熱が篭る。
サンクが惨めさに打ちのめされた時、ギイィン、と剣が擦れ合う音が、遠くの世界で響いていた。
サンクから見たグレースとシュルツの戦いは、遥かな高みの戦いだったが、実際には両者の間にも、越えがたい隔たりが横たわっていた。
それにも関わらず戦いが長引いている原因は、グレースの逡巡である。
悪くない力の持ち主ねえ、特に速さは申し分ないわ。無駄な動きが多すぎるけど、そこを直したら良い兵になりそう。
……こんなに動けるなら、フェイントなんか入れないで死ぬ気で真っ直ぐ来ればいいのに。
心の中でグレースは冷静に相手を分析し、時には褒めさえしていた。
同時に何とか生け捕りにできない物かと考えていたが、難しかった。負ける相手ではないが、捕えるのには強すぎる。
「ねえ、貴方!」
剣を防ぎながらグレースは対戦相手に声をかけた。
「今すぐ剣を捨てれば、無礼も許すわよ。降参して私の部下にならない?」
「ほざけ! ほざけ!」
シュルツが叫ぶ。
「……残念だわ。本当に」
生け捕りは無理、と判断した瞬間、初めてグレースが攻撃の為の踏込みをした。
あっという間に攻守が入れ替わる。
初太刀。
雷光の様な一撃がシュルツを襲った。
その一撃を受ける為、あれほど跳び回っていたシュルツの動きが完全に止まる。
脚の止まったシュルツに、二の太刀が襲いかかった。
シュルツは辛うじて受ける事に成功したが、斬撃に吹き飛ばされるように、大きく姿勢が崩れた。
そして、崩れた先に三の太刀。
避ける事はできない。不安定な体勢では受ける事も出来ない。
勝った。
そう確信した刹那、シュルツは懐から取り出した卵大の球体をグレースに投げつけた。
反射的にグレースはその球体を斬ってしまう。
しまった、と後悔した時はもう遅かった。
球体の中身に詰まっていたのは、調合された火薬である。
灼熱の剣に触れた瞬間、火薬玉は音と閃光を発して、勢いよく弾けた。
擲弾に法術使いを殺傷する力はない。しかし一瞬の隙を作ることはできる。
視界が光で埋め尽くされ、破裂音で耳を塞がれた。
ほんの数瞬、グレースは敵の姿を見失う。
「あーあ……やられたわね」
グレースが目をしばたたいた時、もうシュルツの姿はなかった。窓からでも逃げ出したのだろう。
自分の方が格上だという慢心もあったせいか、最後の最後で油断してしまった。
自分で自分を面目ないなと思い、ふう、と息を吐く。
「さあサンク、帰るわよ」
「……」
返事はなかった。
もう一度呼びかける。
「サンク?」
当のサンクは俯いていた。グレースの顔を見るのが恐ろしかった。呼びかけに応えるのも恐ろしかった。
グレースが伏せろと言ったのは、純粋に自分の身を案じてだ。それは分かる。
それでも、もし。
もし、グレースがあの言葉を言ってしまえば、俺は終わりだ。
「どうしたの?」
グレースが首を傾げる。
それ以上、言うな……言うな!
もし『ビビってただろう?』なんて言われたら、俺はどうしようもなくなる。
臆病者だと思われる事。無頼漢を気取っていた自分が、その実ただの腰抜けだったと見透かされる事
あの敵も、グレースも全てが恐ろしかった。伏せろと言われたあの時、従いたくなかった。だが同時に、心のどこかで、『ああ、俺は戦わなくていいんだ』と安堵していた。
その心が見抜かれていたとしたら、それはサンクにとって死よりも辛かった。恥、とはこの事だろう。
惨めな心を覆い隠す為の言い訳が、際限なくこみ上げてくる。
『まだ体調が万全じゃなかった』『突然だったし』『俺以外の奴は武器を持っていた』『喧嘩の気分じゃなかった』『もう一回やれば勝つ』『まだ体が痛い』
全部、嘘だ。
それも、自分を騙す最悪の嘘だ。
自分に課した最後のルールまで曲げてしまえば、本当に終わりだ。
それだけは。
せめて、ここで踏み留まってくれ。サンク、この腰抜け野郎! 手前が腰抜けにしては上等の奴なら、本当の事を言え!
「怪我でもした?」
「……グレース、俺はこひ抜けだ」
会話が噛み合ってない。おまけに、サンクの声は上ずっていて、酷く間抜けだった。
一滴の涙が鼻の横を伝う。
「怖くて、動けなかった。震えてただけだった……」
その瞬間、羞恥心がサンクの全身を貫いた。堰を切ったように、涙が溢れ出る。
「……」
グレースはしばらく無言だったが、やがて、こう言った。
「悔しい?」
涙で喉が締め付けられて声が出なかった。代わりに頷いて、ずるずると鼻をすする。
ほんの僅かにグレースは口元を釣り上げた。だが、嫌な感じはしない。
グレースとサンクの年齢は殆ど変りない。どんなに多く見積もっても差は二歳ほどだろう。
しかし、サンクはグレースの方が遥かに年上に感じた。その顔はまるで、母の様だった。
大きいとは言えない手、しかし力強く、優しい手が銀の髪を撫でる。
「私が強くしてあげるわ。笑って死ねるくらいに」
「本当か?」
「本当よ。ニコニコ・グレースがその方法を教えてあげるわ」
「……頼む。教えてくれ、グレース」
サンクは深く頭を下げた。