しとしと
【la nuit 02 平穏はcamomilleの香り】
キャンディたちが梯子を登り、元の大樹からが出てきたころには空が白く染まり始めていた。
朝靄が森をしっとり濡らし、木々は露に飾られていた。澄んだ空気を吸いながら足早に獣道を進んだ。
キャンディは一連の出来事を受け、すっかり疲弊してしまった。
いつも集会は淡々と事務的に進むが、今日は騒動が起こった。
団員がルーザに意見をすることなど数年は見なかったし、騒ぎが起こるのは珍しいことだ。ルーザの低い怒鳴り声が今も耳に残っている。彼のあんな剣幕を見るのはいつ振りだろう。
久しぶりに会ったカユも連日の事件の調査書に追われているという話を聞いた。いつも明るい彼の太陽にような笑顔はすこし雲っていた。
自分はもっと何かできたのではないか、と自問する。
キャンディは思い切って今日の集会のことをロイに話し始めた。
「なんだか、今回の集会は大変だったね」
少し控えめに、選ぶように言葉を発した。
「そうですね。まあ50年以上も我慢をしていれば暴動位起こっても仕方はないでしょう。あのレベルで済んだだけよかった、と思わなければ」
ロイはいつも通り落ち着いていた。
垂れてくる蜘蛛の巣をそっと払う。獣道はどんどん細くなり先程よりも木々が茂る。
「ルーザ、大丈夫かな」
「彼なら心配ないですよ。昔と比べればなんてことありませんよ」
ロイは微笑んだ。キャンディもつられて笑み、そこからは黙々と館までの道を歩き進めた。
彼の大丈夫、には不思議な力があるとキャンディは思った。例えそれが全く解決していなくても問題のないことのように感じられるのだ。
ロイ・ルヴィーダンには不思議な魅力がある。白い天使のような柔らかな容姿も、悪魔のように鋭い青の瞳にも。
長い間相棒として共にいるが、キャンディにはロイのことが少しも理解できていないように感じた。
道なき道を進むと館が見える。朝日に照らされていてもどこか不気味だ。
キャンディが重いドアを開ける。入ってすぐのリビングは家具も少なく閑散としている。
ロイはマントを脱ぐとすぐにキッチンに向かった。日課で寝る前にハーブティーを飲むからだ。
キャンディは安心感からマントのままソファにもたれかかった。埃っぽいソファのスプリングが軋み、音をたてる。
しばらくすると庭のハーブで淹れたカモミールティーを持ったロイがキッチンから出てきた。彼はお茶を愛し、庭でいくつかのハーブを育てている。リンゴのような甘い香りにキャンディは身を乗り出した。
「いい匂い!僕も飲んでいい?」
「ええ、もちろんですよ。ですがマントを脱がないと。皺になりますよ」
「はーい」
玄関のフックにマントをかけるとすぐにソファに座った。
「はい、出来ましたよ」
白い上品なカップにはカモミールのお茶。薄い黄色の水面には白い可憐な花が一輪浮いている。
「ありがとう」
ロイもキャンディの隣に座り一口飲んだ。甘い芳醇な香りが口いっぱいに広がる。外が寒かったせいかとても暖かくそして柔らかく感じた。
しばらくの沈黙。互いになにも考えない、ゆったりした時間が流れる。熱い紅茶がだんだんひと肌になる。
キャンディにとってその温度の変化さえ愛しい時間だった。互いの紅茶が半分になるころ、キャンディが口を開く。
「あのさ、ロイ……」
視線を移すとロイは眠たそうな目でこちらを見ていた。
美しい青の瞳は、心を見透かされているような気分になる。
「なんですか?」
「やっぱり、人間と協力して共存するって無理なのかな?」
とろりとしていたロイの瞳は一瞬にして熱を宿した。あまりの威圧的な瞳に最後の方は消え入りそうな声になった。
キャンディは人間と共存したいと願っている。それは人間と接する生き方をしているからなのだろう。キャンディには人間界での表の顔がある。ミッド家はハロウィーン社という製菓会社を運営しているのだ。
人間好きのキャンディの祖父が立ち上げた会社で、今では老舗ブランドとして西国中で展開しているのだ。会社での名前はキャンディ・メイソンとファミリーネームは偽名を使っている。彼は次期社長の立場にある。
吸血鬼界では有名な貴族の家系で社交家、人間界では製菓会社の次期社長。普通の吸血鬼よりも人間と関わりがある分人間に愛着がある。お菓子を抱 える幸せそうな人々を見ると自分も仲よくなりたいと思うのだ。
「無理でしょうね」
ロイはきっぱり言った。
キャンディに反し、ロイは昔から人間を遠ざけ、嫌悪している。人間への価値観が昔から ロイとの唯一意見が合わないところだった。
その理由もなんとなくキャンディは理解していた。
吸血鬼にはタイプが二つある。
ひとつは代々完全な吸血鬼の血統を持つ純血の吸血鬼。
そしてもうひとつは人間から吸血鬼になった人間出身者だ。
人間出身者は厳正な審査の後、どうしても仲間に加えなければならない理由のある者のみを吸血鬼にするのだ。
人間を吸血鬼にするには双方ともにリスクがある。そのためもう何十年も新しい人間出身者の吸血鬼はいない。
ロイとキャンディは二人とも純血種だ。
純血種は自分たちが吸血鬼であることを誇りに思っている者が多い。キャンディの勝手な推測であるが、彼が 人間のことをあまり好きではないのは誇りがあるからなのだろう。
「ロイが思うよりも人間って悪い人たちばかりじゃないよ」
キャンディは視線から逃げるようにうつむく。人間の話をしている時のロイはいつもの優しい相棒ではなくなるのだ。
冷たい視線、声色。表情はまるで別人だ。時折見せる“別人のロイ”をキャンディは好きではなかった。親しい間柄なのに恐怖さえも感じるからだ。
「どうでしょうね、キャンディがどう思うにせよ私は歩み寄ろうとは思いませんよ。離れていったのは人間なのですから」
その口調には揺るがない冷たさがあった。
西側の大きな窓からは日差しが差し込み始めた。ロイは目を細めると食器を片づけるために立ち上がった。
純血種は人間出身の吸血鬼よりも日差しが苦手だ。特にロイの場合は顕著で、日が出ているうちは自然と機嫌が悪くなる。本人に自覚はなく、それに気付いているのはキャンディや周りだけのようだが。キャンディは話すタイミングを間違えた、と後悔した。
キッチンからは食器がカチャカチャとぶつかる音だけがする。キャンディはロイの後を追った。
「ロイ、もう夜が明けたし片付けは僕がしておくよ。僕はこのあと実家に戻らなくちゃ行けないんだ」
ロイはぼんやりとしていたのか少し間をおいてゆっくりと振り返った。口元だけはいつものように微笑んでいるが随分眠そうだ。キャンディは人間の世界で仕事をしているので日光には慣れているが、ロイに朝日は辛いようだ。
「ありがとうございます。情けないですね。栄養が足りていないと朝日にも弱くなるなんて」
「気にしないで。早く上に行って休みなよ」
キャンディはロイの手にあったカップを受け取ると自室に行くように促した。
「それでは失礼しますね。……あ、そうでした。新月の夜は空けておいてください」
ロイは小さく欠伸をしながら言った。ただ欠伸をするだけでもその仕草一つ一つには気品が溢れている。
「なにかあるの?」
「ルーザが幹部だけで話したいんだそうです」
言い終えると目をこすりながら歩いて行ってしまった。
キャンディはあんなに緊張感のないロイを見るのが新鮮で、ほんの少し笑ってしまった。眠そうにしているところが子供のようだったからだ。
(あんなロイ、もうこの先50年は見られないかもね)
再び静まり返ったキッチンには朝独特のさわやかな空気と森の緑の香りでいっぱいになった。キャンディは一人の朝の時間が何より好きな空間だった。
水の音と食器がぶつかる音、冷たい風、柔らかな日差し、どれもが変わらない日常だ。
小鳥のさえずりを聞きながら朝の空気を楽しんだ。
ずっと変わらない平穏という名の幸せを感じながら、キャンディは陽気な歌を口ずさんだ。
camomille=リンゴのような甘い香りをもつ花