せんせん
キャンディは家を出ても尚走り続けた。
深い森の自分の家に戻るまでには大きな街を二つほど通らなければならない。そこには大きなマルシェがあり、キャンディは速度を落とし人間の中に紛れた。
周りには自分の好きな人間がたくさんいる。みんなが幸せそうな顔をし、ある人はバスケットを下げて、ある人はテラスでお茶をしながらそれぞれの時間を過ごしていた。
早鐘のようになっていた心臓も徐々に落ち着き、マルシェ内のパン屋の香りを堪能しながら歩き続ける。
笑顔に溢れる人々、平凡な日常。そんな些細な幸せを目にキャンディは呟いた。
「あぁ、殺したいな」
彼は自分の発した言葉を理解し咄嗟に口を塞ぐ。
思考が脳ごと溶かされているような、誰かに乗っ取られているような奇妙な感覚をおぼえる。口を押えた手に視線を移すと段々に爪が伸びていることに気付いた。
吸血鬼は爪で皮膚に傷をつけ、そこから吸血を行う。つまり、キャンディの意思とは反してこの手は誰かを傷つけようとしているのだ。
「ッ!?」
爪は不自然なほど長く鋭く伸びていく。
キャンディは一気に地を蹴り、力いっぱい走った。風となり長いマルシェを駆け抜ける。
2つ目の街を駆け抜け、森に入ったときには爪の形は通常の形に戻っていた。
混乱したまま息を整えて家の扉を開けると、目の前の古時計には自分の姿が映る。
そこにいた自分の姿は、大量の汗と共に白粉がはがれ顔が溶けているように見えた。
「僕を……映すなァァ!」
そばにあったハンガースタンドを時計に映る化け物に投げつけると、派手にガラスが飛び散る。
頭が沸騰しそうなほど脳が滾り、鼓動が耳の中を反響する。
その感覚に耐え切れず、キャンディはソファに手を掛けた。
「僕が、僕が何をしたっていうんだっ! 君なんだろ? ロイ!」
そのまま爪を食い込ませ、片手で突き飛ばす。古いソファの脚はすぐに折れて横倒しになった。
目は充血し、血走っている。
怒りが収まらないままキッチンに入ると棚から皿を取り出し片っ端から投げ捨てた。
パリン、パリンと規則正しい音が止むと、ゆっくりとした足取りでロイの部屋を目指す。
「もう、逃がしはしないよ」
キャンディの脚にある靴下止めからはシルバーのナイフが挟まっていた。
二階の東側、ロイの部屋は閑散としている。
10畳ほどの室内にはクローゼットと簡素なベッド、木製の机と椅子が寂しげに置かれている。
「ねえ、ロイ。なにかあるんだろう?」
そういうとベッドを引き裂く。中からは羽毛が飛び出し、あたりを真っ白に染めた。すべて引き裂くと、クローゼットに目を移し近寄る。
中は集会用のマントと同じデザインの服のみで変わったところはなかった。
キャンディは無言で衣服を切り裂いていく。
その目には何も色はなく、焦点が定まっていなかった。
「なんで、何もないんだい……?」
力なく呟くと、長い足で質素なテーブルを蹴りあげる。派手な音と共に、ベッドの羽根が再び舞った。
ふと、窓の外を見てみると夜空で黒く染まったガラスに自分の姿が映る。 羽根が舞う中に佇む姿は、醜く邪悪な青年の姿だった。
「フッ、アハハハハハハハハハハ!」
キャンディは腹を抱えて笑う。静かな森の中にその声が響き渡る。
「まるで、僕は堕天使じゃないか」
拳で窓を割ると、羽の上に横たわる。
「もう、十分だろう。誰も苦しめないでくれ。僕が楽にしてあげるよ、ロイ」
白い羽は高貴で優しい相棒、ロイ・ルヴィーダンを連想させた。
キャンディは血の滲む拳で羽を無造作に掴むと、今日二回目の眠りについた。
彼は幸せな夢を見た。初めて相棒になったときの握手をした温かい手、ここに引っ越してきたばかりに飲んだ温かいハーブティー、何の変哲もない幸せな朝の時間。
その幸せな夢は巡っては泡沫のように消えゆくのだった。
キャンディの頬には涙の雫が一筋跡をつける。
今宵は新月、その光景を窓の外から星屑だけが見守っていた。




