神の捨て駒にはならない ――アブサロムとタマルは、悲劇の一日前へ戻った
神の捨て駒にはならない
――アブサロムとタマルは、悲劇の一日前へ戻った
目を覚ましたとき、タマルは兄アブサロムの屋敷にいた。窓の外ではオリーブの葉が朝日に照らされ、中庭から侍女が石臼で小麦をひく音が響いている。寝台の脇には、昨日までまとっていたはずの喪服ではなく、紅と青の糸で刺繍された長衣が畳まれていた。
タマルは長衣を広げたものの、袖を通すことができなかった。布はどこにも裂け目がなく、朝日を受けた刺繍糸が細く輝いている。それでも腕を上げると、別の時の流れで引き裂かれた衣の感触が指先に戻り、扉の外へ放り出された体と、頭からかぶった灰のざらつきまでよみがえった。
「ここは、いつなの」
侍女が石の水差しを持ったまま、不思議そうに振り返った。卓上には蜂蜜、小麦粉、油を入れた器が並び、焼き菓子を作る支度が整えられている。タマルはその材料を見た瞬間、寝台の柱へ片手を伸ばした。
「王女様、今日はアムノン様のお加減を見舞われる日でございます。王から、アムノン様のお屋敷へ行き、目の前で菓子を作って差し上げるようにとのお言葉が届いております」
あの出来事は、まだ起きていなかった。しかしアムノンはすでに病を装い、父ダビデを通してタマルを呼び寄せている。前の時と同じなら、彼女はこのあと王の命令に従い、異母兄の屋敷で菓子を焼き、召し使いたちを追い出した部屋へ一人で残される。
「兄アブサロムを呼んで。今すぐに」
侍女が部屋を出ると、タマルは長衣を胸へ抱いた。逃げれば、自分の代わりに別の娘が呼ばれるかもしれず、何も知らないふりをして従えば、前と同じことが起きる。その後にはアブサロムの二年間の沈黙、アムノンの殺害、父への反逆、そして森の木に宙づりになった兄の死が待っていた。
ほどなくして扉が勢いよく開き、アブサロムが入ってきた。肩から流れる豊かな髪は香油で整えられ、白い長衣の腰には細身の剣が下がっている。彼はタマルの顔と、腕の中にある刺繍の長衣を見るなり、付き添いの者を全員外へ出した。
「お前も覚えているのか」
タマルは長衣を床へ落とした。アブサロムは妹へ駆け寄ったものの、肩へ触れる直前で手を止める。その手を見たタマルの体がわずかに後ろへ下がり、二人の間に人一人分の空間が残った。
「兄上は、どこまで覚えているのですか」
「アムノンを殺させたことも、父上から逃げたことも、自分が王になろうとしたことも覚えている。最後に森の木へ引っ掛かり、ヨアブの武器が胸へ入ったところまでだ」
アブサロムは剣帯を外し、床へ置いた。革の鞘が石床へ当たり、乾いた音が部屋に響く。タマルはその音に肩を揺らしたあと、裂かれていない長衣を拾い上げた。
「私は、あの部屋へ行きません」
「ああ。今度は行かせない」
「けれど、アムノンを殺さないでください」
アブサロムの顎が固くなり、床に置いた剣の柄へ一度だけ目が向いた。前の時の彼は、妹を自分の屋敷へ引き取りながら、何があったのかを詳しく尋ねず、黙っているようにと言った。その後の二年間、アムノンと同じ食卓へ座り、妹の裂かれた長衣を思い出しながら復讐の日を待ち続けた。
「では、どうする。父上はあの時、激しく怒っただけで何もしなかった。お前はこの屋敷の奥から出なくなり、アムノンは王の長男として暮らし続けた」
「今度は、二人だけで抱えません。王の妻たち、娘たち、女官、長老、それに預言者ナタンにも知らせます。父上が怒るだけで終わらせようとしても、王家の中だけでは隠せないようにします」
アブサロムはすぐには答えなかった。剣を抜くより、王子である自分が人前で父王の過ちを明らかにするほうが難しい。だが前の時に選んだ剣は、アムノンだけでなく、家来、父の民、自分の子供たち、そして妹まで傷つけていた。
「分かった。ただし、お前をアムノンの前には出さない。証拠を得るのは俺の役目だ」
「いいえ。私の言葉も必要です」
タマルは長衣を抱え直し、兄との間に残っていた一歩分の距離を自分から縮めた。以前の彼女はアブサロムの屋敷に住みながら、何を食べたいか、どこへ行きたいか、アムノンにどんな裁きを望むかを尋ねられなかった。兄に保護されても、彼女の人生を決めるのはいつも別の誰かだった。
「兄上が全てを決めれば、私はまた誰かの計画に使われるだけです。あの時、兄上は私を屋敷へ置いてくれました。でも、私の口まで閉じました」
「守るつもりだった」
「分かっています。だからこそ、今度は守ることと黙らせることを、同じにしないでください」
アブサロムは妹を見つめ、伸ばしかけた手を下ろした。彼の家で暮らしていたタマルが、夜に何を恐れ、朝に何を食べ、裂けた衣をどこへしまったのか、彼は知らなかった。復讐することばかり考え、妹がその後の人生をどう生きたいかを、一度も尋ねなかったからである。
「すまなかった。今度は、お前の声を聞く」
「では、一緒に決めましょう」
二人は低い卓の前へ膝をついた。香油の匂いが残る部屋には、遠くから羊の鳴き声と、粉をふるう侍女たちの話し声が届いている。タマルは両手を組んだものの、すぐには祈りの言葉を出せなかった。
「エホバ、私は一度、あなたに見捨てられたと思いました。私が傷つけられなければ、アムノンの罪も、父上の弱さも、兄上の復讐も明らかにならなかったからです。私たちは誰かの罪を示すために使われ、最後には捨てられる者なのだと思いました」
アブサロムは顔を伏せたまま、床に置かれた剣を見た。天井から答えが降ってくることはなく、裂かれた衣が記憶から消えることもない。それでもタマルは、閉じかけた唇をもう一度動かした。
「けれど今度は、人の悪をあなたのご意志とは呼びません。私は神の捨て駒にはなりません。兄上も、復讐の結末を示すための捨て駒にはさせません。黙らず、殺さず、正しいことを選べるよう助けてください」
祈りを終えると、アブサロムは剣を床へ置いたまま立ち上がった。タマルも裂かれていない長衣へ片腕ずつ袖を通し、胸元の留め具を自分の手で留める。二人は奇跡が起こるのを待たず、まず扉を開けて侍女たちを呼び戻した。
タマルはアムノンの屋敷へ行くことを承諾した。ただし王女が一人で王子の寝室へ入るのは礼法に反すると申し立て、侍女三人と年長の女官を同行させることを条件にする。アブサロムはアムノンの従者を訪ね、ヨナダブが病を装う方法を教え、タマルを呼ぶよう勧めたという証言を得た。
昼前、タマルたちはアムノンの屋敷へ入った。熱した鉄板へ小麦の生地を落とすと、油と蜂蜜の甘い匂いが部屋いっぱいに広がる。寝台にいたアムノンは、タマルの後ろに並ぶ女官と侍女を見るなり、眉をひそめた。
「人が多すぎる。皆を外へ出せ」
年長の女官は動かなかった。タマルの隣には水差しを抱えた侍女がおり、扉の近くにも二人が立っている。誰もアムノンへ目を伏せなかった。
「王女様をお一人にすることはできません」
「私は王子だ。命令が聞けないのか」
「王子であられても、王女様の安全を損なう命令には従えません」
アムノンは掛け布を払い、寝台から立ち上がった。病人のはずの足取りはしっかりしており、頬に熱もなければ、声にも弱々しさはない。タマルは焼き上がった菓子を載せた盆を卓へ置き、出口に近い場所へ移動した。
「兄上は、私に何をさせるおつもりでしたか。病を見舞うだけなら、皆がいても困らないはずです」
「余計なことを言うな。タマルだけ残れ」
その声を合図に隣室の扉が開いた。アブサロムと預言者ナタン、それに王宮の長老二人が入ってくる。アムノンはタマルへ伸ばしかけた手を引き、倒れた椅子のそばで立ち尽くした。
「これは罠か」
アブサロムは腰に剣を差していなかった。代わりに手にしていたのは、ヨナダブと従者の証言を記した羊皮紙だった。彼はアムノンへ殴りかからず、その羊皮紙を長老たちの前へ置いた。
「罠を仕掛けたのはどちらだ。病を装い、父上を使ってタマルを呼び、女たちを追い出そうとした理由を説明してもらおう」
アムノンは王子の権威を振りかざし、妹と二人で話したかっただけだと言い張った。しかし彼が女官たちを追い出そうとした言葉は、すでに多くの者が聞いている。タマル一人の訴えなら王家の内聞として伏せられたかもしれないが、女官、侍女、長老、預言者の前で起きたことは消せなかった。
午後にはダビデ王が呼ばれ、アムノンへの裁きが公の場で協議されることになった。玉座の間の端には王の妻たちと娘たちが並び、ナタンと長老たちはアブサロムが集めた証言を確認している。アムノンは父の前でも、まだ実行していないことで罪に問われるのかと声を荒らげた。
ダビデは玉座の前に立つタマルを見て、片手で額を押さえた。以前と同じように顔には激しい怒りが現れたものの、長男を処罰する言葉はすぐには出てこない。タマルは父の沈黙が自分の人生を決める前に、一歩前へ出た。
「父上、私を愛しているなら、怒るだけで終わらせないでください。アムノン兄上を王位継承から外し、私やほかの女性に近づけないよう命じ、長老たちの裁きに委ねてください」
「王家の恥を、民の前へさらすというのか」
「隠すべき恥は、私の身に起きかけたことではありません。それを企んだ者の行いと、それを知りながら裁かない者の沈黙です」
ダビデは王笏を握り、アブサロムへ目を向けた。アブサロムは父を責める言葉をいくつも覚えていたが、床に膝をついて頭を下げる。前の時には二年間、父が裁くのを待ち続け、待つことをやめた日に殺人を選んだ。
「父上、私は妹を傷つけようとした者を憎んでいます。けれど私に裁きを行わせないでください。私が剣を取る前に、王であるあなたが裁いてください」
広間にいた者たちは、ダビデの返答を待った。父がここでも沈黙すれば、息子は再び剣を選ぶかもしれず、娘は再び声を失う。ダビデは目を閉じたあと、王笏を玉座の脇へ立てかけた。
「アムノンを王位継承から外す。長老たちによる調査が終わるまで拘束し、王宮の外へ出してはならない。タマルへの接近を禁じ、ヨナダブを含め、企てに関わった者を全員取り調べよ」
その裁きは完全ではなく、タマルが受けかけた害に十分釣り合うものでもなかった。それでも、彼女の言葉は王の家の壁に吸い込まれず、人々の前へ残された。タマルが衣を引き裂いて灰をかぶる日は、訪れなかった。
屋敷へ戻った夜、侍女がタマルの長衣を脱がせようとすると、彼女は胸元の留め具へ両手を重ねた。衣は裂かれていないのに、指は思うように動かず、喉から息だけが漏れる。廊下で待っていたアブサロムは、侍女から様子を聞いても部屋へ入らず、閉じた扉の前へ座った。
「タマル、ここにいる。だが、お前が呼ぶまで中には入らない」
タマルは返事をせず、寝台の端に腰を下ろした。前の時に兄の屋敷へ来た夜、アブサロムは同じ屋根の下にいたが、彼女が何を話したいかを尋ねなかった。今度の兄は扉を開けず、立ち去りもせず、妹が決めるまで待っている。
「兄上。入ってください」
アブサロムが部屋へ入っても、タマルは顔を上げなかった。彼は妹から離れた床へ座り、剣を持たない両手を膝の上に置く。卓上では昼間に残った焼き菓子が硬くなり、蜂蜜の甘い匂いだけが残っていた。
「私は傷つけられなかったのに、まだあの部屋の匂いがします」
「俺も、胸に武器が入った場所が痛むことがある」
「では、何もなかったことにはならないのですね」
「ならない。だが、起きたことにこの先まで決めさせる必要もない」
タマルは硬くなった菓子を一つ取り、半分に割った。片方を口へ運ぼうとしたものの、指が途中で止まる。アブサロムは急かさず、自分へ差し出されたもう半分を受け取った。
「毒は入っていません」
「それを疑ったのではない」
「分かっています。私も、まだあの日を疑っているのです」
アブサロムが先に一口食べ、何度かかんだ。タマルはその喉が動くのを見てから、自分の菓子を少しだけかじる。冷えた生地は硬かったが、蜂蜜の味は残っていた。
「甘いな」
「明日は、温かいうちに食べましょう」
「ああ。明日も一緒に食べよう」
それから幾つもの季節が過ぎた。アブサロムはヘブロン近郊の土地を与えられ、王位を求めず、羊とオリーブ畑を管理して暮らした。朝には農夫たちと水路を見回り、夕方には豊かな髪を束ねて収穫量を記録し、人々の心を父から盗むためではなく、目の前の暮らしを整えるために話術と人を引きつける力を使った。
タマルは兄の屋敷の奥へ閉じこもらなかった。王の娘や家臣の妻、召し使いの女性たちが相談できる部屋をエルサレムに設け、訴えを一人で王の前へ持っていかなくてもよい仕組みを作る。中庭では少女たちが焼き菓子を習い、その隣の部屋では、女官たちが女性の証言を羊皮紙へ書き留めていた。
ある春の日、タマルはアブサロムの畑を訪れた。食卓には焼いた魚、レンズ豆の煮物、オリーブ、蜂蜜を塗った薄焼きの菓子が並んでいる。庭では、兄が自分の妹と同じタマルという名を付けた幼い娘が、落ちたオリーブの実を籠へ集めていた。
「兄上、髪に枝がついています」
「木に捕まるのは、もうこりごりだ」
アブサロムが髪から小枝を取り、子供たちは意味も分からず笑った。彼も声を立てて笑い、武器の傷が一つもない胸でゆっくり息をする。タマルは焼き菓子を半分に割り、兄の皿へ載せた。
別の時の流れでは、その胸を三本の武器が貫いていた。アブサロムの体は森の大穴へ投げ込まれ、その上には大きな石の山が築かれた。知らせを受けたダビデはひどく動揺し、門の上の屋上の部屋へ向かって歩きながら泣いた。
「わが子アブサロム、わが子、わが子アブサロム! 私が代わりに死ねばよかったのに。わが子、わが子アブサロム!」
生きている間に幾度も呼べたはずの名を、父は返事ができなくなった息子へ繰り返した。その声をアブサロムが聞くことはなく、言葉の届かない森には、積み上げられた石だけが残った。
「お父様、こちらへ来て。オリーブの実がたくさん落ちています」
今、その名を呼んだのは庭にいる娘のタマルだった。アブサロムは椅子から立ち上がり、食卓を回って日の差す庭へ降りる。父の呼び掛けには答えられなかった男が、今は娘の声に振り返った。
「ああ、今行く」
娘が差し出した籠を受け取り、アブサロムはオリーブの木の下へ膝をついた。枝へ髪が触れると、幼いタマルが小さな手でそれを払い、今度は父が娘の頭についた葉を取る。二人の笑い声が畑を渡り、食卓に残された杯からは薄い湯気が立っていた。
タマルは蜂蜜のついた指を布で拭い、兄と同じ名を持つ姪を見つめた。裂かれなかった長衣をまとい、灰をかぶることなく生きてきた年月が、畑、水路、焼き菓子、子供たちの声となって目の前にある。それでも彼女は、最初の人生で声を奪われた自分を忘れなかった。
「私たちは、神の捨て駒ではなかったのですね」
アブサロムは娘の籠を持って食卓へ戻り、タマルの向かいへ座った。彼は妹が半分に割った菓子を取り、一口かじる。以前と同じ蜂蜜の味がしても、そこは閉ざされた寝室ではなく、春の日が差し込む家族の食卓だった。
「最初から違ったのだろう。人が罪を選び、別の人間が黙り、俺は剣を選んだ。その結果を、俺たちは神が定めた運命だと思い込んでいた」
「では、あの苦しみには意味があったのでしょうか」
「俺には、そう言えない。お前が傷つけられたことへ、あとから立派な意味を付けたくはない」
タマルは兄の答えを聞き、卓上に置いていた手をゆっくり開いた。アブサロムは神の代わりに答えず、妹の苦しみを自分の復讐の理由にも変えなかった。彼はただ、タマルが次に話す言葉を待っていた。
「神が私を捨て駒にしたのではありません。人が私を黙らせ、その罪を神の物語にしてしまったのですね」
「ああ。だから今度は、俺たちの間に沈黙を置かない」
庭から娘のタマルが父を呼び、アブサロムは今度も「ああ」と返事をした。妹はその声を聞きながら兄と並んで頭を下げ、奪われなかった年月をこれからも正しく使えるよう祈る。食卓には半分ずつ食べた焼き菓子が残り、開いた窓から、オリーブの葉を揺らす風が入ってきた。




