特区の雛
液晶画面に躍る「10,000,000」の数字を指先でなぞったとき、蓮見由香理の胸を押し満たしたのは、達成感というよりも冷たく澄んだ安堵だった。
東京湾岸の埋め立て地に造られた「特定少子化対策推進特区——第08工区」。通称『ハチノス』。
外部の雑然とした街並みとは対照的に、一糸乱れぬグリッド状に配置された白い高層マンション群。その一角にある由香理の住居の角部屋からは、全面ガラス張りの窓を通して、整然と打ち寄せる人工波の海岸線が一望できた。
電子音が小さく鳴り、リビングの大型モニターが静かに起動する。
『蓮見様、おめでとうございます。第二子出生届の受理および、特区育成特別給付金1,000万円の口座振り込みが完了いたしました。本通知をもちまして、お子様の初期育成フェーズが開始されます』
無機質だがどこか慈愛を孕んだAIコンシェルジュ『ヘスティア』の合成音声。
由香理は隣に置かれた最新型の自動スイングベビーベッドへと視線を落とした。生後わずか三日の小さな命——結愛が、最適な温度と湿度に保たれたカプセルの中で静かな寝息を立てている。ベッドのフレームに埋め込まれたセンサーストリップが緑色に点滅し、心拍数、血中酸素濃度、体温、脳波の安定度をリアルタイムで画面に刻み続けていた。すべて「正常値」。完璧な健康状態を示すインジケーターだ。
「……1000万、本当に一括で入るもんだな」
リビングのドアが開き、夫の憲司が入ってきた。大手IT企業の特区支社でデータアナリストを務める彼は、端末の画面を確かめながら、どこかあっけらかんとした声を漏らす。
「外の奴らが聞いたら狂喜乱舞するだろうな。一昔前なら『子ども一人で家が買える』だの何だの騒いでたのが、今や生まれた瞬間にこれだ」
「外の人間には関係のない話よ」
由香理は手元の白磁のカップに視線を落としながら、静かに言った。
「遺伝子スクリーニングをパスして、IQとストレス耐性の適性値をクリアして、このハチノスに選ばれたから支給されるの。これは単なる『お祝い金』じゃないわ。国家からの期待であり、優秀な資質に対する先行投資なのよ」
「わかってるさ。だからこそ、期待には応えなきゃな」
憲司は誇らしげに微笑み、ベビーカーの横に立つ長男——三歳になる翔の頭を撫でた。翔は知育タブレットの画面を巧みな指さばきで操作し、三歳児向けとは思えない高度な図形パズルを淡々と解き進めている。
完璧な家庭。完璧な環境。そして、完璧なインセンティブ。
かつて日本を滅ぼしかけた「少子化」という病は、この特区においては完全に克服されたかのように見えた。お金に困ることはない。医療費も教育費も、食費すらも手厚いポイントで賄われる。親がなすべきことはただ一つ、提示されたガイドラインに従い、健やかで優秀な「次世代」を育て上げることだけだ。
だが、そのとき。
チコン、と控えめな電子音がリビングに響いた。
『通知:長男・翔様のバイタルデータにわずかな揺らぎを検知しました。集中力指標が直近14日間の平均値を2.3%下回っています。本日15時までに、予防的カウンセリングの受診を推奨します』
モニターの端に点滅し始めた、小さく黄色いアラート表示。
憲司の撫でていた手が、ぴたりと止まった。翔は何が起きたかも理解していない様子で、無表情のままパズル画面を指で叩き続けている。
「……2.3パーセント?」
憲司の呟きに、先ほどまでの明るい響きはなかった。顔からすっと血の気が引いていくのがわかる。
「大丈夫よ、ただの寝不足か何かよ。すぐ調整すれば消えるわ」
由香理は自分に言い聞かせるように素早く言い、端末を操作して予約を入れた。
窓の外、雲ひとつない青空の下で、白い街はどこまでも静まり返っている。排気音も、子どもの泣き声すら聞こえない。完璧にコントロールされたこの楽園で、由香理は背筋を撫で上げていく微かな寒気を、気のせいだと思い込もうとしていた。
口座に振り込まれた1000万円という数字は、まだ輝いている。
それが、自分たちを縛りつける「価格」であることに、彼女はまだ気づいていなかった。




