第29話 天然温泉の発見と、覗き見防止結界
「……臭い。ねえナオト、さっきから異様に臭くない?」
「我慢しろ。腐った卵の臭いだろ? 硫化水素だ」
「硫化水素!? 毒ガスじゃない! ガスマスク出して!」
「濃度は低い。致死量じゃないから安心しろ。……むしろ、これは吉兆だぞ」
「吉兆? この鼻が曲がりそうな悪臭が?」
「ああ。硫黄の臭いがするってことは近くに火山活動がある。そして地下水脈があれば……」
「……あ」
ミオの表情が変わった。
嫌悪感に満ちていた顔が、パァッと輝き、希望に満ちた女神のような微笑みに変わる。
「……まさか、温泉?」
「ビンゴだ。マップによれば、この岩山の裏手に間欠泉地帯がある。天然の露天風呂が湧いてるはずだ」
「キャァァァッ! ナオト大好き! 結婚して!」
「お断りだ。……ほら、着いたぞ」
ドロロロロ……。
トライクが岩場を回り込むと、そこには別世界が広がっていた。
荒涼とした赤茶けた大地の一角にエメラルドグリーンの湯を湛えた巨大な岩風呂が鎮座している。
湯面からは真っ白な湯気が立ち上り、周囲の岩肌には硫黄の華が黄色く咲いていた。
「うわぁ……! 天国! 地獄の荒野に天国があった!」
「源泉かけ流し、温度は42度。泉質は酸性緑礬泉。殺菌作用が強くて、皮膚病や切り傷に効く」
「最高じゃない! 昨日の戦闘で擦り傷だらけだったのよ! 美肌効果もある?」
「あるだろうな。……よし、周囲に敵影なし。クリアだ」
「じゃあ入る! 今すぐ入る! 3秒で入る!」
ミオがトライクから飛び降り、ベルトのバックルに手をかける。その目は完全に理性を失っていた。
「待て待て! 脱ぐな! ここをどこだと思ってる!」
「温泉でしょ?」
「無法地帯のど真ん中だ! 無防備に裸を晒したら、モンスターの餌食になるぞ!」
「えぇ〜……。でも入りたい……。泥だらけなの……」
「……はぁ。分かった。俺が見張りをする」
「ホント!? ナオト、愛してる!」
「ただし条件がある。俺は風呂には入らん。岩陰で背中を向けて警戒にあたる。……いいかミオ、絶対に覗くなとか言うなよ? こっちは命懸けで警備するんだからな」
「信用してるわよ! 私の裸なんて見飽きてるでしょ?」
「見たことねえよ! 語弊のある言い方をするな!」
「はいはい。じゃあ結界をお願いね。覗き見防止のやつ」
「……へいへい」
ナオトはトライクから数本の杭とロープを取り出し、温泉の周囲に展開した。 簡易的な結界陣だ。
「設置完了。半径20メートル以内に何かが侵入したら、俺の端末にアラートが鳴る。……俺はあっちの岩の後ろにいるから、何かあったら叫べ」
「了解! ……あ、ナオト」
「なんだ」
「背中流してほしくなったら呼ぶわね」
「呼ばんでいい! セルフサービスだ!」
◇ ◇ ◇
チャポン……。
「……はぁ〜〜〜〜……」
極上の吐息が湯煙の中に溶けていく。
ミオは肩までお湯に浸かり、岩の縁に頭を預けていた。
荒野の乾いた風が火照った頬を撫でていく。
「……生き返るぅ……。HPもMPも全回復……」
昨日のスケルトンとの死闘、その前の賞金稼ぎとのカーチェイス。
蓄積した疲労がお湯に溶け出し、体の芯から力が抜けていく。
肌にこびりついた砂埃も、魔獣の血の臭いも、すべて洗い流されていくようだった。
(……ナオトのやつ、真面目に見張りしてるわね)
岩陰の方を見ると、ナオトが背中を向けて座り込み、タブレット端末を凝視しているのが見えた。本当にこっちを見ようともしない。
(……ま、紳士協定ってやつよね。……ふふっ、この開放感、最高!)
ミオはバシャバシャとお湯を跳ね上げた。その時――。
キキッ。
「……ん?」
湯気の中で何かが鳴いた気がした。
鳥の声? それとも風の音?
(……気のせいか。こんな硫黄臭いところに動物なんていないわよね)
ミオは再びお湯に体を沈める。しかし。
バシャッ!
「ひゃっ!?」
突然、目の前のお湯が弾けた。何かが飛び込んだ音だ。
しかし、何も見えない。
「な、なに? 石が落ちてきた?」
ミオが周囲を見回すが、湯気が濃くて視界が悪い。
その湯気の向こうで、クスクスという笑い声のような音が聞こえた。
キキッ! ウキッ!
「……誰!?」
ザバァッ!
ミオが立ち上がろうとした瞬間、岩場に置いてあった自分の服が、ふわりと宙に浮いた。
「えっ!?」
インナーウェア、スカート、そして大事な下着までもが、まるで透明人間に持ち上げられたかのように空を舞う。
「き、きゃあああああっ! ドロボーッ!!」
◇ ◇ ◇
「ッ!? 敵襲か!?」
ミオの悲鳴を聞き、岩陰にいたナオトが弾かれたように立ち上がった。
手にはすでに短機関銃 (に見せかけた連射式クロスボウ)が握られている。
「ミオ、どうした! 敵か!」
「ナオトォォ! 服が! 私の服が盗まれるぅぅ!」
「服だと!? ……まさか覗きか!?」
ナオトは反射的に温泉の方へ走り出そうとして――寸前で足を止めた。そして、くるりと背を向けた。
(……待て。振り返ったら社会的な死だ。俺のSAN値もミオの信頼度もゼロになる)」
「なにやってんの! 早くして! パンツが! 勝負パンツが持っていかれるぅ!」
「状況を報告しろ! 敵の姿は!」
「見えないの! 透明人間よ! お化け!」
「透明……? 湯気の中で透明化……まさか!」
ナオトの脳内データベースが検索結果を弾き出す。
霧隠れ猿。火山地帯に生息する魔獣で、蒸気を纏って光を屈折させ、姿を消す能力を持つ。手癖が悪く、光るものや布切れを収集する習性がある。
「サルだ! ミスト・モンキーの群れだ!」
「サルぅ!? ただのエロ猿じゃない! ぶっ殺してやる!」
「待てミオ! 魔法を撃つな! 岩風呂が崩壊する!」
「じゃあどうすんのよ! 私、今すっぽんぽんなのよ! 動けないわ!」
(……クソッ、無理ゲーすぎる! 見えない敵を、見ちゃいけない味方を守りながら倒せだと!?)
ナオトは脂汗を流しながら、空を仰いだ。
敵の位置は把握できない。
ミオの方を向けばアウト。
しかし、このままではミオの装備一式 (と尊厳)が奪われ、彼女はこの先ずっと裸にローブ一枚で旅をすることになる。
(……やるしかない。心の目で見ろ!)
ナオトは背中の気配に全神経を集中させた。
「ミオ! お湯の中に潜れ! 顔だけ出してろ!」
「潜ってるわよ! ブクブク言ってるわよ!」
「よし! ……アイテム使用! 着色弾!」
ナオトは腰のポーチから、極彩色の液体が入った小瓶を数個取り出した。
そして、背後の温泉エリアに向けて、ノールックで放り投げる。
――投擲スキル・判定成功。
パリーンッ! パリーンッ!
空中で瓶が割れ、鮮やかなピンクとブルーの塗料が飛び散った。
湯気の中に毒々しい色の霧が広がる。
キキッ!? ギャッ!?
塗料を浴びた空間に突如としてサルのシルエットが浮かび上がった。
透明化能力が物理的な塗料によって無効化されたのだ。
「見えたわよ! ピンク色の変態猿どもめ!」
「位置は!?」
「3時の方向、岩の上! 私のパンツ被ってるのがボスよ!」
「パンツ被ってんのかよ! ……よし、座標確認!」
ナオトは背を向けたまま右手を上げた。指先から魔力を放出する。
「エア・ハンマー! ……食らいやがれ!」
ドォォォン!!
圧縮された空気の塊がナオトの背後へ向けて射出された。
見事なコントロールで、岩の上のボス猿を直撃する。
「グギャアアッ!?」
ボス猿が吹き飛び、手に持っていた (そして頭に被っていた)衣類が放り出される。
下着とシャツが、ひらひらと空中に舞った。
「ミオ! 回収だ!」
「任せて! ……マジック・ハンド!」
ミオがお湯の中から魔法の手を伸ばし、落下してくる服を空中でキャッチした。
「確保! ……ふぅ、危なかった」
しかし、まだ終わっていない。塗料を浴びて怒り狂った残りのサルたちが、一斉にナオトの背中に襲いかかってきた。
キキキッ!
「ナオト、後ろ! 群れがそっちに!」
「チッ、こっちに来るか! だが、好都合だ!」
ナオトは振り返らない。代わりに、足元に仕掛けておいた結界杭のスイッチを入れた。
「起動! 対変態用・電撃結界!」
バチバチバチッ!!
ナオトと温泉の間、境界線上に青白い電撃の壁が出現した。
突っ込んできたサルたちが、次々と電気ショックを受けて弾き飛ばされる。
ギャウッ! ギュウッ!
「黒焦げになりたくなければ失せろ! 俺の背後には誰も通さん!」
(……かっこいいこと言ってるけど、結局こっち向きたくないだけでしょ)
感電してピクピクしている仲間を見て、ミスト・モンキーたちは戦意を喪失したようだ。キーキーと捨て台詞を吐きながら、岩山の彼方へと逃げ去っていった。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ。撤退したか」
ナオトは電撃結界を解除し、ようやく息をついた。
「ミオ、無事か? 服は?」
「……無事よ。ちょっとペンキがついちゃったけど」
「洗濯すれば落ちる特殊染料だ。……着替えたか?」
「まだよ」
「……早くしろ。風邪引くぞ」
「ねえナオト」
「なんだ」
「……まだこっち向いちゃダメよ?」
「向かねえよ! 石になる呪いでもかかってると思って我慢してるわ!」
「ふふっ。……ありがとう。守ってくれて」
背後で衣擦れの音がした。濡れた肌を拭う音、布が肌に触れる音。
ナオトの聴覚判定が自動成功しそうになるのを、必死の理性判定でねじ伏せる。
それは魔獣との戦闘以上に過酷な精神的ダメージだ。
「……よし、着たわよ! 振り返ってよし!」
ナオトが恐る恐る振り返ると、そこには髪を濡らし、上気した肌をしたミオが立っていた。
ボロボロのローブの代わりに、さっき取り返した清潔なシャツを着ている。
湯上がり特有の艶かしさにナオトは一瞬だけ目を奪われ――すぐに視線を逸らした。
「……ん? なに赤くなってんの?」
「温泉の熱気がこっちまで来ただけだ。……行くぞ。サルが仲間を呼んでくるかもしれん」
「えぇー? ナオトは入らないの? 気持ちいいわよ?」
「入るか! これ以上寿命を縮めてたまるか!」
ナオトは機材を乱暴に回収し、トライクに跨った。心拍数がまだ落ち着かない。
「……意気地なし。でも、さっぱりしたぁ!」
ミオが濡れた髪をかき上げ、トライクの後部座席に飛び乗る。
ふわりと硫黄の臭いと石鹸の香りが混じった、甘い匂いがナオトの鼻をくすぐった。
「……まあ、悪くない休憩だったな」
「でしょ? 次は混浴でもいいわよ?」
「謹んで辞退する! ……出発!」
ドロロロロ……!
トライクが荒野を走り出す。背後には湯煙。そして、全身ピンク色に染まったサルたちが恨めしそうに見送っていた。
覗き見防止と理性の防衛ミッション、コンプリート。
二人の旅は少しだけ清潔になって続いていく。




