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呪壊の陰陽師 ―霊力ゼロの陰陽師が最強の妖狐と結ぶ仮初の契約―  作者: 仁科異邦
水瀬家編

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旅立ちの前に

 本家の奥。

 夜支度の気配から少し離れた、小さな和室に灯りがともっていた。


 ナギサの母は、畳の上に静かに座っていた。

 年相応の落ち着いた佇まいだが、その目の奥には、消えない哀しみがある。


 「……行くのね」


 ナギサは一瞬だけ視線を伏せ、それから頷いた。

 「ええ」


 母はゆっくりと息を吸い、障子の向こうを見る。

 そこに、もう戻らない娘――マトリの姿を重ねるように。


 「マトリはね……」

 言葉が、途中で切れた。

 それでも母は、逃げずに続ける。


 「あなたと同じで、優しい子だった。

 誰かのために傷つくことを、怖がらない子」


 ナギサの指先が、きゅっと強く握られる。


 「……どうして、助けられなかったのって」

 小さく漏れた声は、娘の本音だった。


 母は首を横に振る。

 「それは違うわ」


 ゆっくりと、しかしはっきりと。


 「玄弥くんは、マトリを殺したんじゃない。

 戦いの中で、守ろうとして……それでも届かなかっただけ」


 ナギサは顔を上げる。

 驚きと戸惑いが混じった表情で。


 「……お母さんは、赦せるの?」


 母は少しだけ目を閉じ、そして答えた。


 「赦す、というより……恨み続けても、マトリは戻らないもの」

 「それにね」


 母は微かに、ほんの少しだけ微笑んだ。


 「マトリが、玄弥くんを想っていたこと。

 あなたも……感じているでしょう?」


 ナギサは、何も言えなかった。

 胸の奥に流れ込む、懐かしい感情――

 マトリの、あたたかくて、まっすぐな気持ち。


 母は立ち上がり、ナギサの前に立つ。

 「迷っていいのよ」


 そっと、娘の肩に手を置く。


 「恨んでしまう自分も、信じたいと思う自分も、どちらもあなた」

 「答えは……戦いの先で、見つけなさい」


 ナギサの目が、わずかに潤む。

 「……はい」


 母は頷き、静かに言った。


 「行っておいで。

 あなた自身の気持ちを、置き去りにしないように」


 その言葉を胸に、ナギサは立ち上がった。

 もう一度だけ振り返り、深く頭を下げる。


 そして――

 玄弥と共に、夜へ向かう準備を終えた。

 

 本家の廊下。

 夜の静けさが、屋敷全体を包んでいた。


 玄弥は、部屋の前で立ち止まっていた。

 中にいるのが誰かは、分かっている。


 ――マトリの、母。


 障子の向こうから、微かな衣擦れの音がした。


 「……入って」


 低く、穏やかな声。


 玄弥は一度、拳を握りしめてから、障子を開けた。


 部屋の中は簡素だった。

 灯りの下に座る女性は、背筋を伸ばし、静かに玄弥を見ている。


 その目は――

 責めるでも、憎むでもない。

 ただ、深い哀しみを湛えていた。


 「……お時間をいただき、ありがとうございます」


 玄弥が頭を下げると、母はゆっくり首を振った。


 「いいえ。

 あなたと、話しておくべきだと思っていたから」


 一瞬の沈黙。


 母は、手元の湯飲みに視線を落とす。


 「マトリはね……」

 「昔から気弱な子だったわ」


 小さく、苦笑するように。


 「いつも内気でだった」

 母は、そこで言葉を止めた。

 しばらくして、静かに息を吐く。


 「……親としては、つらいわ」

 「娘が帰らない現実を、受け入れるのは」


 玄弥は、深く頭を下げた。


 「……俺が、至らなかったせいです」

 「マトリを――」


 「違う」


 母の声は、はっきりとしていた。


 玄弥が顔を上げる。


 「あなたが守ろうとしたことも、

 マトリが選んだことも……私は、否定しない」


 その言葉に、玄弥の喉が詰まる。


 「恨めば、少しは楽になるのかもしれないわ」

 「でもね」


 母は、玄弥をまっすぐ見た。


 「マトリは、あなたを恨んでほしくて命を懸けたんじゃない」


 沈黙が、重く落ちる。


 やがて、母は話題を変えるように言った。


 玄弥の背筋が、無意識に伸びた。


 「ナギサはまだ、迷っているでしょう。

 怒りも、怖さも、全部抱えたまま」


 「……はい」


 母は、少しだけ微笑む。

 それは、姉を見るような、優しい表情だった。


 「あなたにお願いがあります」


 そう言って、母は静かに頭を下げた。


 「ナギサを……よろしくお願いします」

 「無理に前を向かせなくていい。

 ただ、隣にいてあげて」


 玄弥は、一瞬言葉を失い――

 そして、深く、深く頭を下げた。


 「……必ず」

 「命に代えても、守ります」


 母は首を振る。


 「命に代える必要はないわ」

 「生きて、帰ってきなさい」


 その言葉に、玄弥は強く頷いた。


 部屋を出る時、背後から声がかかる。


 「玄弥くん」


 振り返ると、母は静かに言った。


 「マトリは、あなたを誇りに思っていた」

 「……それだけは、忘れないで」


 玄弥は、何も言えず、ただ深く頭を下げた。


 その背中を見送りながら、

 母は小さく、胸の奥で娘の名を呼んだ。

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