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呪壊の陰陽師 ―霊力ゼロの陰陽師が最強の妖狐と結ぶ仮初の契約―  作者: 仁科異邦
水瀬家編

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当主としての苦悩

 本家屋敷の奥。

 誰も使わない回廊の先に、地下へと続く階段が口を開けていた。


 石段は古く、踏みしめるたびに低い音を返す。

 空気は冷え切り、肌にまとわりつくように重い。


 封印の間――

 そのさらに奥に、小さな扉があった。


 装飾はなく、ただの木扉。

 だが、そこから漏れ出す霊の気配が、この場所が普通ではないことを物語っている。


 当主が、ゆっくりと扉に手をかけた。


 「……ここだ」


 軋む音と共に、扉が開く。


 小部屋の中央。

 簡素な祭壇のような石台の上に、一人の女性が横たわっていた。


 白い衣。

 長く伸びた黒髪。

 眠っているようで、けれど――呼吸が、あまりにも浅い。


 水瀬家当主の妻。

 破邪の封印を維持するため、人柱としてこの部屋に縛られていた存在。


 彼女の周囲には、複雑な封印陣が幾重にも刻まれ、淡い光を放っている。

 その光が、今、わずかに揺らいでいた。


 「……破邪は、完全に消えた」


 当主の声は、低く、かすれている。


 「もう、この封印を保つ必要はない」


 合図とともに、術式が解かれていく。


 一つ、また一つ。

 鎖のように絡みついていた霊符が、静かに消えていく。


 そのたび、部屋の空気が少しずつ軽くなる。


 女性の指先が、かすかに動いた。


 「……っ」


 胸が、上下する。

 止まりかけていた命が、ゆっくりと現実に引き戻されていく。


 封印陣が完全に消えた瞬間。


 彼女は、浅く息を吸い――

 初めて、人としての呼吸を取り戻した。


 「……あ……」


 か細い声。


 長い、長い時間。

 意識だけを残したまま、役目として眠らされていた存在。


 当主は、石台の傍に膝をついた。


 その背は、年老いて見えた。


 「……すまない」


 誰に向けた言葉なのか、分からない。


 妻は、ゆっくりと瞼を開く。

 焦点の合わない瞳が、しばらく宙を彷徨い――やがて、当主を捉えた。


 「……終わった、の……?」


 囁くような声。


 当主は、短く頷いた。


 「ああ。もう……終わった」


 その瞬間。

 張り詰めていた何かが、静かに崩れ落ちた。


 小部屋に残ったのは、二人だけだった。


 当主は、石台の傍に座り込んだまま、しばらく言葉を探していた。

 解かれた封印の痕が、床に淡く残っている。


 「……すまなかった」


 ようやく絞り出した声は、震えていた。


 「お前を……こんな場所に縛り付けて」

 「人としての時間を、奪って」


 妻は、ゆっくりと首を振る。


 「いいえ」


 その声は弱々しいが、確かだった。


 「あなたが選んだわけではないでしょう」


 当主は唇を噛みしめる。


 「だが……当主として、夫として……」

 「守ると誓ったのに、私は……」


 言葉が、続かなかった。


 妻は、ゆっくりと体を起こし、当主の手にそっと触れる。

 長い眠りのせいで冷たい指先が、かすかに震えていた。


 「破邪は……倒されたのでしょう?」


 「ああ」


 短く答える。


 「なら……もう、憂いはありません」


 その言葉に、当主は顔を上げた。


 「私は、役目を果たしました」

 「そして今、こうして戻れた」


 微笑みは、穏やかだった。


 「それで十分です」


 当主の肩が、小さく揺れた。


 「……ありがとう」


 誰に向けた感謝なのか。

 妻なのか、運命なのか。


 それとも――


 当主は、ゆっくりと立ち上がる。


 「……西園寺玄弥」


 その名を、静かに口にした。


 「彼が破邪を倒したことで、すべてが終わった」


 玄弥の姿を思い浮かべる。

 まだ若く、すべてを背負わされている少年。


 「感謝せねばならぬな」


 当主は、深く息を吐いた。


 「封印を維持するためには……女の犠牲が必要だった」

 「それが、この家の“現実”だった」


 代々の当主たち。

 誰一人として、この選択を望んだ者はいない。


 だが、破邪を放つこともできず、

 封印を解くこともできず――


 「ただ、維持するだけで精一杯だった」


 命を差し出し、時間を止め、

 次代へと責任を押し付けるしかなかった。


 妻は、静かに頷く。


 「だからこそ……彼が来たのでしょう」


 当主は、目を閉じる。


 「……ああ」


 西園寺家を“不要”と切り捨てた過去。

 それでもなお、その血が、この結果をもたらした皮肉。


 「玄弥には……礼を言わねばならん」


 それは当主としてではなく、

 一人の男としての言葉だった。


 小部屋には、もう封印の重さはない。


 だがその代わりに、

 決して消えない選択の記憶だけが、静かに残っていた。


執務室。


 分厚い障子越しに差し込む夕暮れの光が、畳の上に長い影を落としていた。

 古い書棚、掛け軸、香の残り香。

 ここが水瀬家の「中枢」であることを、嫌というほど感じさせる空間だ。


 玄弥は、正座したまま静かに待っていた。


 やがて、襖が開く。


 当主が、ゆっくりと中へ入ってきた。


 背筋は伸び、表情は硬い。

 だが、その歩みには、どこか迷いが混じっている。


 当主は、玄弥の正面に立つと――


 何も言わず、そのまま腰を折った。


 深く。

 迷いのない、完全な謝意の形で。


 「――礼を言う」


 額が畳につくほどの、深い礼。


 玄弥は、思わず目を見開いた。


 「……っ、やめてください」


 声が、少しだけ上ずる。


 「当主様が、そんな……」


 だが、当主は顔を上げない。


 「これは、水瀬家当主としてではない」


 低く、はっきりとした声。


 「一人の男として」

 「一人の夫としてだ」


 しばしの沈黙。


 当主は、ゆっくりと顔を上げる。

 その目には、威圧も、試す色もなかった。


 「お前が破邪を倒したことで」

 「長く続いた犠牲は、終わった」


 玄弥は、拳を膝の上で握りしめる。


 「……俺は、ただ」

 「目の前の敵を倒しただけです」


 当主は、首を振った。


 「それができなかった」


 静かな否定。


 「代々の当主は、皆そうだった」

 「倒せず、解けず、ただ……維持するしかなかった」


 守るために、選び続けた犠牲。

 選び続けてしまった現実。


 「我々は、選択を先送りにし続けた」

 「その結果が……あの小部屋だ」


 玄弥は、視線を伏せたまま、何も言えない。


 当主は、再び背筋を伸ばす。


 「西園寺玄弥」

 「お前は、我々ができなかったことをやった」


 そして、はっきりと告げる。


 「感謝している」


 それは、命を救われた者の言葉だった。


 「……俺は」


 玄弥は、少しだけ言葉を探してから、口を開く。


 「誰かが犠牲になる形は、嫌です」

 「それが正しいって言われても……納得できない」


 当主は、目を閉じる。


 「……そうだろうな」


 短い、苦い笑み。


 「だからこそ、お前は危うい」

 「だが――」


 目を開き、玄弥を見る。


 「今は、それでいい」


 執務室に、静かな沈黙が落ちた。

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