閑話 恐怖
……分からない。
私は、瓦礫の下敷きになりかけたその場所から、しばらく動けずにいた。
ほんの一瞬。
あの時、確かに――死ぬと思った。
崩れ落ちた天井。
逃げ場もなく、声も出なくて。
なのに。
気づいたら、目の前に白い背中があった。
庇うように、覆いかぶさるように。
まるで、当然みたいに。
……どうして。
どうして、あなたが。
私はあなたを恨んでいる。
それは、今も変わらない。
マトリは死んだ。
あなたがそこにいて、助けられなかった。
それだけで十分な理由のはずなのに。
――なのに。
(なんで、そんな顔するの)
血を流しているくせに。
痛いはずなのに。
守れたなら、それでいい、なんて。
そんな言葉を、どうして平然と言えるの。
マトリは、優しかった。
誰にでも笑って、誰よりも先に手を差し伸べる子だった。
……あなたのことも、好きだった。
それを、私は知っている。
理由なんて分からない。
でも、ある日から、マトリの気持ちが流れ込んでくるようになった。
不安も。
期待も。
それから――あなたを見つめる、あの感情も。
だから、余計に分からなくなる。
憎むべき相手のはずなのに。
拒絶しなきゃいけない相手なのに。
今、胸の奥で揺れているこの気持ちは、何?
(……嫌だ)
こんな風に、迷うなんて。
マトリを失った事実は消えない。
あなたが間に合わなかった事実も。
それなのに。
瓦礫の下で、
あの背中を見た瞬間――
ほんの一瞬だけ、
「助かった」と思ってしまった。
そのことが、どうしようもなく腹立たしい。
……分からない。
本当に、分からなくなってしまった。
私は、あなたを許せない。
それでも。
今のあなたを、
ただの「憎むべき存在」だと言い切れなくなっている自分が――
一番、嫌だった。
「……もう、大丈夫です」
私の声は、思ったよりも冷たく響いた。
心配そうに覗き込んでくる視線から、一歩距離を取る。
これ以上、近づかないで。
「驚いただけですから。怪我もありませんし」
淡々と。
事務的に。
感情なんて、最初から存在しなかったみたいに。
「……本当にか?」
トウヤが念を押す。
私は小さく頷いた。
「ええ。騒ぐほどのことではありません」
そう言い切ってから、視線だけを玄弥に向ける。
――あなたは、まだ血を流している。
それなのに、何もなかった顔で立っているのが、どうしようもなく腹立たしい。
「……あなたも」
声が、ほんの少しだけ尖った。
「無茶をする癖、直した方がいいと思います」
責めているようで、突き放すような言葉。
それ以上、続けない。
礼儀正しく、距離を保って。
それが、今の私にできる精一杯だった。
「さっきのことは……偶然です」
助けられた事実を、切り捨てる。
「誰がそこにいても、同じことをしただけでしょう」
――そうであってほしい。
そうじゃないと、困る。
玄弥は何か言おうとしたみたいだったけど、私はそれを待たなかった。
「失礼します」
軽く頭を下げて、踵を返す。
背中を向けた瞬間、胸の奥がきしんだ。
……振り向かない。
今、振り向いたら。
きっと、全部溢れてしまう。
だから私は、冷たい仮面を被ったまま、その場を離れた。
誰にも見えないところで、
自分の感情が、まだ収まっていないことを知りながら。
誰の気配もない回廊まで来て、ようやく足を止めた。
……静か。
夜の水瀬本家は、音が無さすぎて怖い。
灯りに照らされた柱の影が、やけに長く伸びている。
その瞬間。
手が、震えた。
「……っ」
ぎゅっと握り締めても、止まらない。
指先から、力が抜けていく。
さっきの光景が、勝手に脳裏に浮かぶ。
崩れ落ちる天井。
迫ってくる瓦礫。
――そして、その前に立ち塞がった背中。
もし、あの時。
ほんの少しでも遅れていたら。
ほんの少しでも判断を誤っていたら。
私の代わりに――
あの人が、倒れていたかもしれない。
「……やめて」
想像を振り払おうとしても、止まらない。
血の気が引く。
胸の奥が、冷たくなる。
――死。
その言葉が、頭をよぎっただけで、喉が詰まる。
マトリの顔が浮かぶ。
青い瞳。
いつも隣にいた横顔。
笑って、怒って、当たり前みたいに生きていた――妹。
あの子は、もういない。
「……また、失うところだった……?」
声が、掠れた。
違う。
同じじゃない。
分かってる。
分かっているはずなのに。
“誰かが私の代わりに死ぬかもしれない”
その可能性を、私は一度、現実で見てしまった。
だから――怖い。
玄弥が、あまりにも当たり前みたいに命を差し出すのが。
守るって、そういうことじゃない。
それでも、彼は迷いもしなかった。
手の震えが、強くなる。
「……なんで、そんな顔で立っていられるの……」
傷を負っても。
責められても。
拒まれても。
まるで、それが当然だと言うみたいに。
――マトリも、きっと。
同じように、誰かを想って。
同じように、無理をして。
それで、帰ってこなかった。
胸が、きりきりと痛む。
私は、壁に背を預けて、ゆっくりと息を吐いた。
冷たい仮面の下で、
感情が、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
恨みなのか。
恐怖なのか。
それとも――
「……分からない……」
ただ一つ確かなのは。
もう二度と、
“誰かの死を想像してしまうほど近くにいる存在”を、
簡単に受け入れてはいけない、ということ。
そう思わないと――
私は、きっと壊れてしまう。




