水瀬本家にて1
京都駅に降り立つと、空気がはっきりと違った。
同じ夏のはずなのに、湿り気の奥に冷たい張りつめたものがある。
古い街特有の匂い――いや、それだけじゃない。
「……結界の層が多いな」
玄弥が小さく呟く。
「気づくか」
隣を歩く水瀬トウヤが、わずかに目を細めた。
「水瀬本家へ向かう道は、段階的に張られている。
部外者は無意識のうちに避けるようになっている」
『ふむ。陰湿じゃの』
玄弥の背後、誰にも見えない葛葉が腕を組む。
『だが、古い家らしい。嫌いではない』
細い路地を抜け、車に乗り換える。
窓の外を流れる町並みは美しいが、どこか息が詰まる。
沈黙が続いたあと――
トウヤが、前を向いたまま口を開いた。
「……一つ、言っておかなければならないことがある」
声の調子が変わった。
隊長としてではない、個人としての声音。
「マトリには、姉がいる」
玄弥の指が、わずかに強張る。
「……そうか」
「彼女は、生きている。
そして――君に、私怨がある」
はっきりと言い切られた。
車内の空気が、一段冷える。
「君を理屈で裁くことはしないだろう。
陰陽の理も、作戦も関係なく」
トウヤは、ようやく玄弥を見る。
「感情で来る」
玄弥は、すぐには答えなかった。
マトリの笑顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
助けられなかったこと。
結果として、死なせてしまったこと。
「……恨まれて当然だ」
「それでもだ」
トウヤの声が、少しだけ低くなる。
「彼女は四家の血を引いている。
実力も、発言力もある。
そして――君を“危険因子”だと最初から決めつけている」
『なるほどの』
葛葉が、静かに言う。
『それは厄介じゃな。
理屈が通じぬ相手ほど、面倒なものはない』
「だから警告した」
トウヤは、視線を前に戻す。
「これは命令でも、交渉でもない。
ただの忠告だ」
「……ありがとう」
玄弥は、短くそう言った。
車は、やがて高い塀の前で止まる。
古く、重く、そして――拒絶するような佇まい。
水瀬本家。
『ほう……』
葛葉が、ゆっくりと息を吐く。
『面白くなってきたではないか、玄弥』
玄弥は、塀を見上げながら心の中で答えた。
(ああ。
でも――ここからは、逃げない)
マトリの姉。
四家。
そして、自分の存在そのもの。
本家の門は、静かに開こうとしていた。
重い門をくぐると、広い庭が夕暮れに染まっていた。
古風な屋敷は、瓦屋根に白壁、木製の格子窓が並ぶ、昔ながらの佇まいだ。
庭には小道が敷かれ、石灯籠が点在する。
夕暮れの光が庭石を長く伸ばし、静寂の中に影を落としていた。
使用人たちが、玄弥とトウヤの到着に気づき、慌てて駆け寄る。
「おや……ご連絡もなく……」
眉をひそめる老婆の家政婦。
「今日は……当主様はいらっしゃいますか?」
トウヤが、車から降りながら穏やかに尋ねる。
使用人たちは顔を見合わせ、目を伏せる。
やがて一人が口を開く。
「……申し訳ございません。当主様は、夜に戻られる予定でございます。
それまではこちらでお待ちいただけますでしょうか」
玄弥は、葛葉を気遣いながらも一歩前に出る。
葛葉は、相変わらず人の目には見えない存在として、玄弥の後ろに控えている。
「……そうか」
トウヤは小さく頷き、門をくぐった。
夕暮れの庭園には、静かな緊張が漂う。
玄弥は心の奥で覚悟を決めた。
(これから会うのは、ただの当主じゃない。
マトリの姉……そして、自分を敵視する者だ)
葛葉は、彼の肩にそっと触れ、鼓舞するように囁いた。
『さあ、玄弥。我の目の前で、力を見せる時が来たぞ』
玄弥は息を整え、深く一歩を踏み出した。




