水瀬トウヤの葛藤
夜明け前。
陰陽部隊本部の執務室は、異様なほど静かだった。
机の上には、簡潔すぎる報告書。
《対象:西園寺玄弥
行動:部隊員三名を非殺傷で制圧
霊装使用あり/殺意なし》
水瀬トウヤは、何度目か分からない溜息を吐いた。
「……殺さず、か」
報告の文面は冷静だ。
だが、行間が語っている。
――あの少年は、敵意を向けなかった。
――それでも、圧倒した。
机に肘をつき、額を押さえる。
(まずいな……)
理屈では分かっている。
西園寺玄弥は危険だ。
封印された血筋。
九尾と関係を持ち、鵺すら退けた存在。
放置すれば、いずれ“均衡”を壊す。
それは、陰陽部隊――
いや、“四家”が最も恐れている未来だった。
だが。
(それでも、あいつは――)
ふと、脳裏に浮かぶ。
事情聴取のとき、
あの少年が、ぎこちなく頭を下げた姿。
「……マトリのこと、すみませんでした」
責任を負う必要など、どこにもなかった。
それでも、彼は謝った。
水瀬は歯を食いしばる。
(分かってるんだ……)
頭では理解している。
正義も、立場も、理屈も。
だが、心が――追いつかない。
そのとき。
机の上の端末が、静かに光った。
通信元:水瀬家・当主
嫌な予感は、確信に変わる。
「……はい」
通話を繋ぐと、
低く、威圧感のある声が響いた。
「トウヤ。状況は聞いている」
「……西園寺玄弥の件ですね」
「ああ」
一拍。
「――結論は出ている」
水瀬は、即座に答えられなかった。
沈黙を、当主は咎めない。
それ自体が、答えだと分かっているからだ。
「彼は危険だ」
淡々とした声。
「制御できぬ力は、いずれ禍となる」
「……まだ、未熟です」
思わず、そう返していた。
「本人に、害意はありません」
「だからこそだ」
当主の声が、僅かに冷たくなる。
「自覚なき力ほど、厄介なものはない」
水瀬は、拳を握りしめた。
「……保護、という選択肢は」
「ない」
即答だった。
「西園寺は凋落した。後ろ盾もない」
「――」
「今なら、消せる」
その一言が、胸に刺さる。
消せる。
排除ではない。
救済でもない。
消去だ。
「……部隊を、出せと?」
「いや」
当主は、静かに告げた。
「お前が判断しろ」
「……っ」
「お前は、水瀬家次期当主だ」
その言葉は、重かった。
個人としての水瀬トウヤではない。
将来の水瀬家を担う、“次期当主”として。
「感情で動くな」
「均衡を守れ」
「それが、お前の役目だ」
通信が、切れた。
執務室に残るのは、沈黙だけ。
水瀬は、しばらく動けなかった。
(……分かってる)
頭では、理解している。
これは正しい。
四家の論理では。
だが。
(それでも――)
あの少年は、
最後まで“人”だった。
妖怪を斬る力を持ちながら、
人を斬らなかった。
それでも、選択は一つ。
水瀬は、ゆっくりと立ち上がる。
窓の外、薄明るい空を見つめながら、
低く呟いた。
「……すまないな、玄弥」
誰に聞かせるでもない声。
そして――
端末を操作する。
《作戦命令:対象・西園寺玄弥
目的:排除
担当:陰陽部隊・主力》
指が、一瞬だけ止まる。
それでも。
送信。
光が消えた。
水瀬トウヤは、次期当主としての顔に戻る。
その胸の奥で、
何かが、確かに折れた音がした。
夜の学園。
人気のない中庭に、足音が一つ響いた。
「……やっぱり来たか」
玄弥は、振り返らずに言った。
背後から現れたのは、陰陽部隊の装束に身を包んだ男。
水瀬トウヤだった。
互いに、武器は抜いていない。
だが――空気が張り詰めている。
「逃げなかったんだな」
トウヤの声は、いつもより低い。
「逃げろって言われてない」
玄弥は肩越しに視線を向ける。
「それに……分かるよ」
「何がだ」
「俺が、もう“消される側”だってこと」
一瞬、トウヤの表情が歪んだ。
「……勘がいいな」
「嫌な方向でな」
玄弥は、ゆっくりと振り返る。
「水瀬さん。
あんた、俺に警告しに来た時点で、もう決まってたんだろ」
沈黙。
それが、答えだった。
トウヤは、深く息を吐く。
「……すまない」
その一言は、驚くほど素直だった。
玄弥は、目を見開く。
「謝るんだ」
「謝るさ」
トウヤは、まっすぐ玄弥を見る。
「君は、何も間違っていない」
「……」
「妖怪を斬る力を持ちながら、人を斬らなかった」
拳を握りしめる。
「それでも――それでもだ」
声が、わずかに震えた。
「君が“危険”だと判断された」
「四家の、当主会議?」
「……君は知らなくていい」
トウヤは首を振る。
「いや、知らないままの方がいい」
玄弥は、しばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「マトリの時も、こうだったな」
トウヤの瞳が揺れる。
「誰かが“正しい判断”をして、
結果だけが残る」
「……やめろ」
「分かってる」
玄弥は、静かに言った。
「水瀬さんが悪いって言いたいわけじゃない」
ゆっくりと、腰の刀に手をかける。
「でも――俺も、消される理由を飲み込めるほど、出来た人間じゃない」
トウヤは、目を閉じた。
一瞬だけ。
そして、開く。
そこにはもう、迷いはなかった。
「……戦うしかない」
「ああ」
玄弥も、刀を抜く。
白い霊装が、淡く輪郭を現す。
「殺す気はない」
「分かっている」
トウヤも、札を構えた。
「こちらも、極力そうする」
その言葉が、どれほど空虚か。
二人とも分かっていた。
「――行くぞ、西園寺玄弥」
「来いよ、水瀬トウヤ」
夜気が、爆ぜる。
霊力が、衝突する。
謝罪は終わった。
ここからは、敵同士だ。




