戦い、そして
日下部は、医務室の簡易ベッドに横になっていた。
顔色はまだ悪い。だが、呼吸は落ち着いていた。
「……悪かったな」
ぽつりと、日下部が言った。
天井を見つめたまま。
「調子に乗ってた」
「強くなりたいって……それだけだったのに」
「分かってる」
玄弥は、椅子に腰かける。
「俺も、同じだったから」
しばらく、沈黙。
「……助けてくれて、ありがとう」
日下部は、そう言って目を閉じた。
玄弥は、静かに立ち上がる。
「無理するな。しばらく、休め」
扉を閉める。
廊下は、すでに夜の気配だった。
⸻
日下部と別れたあと玄弥は、一人で夜道を歩いていた。
街灯が、一定の間隔で道を照らしている。
人通りは少なく、車の音も遠い。
(……妙だな)
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついていた。
「葛葉」
「分かっておる」
背中側で、葛葉が静かに答える。
「後ろじゃな」
玄弥が立ち止まった、その瞬間。
――街灯が、ひとつ消えた。
パチン、という乾いた音。
続けて、もう一つ。
闇が、道の端から滲み出す。
「……来たか」
振り返る。
影が、立ち上がっていた。
人の形をしているが、輪郭が揺れている。
地面に落ちる影だけが、異様に濃い。
「逃がした器は惜しかったが……」
あの声だった。
日下部の中から聞こえてきた、あの妖怪の声。
「代わりは、もっと上等だな」
玄弥は、静かに息を吸う。
「俺を狙ってたのか」
「最初からだ」
妖怪が、一歩近づく。
足音が、二重に響く。
「九尾と契約し、なお人の身を保つ」
「実に、気に食わん」
葛葉が、低く唸る。
「……しつこいのう。器を失った恨みか?」
「違う」
妖怪は、嗤った。
次の瞬間、影が弾けた。
⸻
地を蹴る。
速い。
玄弥は即座に霊力を脚に流し、横に跳ぶ。
――ガンッ!
妖怪の爪が、街灯の支柱を叩き折った。
倒れる音が、夜に響く。
「ここで戦うつもりか?」
妖怪が、楽しそうに言う。
「悲鳴も、助けも来ぬぞ」
「それでいい」
玄弥は、構えを取る。
「誰も、巻き込まない」
「ほう……」
妖の目が、細くなる。
妖気が周囲を包み空気が、冷える。
「今度は、引き剥がす必要もない」
妖怪が、低く告げた。
「――喰らうだけだ」
「玄弥」
「分かってる」
一歩、踏み出す。
街灯の残骸が、二人の影を歪める。
帰り道だったはずの場所は、もう戦場だった。
⸻
妖怪は、もう隠す気がなかった。
人の形をしていた輪郭が、ゆっくりと歪む。
腕が長く伸び、影が地面を這う。
「……これが、本来の姿か」
「ほう、まだ冷静でいられるか」
妖怪が、低く嗤う。
「だが、それも――」
消えた。
「――っ!?」
次の瞬間、背後に現れる。
反応が、半拍遅れた。
衝撃。
玄弥の身体が、地面を削るように吹き飛ぶ。
「ぐ……っ!!」
背中を強く打ち、息が詰まる。
起き上がろうとした瞬間、影が落ちた。
「遅い」
妖怪の爪が、振り下ろされる。
玄弥は咄嗟に霊力を盾として前へ出す。
――バキッ。
霊力が、砕け散った。
「な……!?」
「甘いな」
「九尾の力を借りたばかりの身で、ワタシと渡り合えると思うな」
腹部に、重い一撃。
「がはっ……!」
視界が、揺れる。
一歩。また一歩。
妖怪が、距離を詰める。
「どうした、人間」
「さっきまでの威勢は、どこへ消えた?」
玄弥は歯を食いしばり、霊力を引き上げようとする。
だが――
「……っ」
霊力が乱れる。
胸の奥に嫌な痛み。
――呪いだ。
使いすぎた霊力に反応して、内側から締め付けてくる。
「……なるほど」
妖怪が、気づいたように笑う。
「縛りが残っているのか?‥呪いか?」
影が、玄弥の足元から絡みついた。
「ぐ……っ!」
動けない。
「これが、現実だ」
妖怪が、顔を近づける。
「人は、人のままでは――」
拳が、振り上げられる。
「玄弥!」
葛葉の声が、鋭く響いた。
「意識を切らすでない!」
視線を上げる。
妖怪の拳が、止まっていた。
「……?」
一瞬の、違和感。
「チッ……九尾が邪魔をするか」
影が、さらに強く絡む。
玄弥は、膝をついた。
視界が、暗くなる。
(……まだ……)
まだ、終われない。
だが今は。
完全に、追い詰められていた。
「安心しろ」
妖怪が、見下ろす。
「すぐには殺さぬ」
「絶望を、味わわせてからだ」
⸻
夜風が、冷たく吹き抜けた。
影が足元から這い上がり、逃げ場を塞いでいる。
霊力を引き上げようとしても、うまく巡らない。
胸の奥で、呪いが鈍く軋んでいた。
(……まだ、足りない)
その時。
葛葉の声が、静かに響いた。
「玄弥」
いつもの軽さが、ない。
「……聞くのじゃ」
妖怪が、一歩近づく。
その足音が、やけに大きく聞こえた。
「このままでは、負ける」
葛葉の声は、冷静だった。
「命を取られるやもしれぬ」
「……分かってる」
「じゃが」
一拍。
「まだ、道はある」
玄弥の視線が、わずかに上がる。
「何をする」
「九尾の尾を、顕現させるのじゃ」
その言葉に。
玄弥の心臓が、強く打った。
「……それは」
九尾の力を、より深く引き出す。
それが何を意味するか、分かっている。
「制御も、できないのに」
「呪いも……」
「やむを得んのは承知の上じゃ」
葛葉の声は、いつになく厳しかった。
「じゃがな、玄弥」
「今は"勝つか死ぬか"の場じゃ」
妖怪が、苛立ったように舌打ちする。
「何をこそこそと話している」
「終わりだと言っているだろう」
影が、さらに濃くなる。
玄弥は、拳を握った。
手が、震えている。
(……怖い)
自分が、自分でなくなるかもしれない。
力に呑まれるかもしれない。
それでも。
「……もし、暴走したら」
玄弥は、低く言う。
「止められるか?」
葛葉は、即答した。
「止める」
「九尾の名に懸けて」
その一言で、決まった。
⸻
玄弥は、ゆっくりと背筋を伸ばす。
「……やる」
霊力を、内側へ。
さらに深く、沈める。
胸の奥で、何かがほどける感覚があった。
妖怪が、眉をひそめる。
「……何をした」
答えは、形となって現れた。
玄弥の背後。
淡い光を纏った霊力が、夜に揺らめき――
一本の九尾の尾が、ゆっくりと顕現した。
空気が、変わる。
重圧が、妖怪の側へと押し返される。
「……ほう」
妖怪が、低く笑う。
「それが、九尾の力か」
「‥一本だけじゃ」
葛葉の声は、静かだった。
「一分以上は保たぬ。命に関わる」
だが。
「――ここからが、本番じゃぞ」
玄弥は、立ち上がった。
膝の震えは、もうない。
恐怖は、消えていない。
だが、それを越えるものがあった。
一本の尾が、夜に静かに揺れている。
妖怪の笑みが、わずかに固まった。
――戦いは、次の段階へ踏み込んだ。




