水は流れる
朝の霊術学院は、思ったよりも静かだった。
訓練前の時間帯。
生徒たちはそれぞれの準備をしながら、三々五々に散っている。
俺――西園寺玄弥は、いつもより少し早く訓練場に来ていた。
理由は単純だ。
尾の代償は、まだ抜けきっていない。
『今日も、術は最小限にしろ』
葛葉の声が、頭の奥で淡々と告げる。
「分かってる。
昨日も言われたから」
『理解しているならよい』
そう言われながらも、
霊の感覚が消えないことが、逆に落ち着かなかった。
視える。
感じる。
ほんの少し前まで、想像すらできなかった世界。
それが、今は当たり前のようにそこにある。
「……変な感じだな」
呟くと、背後から声がした。
「あ……あの……!」
振り返る。
そこに立っていたのは――
水瀬マトリだった。
学院の制服。
胸元の徽章が、朝の光を反射している。
彼女は一度深呼吸をしてから、
意を決したようにこちらを見た。
「お、おはようございます……!」
「……おはよう」
正直、少し驚いた。
彼女の方から声をかけてくるとは、思っていなかったからだ。
マトリは、少し距離を保ったまま立っている。
近づきたいけど、踏み出せない――そんな感じだ。
「……その……」
言葉を探している様子。
俺は、急かさず待った。
「……昨日のこと、ちゃんとお礼が言えてなくて」
「ああ……」
あの森のことだ。
「別に、気にするな。
たまたまだし」
そう言うと、マトリは小さく首を振った。
「……たまたま、じゃないです」
意外と、はっきりした声だった。
「私……何もできなかったのに……
それでも、守ってくれて……」
言葉が、少し震える。
「……ありがとうございました」
深く、頭を下げる。
その仕草が、胸に刺さった。
「……顔上げろって」
苦笑しながら言う。
「助けた、って言うほどでもない。
正直、いっぱいいっぱいだった」
「……それでも、です」
顔を上げた彼女は、
まだ不安そうだけど、ちゃんと俺を見ていた。
『……ほう』
葛葉が、面白そうに呟く。
『この娘、逃げていないな』
俺も、そう思った。
◆
二人で、並んで歩く。
それだけなのに、妙に緊張する。
訓練場の端にあるベンチに腰を下ろすと、
マトリは少し距離を空けて座った。
「……西園寺くんは……」
「玄弥でいい」
反射的に言う。
彼女は、少し驚いた顔をしてから、
小さく頷いた。
「……玄弥くんは……
その……霊が……」
言いづらそうに、言葉を濁す。
「使えるようになった、って……」
「噂、広まるの早いな」
苦笑する。
「まあ……完全じゃないけどな」
「……でも」
マトリは、ぎゅっと制服の裾を掴んだ。
「それでも、戦ってました」
あの時のことを、思い出しているんだろう。
「……怖くなかったんですか」
不意に、そんなことを聞かれた。
少し考える。
「怖かったよ」
即答した。
「今でも、正直怖い」
マトリは、目を瞬かせる。
「……え」
「霊を扱えるようになったからって、
強くなったわけじゃない」
尾の代償。
刺客の存在。
「むしろ、前より怖いことが増えた」
マトリは、少し俯いた。
「……それなのに……」
「それなのに?」
「……どうして、逃げなかったんですか」
その問いには、少しだけ迷った。
答えは、いくつかある。
でも。
「……あの場で逃げたら、
たぶん、ずっと後悔すると思った」
それだけを、選んだ。
マトリは、しばらく黙っていたが、
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……私」
声が、小さい。
「怖いと……体が動かなくなるんです」
初めて聞く、彼女の本音。
「水瀬家の娘なのに……
情けないですよね」
「そんなことない」
即座に言った。
「……それでも、今ここに来たろ」
マトリは、驚いたように俺を見る。
「それって……」
「怖いのに、来たんだ」
それは、戦うことよりも難しい時がある。
『……良いことを言う』
葛葉が、珍しく感心したように呟く。
◆
昼休み。
食堂で、二人並んで座る。
周囲の視線が、ちらちらと刺さる。
――西園寺玄弥が、誰かと話している。
それも、水瀬家の娘と。
そんな空気。
正直、落ち着かない。
「……迷惑じゃないですか」
マトリが、ぽつりと言う。
「私と一緒にいると……
色々、言われるかも……」
「今さらだろ」
肩をすくめる。
「俺は、前から色々言われてる」
マトリは、一瞬ぽかんとしてから、
くすっと小さく笑った。
「……それ、強いですね」
「褒めてる?」
「……はい」
その笑顔を見て、思う。
彼女は、少しずつだけど、確実に変わろうとしている。
◆
別れ際。
校舎の前で、マトリが立ち止まった。
「……あの」
「ん?」
彼女は、一度拳を握ってから、
まっすぐ俺を見た。
「……次、危ないことがあったら……」
言葉が、少し震える。
「……私も、できること……します」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「無理はするな」
「……逃げません」
小さいけど、はっきりした声。
それを聞いて、俺は頷いた。
「……じゃあ、一緒に生き延びよう」
マトリは、少し目を見開いてから、
ゆっくりと、笑った。
「……はい」
水は、流れる。
止められても、怖くても、
自分から動いた瞬間、もう止まらない。
そのことを、俺は――
彼女から教えられた気がした




